8.忘却
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吸血鬼、ヴァレン・スティルスが持ち上げている年若い男がゆったりとした動きで目を開ける。
「良かった少年、生きて––––」
「……お前は、誰だ」
「ん? –––ッ!!」
の言葉は途中で終わった。否、終わらせざるを得なかった。
今まで感じたことのない悍ましい寒気がしたからだ。反射的にスティルスは少年と呼ぶ男を投げ捨てていた。
そうしなければ死ぬと本能が伝えていた。本来死と最も遠い存在の吸血鬼であるはずの彼が、あり得ないことに死を感じ、それらを理解するより速く本能に従っていた。
それは彼の生きてきた中で最も素早い動きだったろう。掴んでいた物を遠くへ投げるというたったそれだけの動作を永遠の様にも感じながらとった行動は掴んでいた物を破壊しかねないほどであった。
それでもなお、間に合わなかった。あるいはだからこそ間に合わなかった。
遠くへ追いやることに成功し興奮状態から少し落ち着いたスティルスは、腕の先から違和感を感じた。
つぅ、と額から雫が流れる。
両の腕を辿る様に確認した彼は感じる違和感の正体を知る。手首から先、男を掴んでいた部分が綺麗さっぱり無くなっていた。
「なんだ! 何が起こったという!?」
理解不能だった。
自分の手が無くなっていることも、今自分が感じている感情も、突然気配の変わった少年も、自分ですらタダでは済まないような飛ばされ方をして当然のように生きていて、しかも近くにいることも全て理解不能だった。
「……もう一度聞く」
前方から聞こえた声に弾かれたように顔を向ける。
するとそこには、腕も脚も失ったはずの男が起き上がってこちらに近づいて来ていた。
「お前は、誰だ」
問いかける声は淡々としていて、同じ目線で見えるようになった顔には何の表情も浮かんでおらず、彼の全てに一切の感情を感じられない。
まるで今までとは全くの別人が新たに現れたかのようだった。
「君は、一体なんなんだ……」
スティルスは彼からの質問に答えず、いや、答えられずにただ聞き返すだけだった。
それを聞いた彼は何を答えるでも、何を気にするでもなく、顔色一つ変えずただ興味を無くした様に辺りを見回した。
そしてある方向で止まった。
そこには男の妹である一人の少女がいた。
しかしその表情は変わらず、本当に別人なのではないのかとスティルスは思い始めていた。
「お前は、誰……いや、お前は……」
この時始めて男の顔が歪んだ。
宛ら思い出そうとしているようにも見える。
それを見てかまだ気怠く感じる体を無視し、少女は立ち上がると兄の元へと駆け寄る。
「お兄ちゃん? どう、したの? 腕も脚も無くなってたのに……ううん、そんなことはいいの。大丈夫、なんだよね? 立って歩いてるもんね。ねえ、お兄ちゃん? 返事して?」
捲し立てるように少女は兄である男に話しかけるが、それを受けても男の表情は変わらず、感情が無いように見える顔を歪めたままだった。
一方的に話しかけ、それを無視しているようにも見える光景だったが、男が苦悶の顔を更に強める。
「……ふ、た……ユ、イ?……クソ」
男が初めて感情らしい感情を見せる。
対して少女は瞳に浮かべた涙を更に滲ませ再び話しかける。
「そうだよ、ユイだよ? ねえ、どうしたのお兄ちゃん?」
必死に呼びかける少女の声に男はまた顔を歪ませ、手で顔を覆った。
手を外し腕を下げた頃には先ほどの苦悶が嘘だったかのように無表情に戻っていた。
「お兄、ちゃ–––かはっ」
立ち去ろうと背を向け歩きだす男に手を伸ばした少女だったが、しかしその手が届くことはなかった。
伸ばされた腕の隣、心臓部から少女の手よりもふた回り大きな、しかし少女と同じ、もしくはそれ以上に美しい手が血を付着させ生えていた。否、背後から貫かれていた。
少女が語りかけている間にスティルスは無くなっていた手を再生していたのだ。
肉を抉り貫く不快な音を聞いてか男が歩みを止め振り返る。
妹の死を目撃したというのにその顔に変化はない。
「兄妹愛の次は家族愛かな? それにしては少年の反応は酷かったが……しかし君の妹はとてもいい、全身に力が漲るようだ。こんなに美味しい人は初めてかもしれないなぁ」
動きの止まった少女の首へ牙を立て血を吸ったスティルスは言う。
そこには先まで感じていた感情はもう無い。そこにあるのは蹂躙者として自信に溢れる力強い顔だけだった。
これが本来の自分であるのだと言い聞かせるように少女を喰らった感想すら述べるスティルスは確信していた。
やはりあり得ないことだったのだと。
吸血鬼である自分が、まして真祖でさえある自分が人間、それも(どうやって治したのかは分からないが)死にかけていた人間ごときに恐怖を感じていたなどただの気の迷いだったのだと。
「フフフ、ハハハハハハ! そうだ、この私が! 脆弱で! 愚劣で! 愚かで! 食料でしかない人間に! 万が一にも怯えるなど、あり得るはずがない! あっていいわけがない!」
スティルスは自覚なく自分に言い聞かせていた。
必死の形相で叫ぶスティルスは男が動いていたことに気づかなかった。
突き刺したままだった腕に何故か痛みを感じるので見てみれば食料はおらず、ついでとばかりに再生させた手を含めて、少女に突き刺していた腕が無くなっていた。それは宛ら意趣返しのようだった。
気配の感じるままに後ろを振り向くと|食料<少女>が男に抱き抱えられてそこにいた。
そしてスティルスは異常に気づく。
男の腕と足が変色していた。毒々しい暗い紫に見えれば、暗闇のような真っ黒にも見える。少なくともスティルスに見えたのは毒のような紫だった。
更にその表面には紋様のように何かが見えた。それは今まで見てきた全ての魔物のようにも見えるが、しかし全く知らない何か別の魔物にも見える、そしてそれは少なくともスティルスがその長い一生で見たことがないと言い切れるモノだった。
仮にどう言えばいいのかと言えば、獣のようだとスティルスは言うだろう。
そしてその変色した腕から流れこむように男の腕から少女の肉体へと紫の何かが移っていく。
男の腕と同じ色に変わった少女の肌を見てみると、そこにあの獣は浮かんでいなかった。
「……そう、か。妹がいたのか、俺は」
男が初めて思い至ったような声音と顔で呟く。
これを聞きスティルスは一つの可能性を思いつく。いや最早確信していた。
彼は記憶を失っているのではないか、と。しかしそうなった原因も、どうしてそうなったのかも全く思いつかず、むしろ、より一層謎と不気味さを強めただけだった。
「ああ、まったく、頭が痛い。なぁ、あんた、あんたは一体、誰なんだ–––」
これまでで最も強く本能が警鐘をならしたことを感じたスティルスの体は後ろに思いっきり跳んだ。反射のようなものだった。
先まで自分が立っていた場所が紫に変色し、その数瞬後には地面が消えていた。
どういう原理なのか、少なくとも魔法ではない、スティルスにはそれだけしか理解出来なかった。
理解出来なかったが、それを理解した時スティルスは漸く自分が恐怖していることに気づく、いや受け入れざるを得なかった。
自惚れでも誇張でもなく己の実力が高いことがそれを後押ししていた。
「あんたを見てると無性に腹が立つ。妹を見てからは余計イライラする」
「……なら、なら一体どうするというのかな?」
「さあ? 取り敢えず殺してみれば分かるかもな」
狩る側から狩られる側へ、スティルスは今まで味わったことのない感覚に戸惑いさえ忘れていた。
圧倒的強者として君臨していたことがスティルスの判断を、実力を鈍らせた。
男から目を離していなかった、しかし今スティルスの目に写っていたモノは男でも屋敷でもなく、訳の分からない、あの獣だった。
その獣がその凶暴な牙でもってスティルスを喰らう。
追い込んでいたのは自分ではなく、ましてあの兄妹でもなく、この獣で私は追い込まれていたのか。
スティルスが消えゆく刹那に考えていたのは未練でも後悔でもなく考察だった。
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見知らぬ男が消えた。いやその表現は正しくない、イラつく男を喰らったのだ。
何故、という疑問はどうだっていい。
明らかに情報が足りていない現状において、その疑問は最も優先度が低い。
倒れている少女、妹に目を向ける。
その姿は穏やかで動きがない。まるで死体のようですらある……違うか、実際彼女は死んでいる。
自然と蘇生の手段を残していただけで、殺されたことに変わりはない。
妹に近づき左胸、心臓部に手を置く。
あの男を殺すために周囲に撒き散らすことになった分も合わせて妹の全身に満遍なく行き届いた呪いを纏めて回収する。
人が死ぬ程度の痛みを感じるが何という事は無い、少し痛いだけだ。
その甲斐あってか妹が受けた傷は全て消えた。腕が貫通していた胸は塞がり心臓も元どおりだろう。血液は知らないがまあ、見た感じ大丈夫だろう。
牙を突き立てられていた首も含めて、恐らく元の美しい姿に戻っているはずだ。
生憎と元の姿が分からないので何とも言えないが、これでいいと思っているのだし別に構わないだろう。
などと思っていると妹が目を開いた。
「ここは……私、どうして? ……そうだ、お兄ちゃんは–––」
起きて早々忙しない妹だ。
一言二言呟いたかと思えば慌てて起きだして、辺りを見回したかと思えば俺をずっと見つめている。
「お兄、ちゃ、ん?」
「ああ、そうらしいな」
そして瞳に涙を浮かべ出した。
はて、何か対応を間違えていただろうか。尤も間違えていてもどうしようもないのだが。
というかこの少女が本当に妹なのかどうなのかすら未だに分かっていない。反応を見る限りはそうなのだろうけど。
抱きつこうとした妹がその動きを止めたのが見えた。
「お兄ちゃん? どうしたの? その、手足……」
手足? ああ、そういえばそれっぽく見せているが無かったのだったか。
どちらを言っているのだろう、無い事か、見えている腕の事なのか。まあ、聞けば良いか。
「手足がどうした」
「だって、それ、真っ黒……」
「それはそうだろう、手も足も生やしているのだから」
目の前で息を飲む音が聞こえた。
そんなに衝撃的なことなの……だろうな、そういった感性を今の俺は持ち合わせてはいないが。
弾かれたように回復魔法をかけ始める妹だが、全く効果がないことに次第に元気を失い、嗚咽を混じらす。
とうとう嗚咽を漏らし涙を流すだけとなった段階で声をかける。
「そんなことより、体に異常はないか、何かあるようなら医者に行った方がいい」
「い、じょう? ……そういえば、私、なんで、生きて?」
「それは誰かが何とかしたんだろうさ、何ともないようでなによりだ」
「まさか……お兄ちゃんが?」
まあ、察するか。
確かに、でなければ誰だというのか、自分でも聞いてみたいところだ。
一人考えていると、心臓の辺りがざわつき出す。漸く来るらしい。
「でも、どうやって? お兄ちゃんは回復魔法なんて–––」
妹の言葉の途中で俺の体、首と胸、そして口から血が噴き出す。
首に穴が空き何か––まあ、血液なのだが––が塞ぐようにそこから出て行く。
心臓が抉れ、胸はぽっかりと穴が空く。当然そこからも血が噴き出す。
そう、まるで先程までの妹のように。
しかし痛みはない。それは最初に来ている。
妹は目を見開き固まっている。え? え? とただ繰り返すのみだ。
暫くしてその全てが消えてゆく、まるで初めから無かったかのように。
そして呪いが深まり、毒々しい暗闇が両の腕と脚から僅かに迫り上がってくる。
「……お兄ちゃん!? お兄ちゃん!!」
「騒ぐな、心配しなくても聞こえてる」
「でも、でも!」
何だか少し煩わしくなってきた。
妹というのはこんなものなのだろうか? まあ、考えたところで答えなぞでないのだが。
ともかく妹と一緒に行動するのは止めた方がいいだろう。
一人でどこかに行ってくれれば助かるのだが、そう上手くはいかないだろう。
「それって、まさか……私、の……」
「そうだな」
「そうだなって、そんな……」
「無償の力なんてあるわけ無いだろ。何事にも代償は必要だ、それが力なら尚更な。なんのリスクも代償もなく生き返らせる、死にかけの状態から回復させる、なんて力に危険がないとでも思っていたのか?」
思わず強く言葉が出てしまったが、そのおかげか妹は俯くだけとなった。
と思っていたのだが、何かに気づいた様子で妹は顔を上げる。
「お、お兄ちゃん!? な、なんで生きてるの!? あ、いや、生きててくれて嬉しいよ? でも、あの、ほら……」
「別になんてことはない、ただ死なないだけだ、死ねないだけだ」
俺の言葉に妹は愕然とした様子で再び固まった。
『呪い』の影響で傷ついたそばから消していくという、死ねないという呪いが俺にあるだけの話だ。
ともかくこれだけの元気があれば大丈夫だろう。いい加減ここから去りたいところだが……さっきから屋敷の中から同じ匂いを感じる。流石にこれは放ってはおけない。
「じゃあな、死なない限りは好きにするといい」
「え、ちょ、ちょっと待って!」
叫ぶ妹を無視して屋敷へと入る。
入る瞬間に結界魔法に触れた気がしたが……持ち主であろう男は死んだはずなのだし気のせいということにしておこう。
『何か』に阻まれてこちらに来られないでいる妹のことを鑑みても、その方が都合がいい。
屋敷の中を歩き、いくつかの扉を通り、地下へと続く石で出来ている階段を見つける。ここを下りれば辿り着きそうだ。
しかし、よくありそうな貴族の屋敷だが……実際に見てみると悪趣味極まりないな。
やることもないので屋敷のことを愚痴りつつ石階段を最後まで降ると開けた場所に出た。
如何にもな感じで鉄格子で仕切られた独房のような部屋がある。
その一室で鎖に繋がれてそれはいた。
見目麗しいが俺と同じ呪いの匂いを放っている耳の長い女が顔に影を作って座り込んでいた。
現在のレイ君は地球の言葉も理解しています。ただし、存在していない言葉と認識はしていません。




