記憶
……14年前の『あの日』、俺は退屈していた。
夏は長期休暇の中盤、親の帰省に付いて行った俺は母親の実家、つまり祖父母の家に居た。
元々は俺が行く予定はなかったのだが、妹が俺と一緒がいいと駄々を捏ねたのだ。
そう言って貰えるのは当時の俺としても兄冥利に尽きる、と思って嬉しいとは思ったが何せ中学2年生。兄妹より友達仲を優先する歳頃だ。当然、説得しようとした。遊びの約束もあったし。
前記の通り、それは失敗して俺は暇していたのだ。
何故ならば、祖父母の家は、まあ、所謂田舎と呼べる場所にある。つまりは何も無いのだ。
当時の俺は明るくて、元気でおよそ世間一般的な中学生だったと思う。
要するに、そんな元気っ子な少年が田舎の、それも取り分け何もない所で何が出来るのかという話だ。
さらに言えば当然、友達なんかいないし、本を読むタイプでもなかった。ゲーム機もその当時にはまだなかった。
そんなアウェーな場所で、嬉しかったとは言え無理矢理連れて来られたという意識が強かった俺は不貞腐れながらうだうだと退屈を感じていたのだ。
孫を可愛がってくれるはずの祖父母はその時居なかった。母親と一緒に出掛けてしまったのだ。
「暇だ……」
傍目から見ても凄くうざかったことだろう。だがそんな俺を妹は何が楽しいのかニコニコしながら見ていた。
俺がアウェーな状況であるのと同じように、妹もまた俺と同じ状況、状態であるはずなのだが……違いは何だったのだろうか。
『……ねえ兄さん、遊びに行かない?』
そうやってゴロゴロ、うだうだしていると妹が遊びに誘ってきた。
しかし当時中学生、中途半端な社会性を身に付けた少年は言いつけを破るだけの度胸も反抗心も持ち合わせていなかった。
そう、俺たちは母親から『家で大人しく待っているように』と言われていたのだ。
まあでも、やはり気になってしまうのは必然な訳で、俺は尋ねていた。
「遊びに行くたって、ここ何もないぞ?」
『わたしぃ、知ってるんだぁ♪』
「何を?」
『秘密の場所、兄さんにだけ特別だよ?』
いっそあざといくらいの表情、声音でそう言う妹の言葉に興味を惹かれたのは間違いない。思春期の男なんてやれ秘密だの、隠されただのそんな言葉に弱いのだから。
それ以上に『俺にだけ秘密』という文言に頰がにやけそうになっていたのは秘密である。
だが、母親の言いつけが引っかかった。
言葉通りなら外に出るなという事になる。それを守らなければと思ったのだ。
それを見透かしたように妹は畳み掛ける。
『お母さんには秘密にしていれば大丈夫だよ』
迷っていた、だがそれでは押しが弱かった。
やはり家で遊んでいよう、そう言おうとした時、被せるように妹が『とっておき』を言い放つ。
『ダメ、かな? お兄ちゃん』
「…………」
俺はそれが罠だと知っている。
いかに上目遣いで涙目だろうと、それはあざとい嘘だと。過去何度か同じ手で泣きを見ている。
それでも俺はその言葉には逆らえない。
妹は『お兄ちゃん』などと可愛らしく俺を呼ばない。今思い返せば最初からそうだったような気もする。
とかく、そんな貴重かつ愛らしい言葉は何よりも俺に効いた。
母よりも優先し、迷っていた判断を決めてしまえるほどには。
つまり、『俺の妹メッサカワイイ』という事だ。
「……はあ、チャチャッと行ってさっさと帰るぞ」
だから、俺は頷いてしまったのだろう。
それがどんな結果になるかも考えもしないで。
■□■□■
家を飛び出してからそれなりに経った。
山登りとまではいかないまでも、それなりの距離を歩き、時には獣道すらも通ったが前を行く妹の足は止まらない。まだ着かないのだろうか。
時間が経つに連れ、母にバレはしないかと不安と焦りを感じていた。
不安はそれだけではない。あろうことか秘密の場所などあるのだろうかと、妹を疑い始めていたのだ。
ただ自分を連れ立って外で遊びたかっただけではないのか? 妹に危険な道を歩かせていいのか? そもそも何故自分は頷いてしまったのか。
頭が答えの出ない問いをぐるぐると考え始めていたその時。
「着いたよ、兄さん……」
少し声に疲れが感じられる。やはり疲れていたようだ。それが余計に俺を苦しめる。
頭を振って、それまでの鬱々とした思考を切り替える。
果たして妹に連れられて辿り着いた場所は、崖だった。
周りを見渡せば木々が生い茂っている。正直ここがどこなのか分からなかった。どこか遠い場所にいる様な気もする。
しかし、切り立った崖から下を覗けば、ここ数日で既に見慣れた一面田畑の何もない風景がある。
「見てて? すっごくキレイだから!」
楽しげに弾ませた声を出す妹は、一瞬でも逃してなるものかと食い入る様に前を見ていた。
着いた時に前を見たが、そこには厳かに構える連峰が見えただけだった。
そういえば今は何時だろうか。結構な時間が経った様に思う。それこそ、夕日が見えるくらいには。
今まで着けていることを忘れていた腕時計の存在を思い出し、時間を確認する。時刻は午後5時を過ぎた頃。
家を出たのが3時ぐらいだったはずだから2時間は歩いていたことになる。
そんな事を思っていると服が引っ張られる感覚がした。そちらに顔を向けると目の前に見惚れながらも早く見ろと言わんばかりに服を引いていた。
なんとなく、見せたかった物の正体を察しつつ妹に倣って前を見る。
なるほど、確かに綺麗だった。
山に囲まれ、地も空も見せぬと言わんばかりにその高さを主張する高層建築物が無い田舎町だからこそ見られる景色だろう。
言いつけを破ってまで来た甲斐があったと、最後まで迷い、焦っていた己の心にそう思わせるには充分な代物だった。
田圃ばかりが連なる大地より少し高い切り立った崖から見える連峰に溶け込むように入って行く夕日、その夕日に照らされてより一層神々しく見える。
「ね? 言った通りでしょ?」
「ああ、そうだな」
予想は付いていたがこの絶景を見て俺に出来たのは首肯することだけだった。
暫くは2人で沈み行く夕日をただ呆然と眺めていた。
やがて夕日が連峰に消えた。
美しさの余韻に浸っていたが、ハッとして時間を確認すると午後7時を過ぎていた。既に母親たちが帰って来ていてもおかしくないような時間だ。
「じゃあ帰ろうか」
俺がそう声を掛けると妹は少し剝れた顔をしていた。
言われなくとも分かる。これは感想を聞きたがっているのだろう。正直今はそれどころではないのだから勘弁して欲しい。
「ちょっと! 何かいっ–––」
妹が苦情を立てている途中で何かが飛び出して俺たちを襲ってきた。
何とか妹を巻き込むように倒れて回避出来た。咄嗟のことで足が絡まっただけだったがそれが功を奏したみたいだった。
弾む心臓を感じながら顔を上げると獣がいた。今まで図鑑やテレビでさえ見たこともないような獣だった。
それは本能的な恐怖を呼び起こすには充分な不気味さがあった。その獣を見た瞬間、恐怖で体が縛られ、呼吸さえ満足に出来ない。
嘘だ、なんで、どうして、ナゼ? こいつは何なんだ、意味が分からない、怖い、逃げなきゃ、助けて、タスケテ、たすけて–––。
違う! 違うだろ! 妹を、–––を助けなきゃ……逃がさなきゃ!
そう決意した時、下敷きになっていた妹が腕の中から飛び出し獣とは反対方向、崖に一直線に走り出した。
「–––!」
獣もその後を追う。遅れて俺も妹を追いかける。
間に合え! 間に合え!!
懸命に足を動かし、手を伸ばす。もう獣のことなど見えていなかった。
そして–––そしてとうとう妹が足を踏み外し崖から落ちた。
世界がスローモーションに変わる。落ちる妹に手を伸ばすが一向に届かない。
それでも俺は体を動かす。限界を超えている感覚すらあった。
懸命な想いが通じたのか、或いは奇跡が起こったのか。
指が触れた。後もう少し、あとほんの少し詰めるだけで届く。
そう願い、痛みすら発している体に最後の無茶を聞かせようとした時、後ろから押された。
忘れていた。何故こうなったのかを、奴の存在を。
俺は崖から落とされたのだ、獲物を狩るはずの獣に。おかしい、あり得ない。思考がどんどん真っ白に染まっていく。
落ちる寸前に条件反射的に見たそいつの顔はどこか、笑っていて、楽しんでいるようにも見えた。
落ちている、頭は真っ白だ、それでも目の前は見えていた。俺より前で、下で落ちている妹が見えていた。
何も考える必要なんてない。まだ続いているスローモーションの世界で俺はまだ手を伸ばす。なんとか妹だけでもと。
気づけば地面はもう目の前だった。元々そこまで高くはなかったのだから必然的に落下時間も短くなる。
これでは自分も助からないかもしれない。それでも俺は諦めず足掻き続けた。
いよいよ地面にぶつかり意識を失う。
そして俺がぶつかる寸前、最後に見たものは、目を瞑り涙を零していた妹の顔だった–––。
■□■□■
その後は、ひたすら病院で寝たきりの日々だった。
結局、俺は妹を助けられずに死なせて、挙句俺は先に落ちていた妹のお陰で一命を取り留めたという……。
ふざけるな!!!
なんで俺が生き残った! なんで助けられなかった! 何がお陰で、だよ! 妹を死なせてまで得た命なんて必要ないんだよ!! そもそもお前が! 俺が! あの時頷かなければ! 妹を説得していれば! それだけで済んだ話だろうが! 何が『逆らえない』だ! どうして!
怒りが、情けなさが、悔しさが、憎しみが、痛みが、後ろめたさが、憐れみが、悲しみが、頭と心を締め付ける。荒れ狂う心を鎮める術を俺は知らない。
今までは……忘れていたから。
あの日の後、心配した親が捜索隊を出して見つけてくれたらしい。
目が覚めた時には既に病院で寝たきりだった。
諸々の検査が終わって落ち着いた所で妹が死んでいたと聞かされた。
そのショックで完全に意識をシャットダウンして、1年ほど人形のように虚ろだったそうだ。
2度目に目が覚めた時には記憶を失くしていた、いや消していたんだ。ご丁寧に妹の記憶だけを。
それは脳の防衛機能でもあったのかもしれない、これ以上壊れないように厳重に心の奥底に閉じ込めたのだろう。
母さんと親父も妹に触れようとしなかった。
多分もう子供を失いたくなかったのだろう。まるで、初めから存在していなかった様に俺に接していた。
そして記憶を消したまま、胸に違和感を抱えたまま時を過ごした。
最終的には親やその他の事すらも忘れるようになっていた。それでも変わらず接してくれていた両親には感謝しか出ない。
ついぞ怪我が治ることはなかったが、むしろそれでいい。
母さんと親父には悪いけど、やっぱり俺は生きているべきではなかったのだ。それが俺の勝手な思い込みでも。
胸の違和感は日に日に増していく一方だったが、その時の俺は幸せだった。少なくとも俺はそう感じていた。
親の呼び方を高校生くらいの歳になって変えたりしてそれを家族で笑ったり、色々な場所に連れて行ってもくれた。
結局、最後までありがとうもロクに言えなかった。どうして最期に言えなかったのか、後悔は募るばかりだ。
全く、なんて親不孝者なのだろう、俺は。
自分の一生を振り返っていると、突然周りの何かが変わった感じがした。マラソンのラスト一周に入った様な、そんな感覚が。
暫くして光に照らされる感覚が全身を巡る。
もう直ぐ終わりの時が近いのだろう。
例え不幸と絶望に彩られた記憶だとしても、『あの日』を思い出せて、良かった。
一度あることは二度ある、歴史は繰り返す、と言うし折角の機会だ、忘れないように誓いでも立てよう。
馬鹿は死んでも治らないと言うが、俺は一度死んだ馬鹿だ。なら忘れないだろう。
他の何を忘れてもこれは忘れない。この誓いだけは。
□■□■□
大丈夫。
俺はこの痛みを忘れない–––。
俺はこの苦しみから逃れられない–––。
それでいい、それがいい。
俺は俺を許さない–––。
俺は俺を殺さない–––。




