7.回帰
「なん、で……こ、こ…に?」
「どうやら追いかけられていたようだね。ということは彼女は君とは違うか。まあそれはそれとして、食べる分には良さそうだ。いや困った、兄妹揃って優秀とは」
鬼は笑う。嗤わらって絶望を告げてくる。
何故ユイがここにいるかなんて今はどうでもいい。
なんとか、なんとかユイだけでも、妹だけでも救わねば、守らねばならない。
倒れている俺に走って近づくユイを逃さなければならない。
でもどうやって?
この吸血鬼を倒すなんてこと俺は勿論、ユイにも無理だ。英雄と呼ばれる人物が数人がかり挑み何人かが死んでやっと倒せるような化け物となど比較にもならない。
化け物相手に弱者が立ち向かえる手段など、助かるように祈りながら全力以上で逃げるだけしかない。
「にげ、ろ……逃げろユイ! 速く!」
「出来ないよ! お兄ちゃんを見捨てるなんてッ––––」
必死に語りかけるユイの言葉が突然止まる。
見開いた目が見つめる視線の先を追うと人の腕が落ちていた。
「な、に…それ……なん、で……なんで! なんで! お兄ちゃんの腕がないの!?」
そして残っている俺の腕に目をやったユイは唇を震わせ叫ぶと崩れるようにしゃがみ込み、頭を掻き毟る。
僅かに覗く目は虚ろにも見え、『なんでなんで』と壊れたように同じ言葉を繰り返している。ともすれば涙が流れ落ちていることさえ気づいていないのかもしれない。
「どうやら壊れてしまったようだね、それならそれで好都合。さあ、少年続けようか、と言っても逃げる為の脚すらもうないのだが」
言葉の意味を確かめる前に腕を斬られた時と同じ、いやそれ以上の痛みが思考と感覚を奪った。
自分が叫んでいるのかさえもわからない、真っ白に/真っ暗に染められた思考の片隅で他人事のように自分を見ている自分がいる。
「–––まえ! よく–––おに––––を!! かえ––––!」
甲高い音が聞こえてくる。聞き慣れた物だったような気もするが判別も出来ない。
全ての感覚が麻痺していく中で辛うじて光を通していた視界が緋あかで埋め尽くされた。
□■□■□
「お前ぇ! よくも! お兄ちゃんを!! 返してよ! お兄ちゃんの腕ぇ!!」
「返すも何も私は少年の腕を取ってすらいないのだが……それにしても中々の魔法だ、『人間』でここまでの魔法を扱える者は僅かだろう」
実に、実に愉快だった。
何もない、下らない街かとばかり思っていたがとんでもない。素晴らしい掘り出し物があった。
片や、自力で隠蔽いんぺいの魔法に気づき、発生源である私の屋敷に辿り着いた。
片や、潤沢な魔力を持ち、並大抵の魔物では一瞬で灰にしてしまうほどの魔法を使った。
オマケにどちらも美しいときた。
「ハァハァ、返し、てよ……返っ、てきて、よ……」
少女が肩で息をしている。
見たまま魔力切れなのだろう、如何に人として魔力が多かろうと所詮はこの程度。これで天才だと言われるのだからどれだけ脆弱な生き物なのかが分かるというもの。
だからこそ私はこの少女のことを食料としてしか見ていないわけだが。
「まあ、どうでもいいか」
「返事くらい……してよ、お兄ちゃん……」
延々と何かを呟く少女を段々と鬱陶しく思いつつ、どう食べるかと考えた時一つ厄介な事に気がつく。
少年を眷属化させるには甚だ遺憾ではあるがあの女の所へ連れて行かねばならない、死ぬ前には持っていきたいから今すぐにでも行った方がいいだろう。
しかし、そうした場合妹である少女を置いていく事になり最悪食べ損ねてしまうだろう。
それは困る、正直私の舌は少女を求めている、子供っぽいとは自覚しているがご馳走を前にお預けは我慢ならない。
クッ、これは難問だ。
この私をここまで苦しめるとはやはりこの兄妹には素晴らしい物がある。
と其処まで考えて私の中で雷いかずちが走った。素晴らしいこれは妙案だ。
この危機的状況を打開する解決法。
「つまり、両方持っていけばいい」
では早速と倒れ伏して動くことはおろか鳴くことも無くなった少年の元へ近づく。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!! いい加減、起きてよ! 兄さん!!!」
少女が叫ぶと同時に少年に向かう魔力を感じる。
直接魔力を飛ばすとは珍しい使い方をする。まあ、無意識に溢れたと言ったところだろう、何かをするにはそれは余りにも弱く私にぶつかり大半が霧散する程度のものだったのだから。
意図しない形とは言え私の歩みを止めた少女に向けていた目を眼下の少年に戻す。
「……ハハハ、兄妹愛、なのかな? まあ美しいものだね。正直そういう茶番は飽きているのだが」
死んだように何処にも向けられていなかった目をこちらを向け、少年は何も感じさせない表情で私を見上げていた。
□■□■□
音が流れてくる。実体のない何かも感じる。
『–––––––、兄さん!!!』
––––プツ、と何かが切れるような音が聞こえた気がした。
「……ハハハ、兄妹愛、なのかな? まあ美しいものだね。正直そういう茶番は飽きているのだが」
振り向いた吸血鬼は少しの驚きを見せた後、煩わしげにも思える顔と、首を振る仕草をした。
そんなことはどうでもいい。今考えるべきはさっき聞こえた音だ。暗闇に響く何かが聞こえた、とても聞き逃してはいけないようなそんな音が。実際に聞こえはしなかったけれどあれはきっと妹の言葉だったのだろう。
「……君、随分と静かだね、経験上こういう時は君も叫び続けるものだったはずだが」
吸血鬼が不思議そうに首をかしげる。
確かに怯えも震えも無くなり今までの絶望が嘘のように冷静に、淡々と見える風景を処理している。
何があったというのか想像もつかない。まるで自分が自分でなくなった気分だ、そのことに何も感じてすらない。
全身から発する痛みすら何処どこか遠い出来事のように思える。
「これは……壊れた、のか? いや、しかし目は––––」
壊れた? 確かにそうかも知れない。
きっと今の自分は何か大事な部分が壊れているのだろう。
しかしそんなことどうだっていい。
何故か吸血鬼を見上げていた目を正面に戻すと妹が見える。
座り込んで涙を流す妹の姿が。
一体誰の仕業だと怒りがフツフツと湧き上がる。
一つは目の前にいる吸血鬼だろう。
そしてもっと直接的な原因は……俺、なのだろう。
その事実に気づいた時覚えのない景色が脳裏に浮かぶ。
それは崖から落ちる女の子とそれを追いかける一人の男の子、そして嗤う獣・。
頭が重くなり最早慣れた激痛が頭の中で暴れ、胸が締め付けられたように苦しみだす。動悸は激しく、汗が滝のように流れる。
「ん? おい、どうしたんだ少年。まさか死ぬのか!? くっ、悠長に考える時間は無かったか!」
突然慌てだした吸血鬼が俺を持ち上げる。
先程まで地面に倒れていたのだから当然だが視界が高くなり周囲の様子が分かりやすくなった。
持ち上げられ高くなった視界で見える吸血鬼の肩越しにソレ・・はいた。
「どうした少年! ええい、これだから人間という奴は!」
脳裏に浮かんだ知らない景色の中に、そして街に着く前の夜中に佇んでいた獣がいた。
獣が視界に入った瞬間以前とは反対に動悸が鎮まり、汗も収まり、痛みも消えていった。周りの時が止まった感覚すら覚える。
獣はただ見つめる。まるで試す様に。
「意味分かんねえんだよ、あんなもん見せられたって意味、分かんねえんだよ」
獣はただ見つめる。まるで問う様に。
「分かってんだよ、こんなイライラすんのは自分が原因だって、責める声が煩うるせえんだよ、何故だどうしてだって」
獣はただ見つめる。まるで示す様に。
「許せねえんだよ、誰でもない自分が、俺が。何忘れてんだって痛んで、忘れんなって苦しくなって自分自身への怒りが治まらねえ」
次々と脳裏に焼きつく知らない誰かの記憶。
仲良く暮らしていた兄妹とその親が過ごした平和な日常も、『あの日』の出来事も全部。
今までの記憶を全て塗り替える様にして出てくる誰かの記憶。
「んなもん知らねえ、全部知らねえよ! またって何だ! 俺の妹はユイ一人だ!!まだ何なんも失ってねえんだよ!!」
例え一度絶望に諦めていたとしても、それでもなお諦められないと立ち上がる心は負けても、まして折れているなどあり得ない。
『あの日』に感じた怒りも苦しみも俺の心にズッシリと乗っかっている。
『誰か』の妹がどうなろうと知ったことじゃない。でも俺の妹が、ユイが死ぬのは嫌だ、死なすのはもっと許せない。
「もう二度とあんな思いはゴメンだ。絶対に失うものか」
狂気と思われるのかもしれない。ユイへの感情すら『誰か』に影響されて仕組まれたものなのかもしれない。
獣はただ見つめる。従う様に。
「ああ、何だってやってやるさ、その為なら何度だって死んでやる……!」
それがどうした。
それが止まる理由にはならない。自分が誓ったことならば尚更に。
俺の慟哭を聞いた獣はこちらへ近づく。
何をするのかは分からない。俺はただ促される様に叫んだだけなのだから。
吸血鬼の体をすり抜けて顔を突き合わせる。睨みつける俺を見るその顔はどこか楽しげに笑っている様にも見えた。
獣はただ消えていく。呪いの様に。




