6.絶望
不自然なほど人気のない街だった。あるいは既にここは滅んでいるのではないかと、そう思わせるほどの不気味さを、月明かりだけが照らす街は醸し出していた。
見廻りくらいはあるものだと聞いていたがそれもない。
人の気配、営みと呼べる全てが一切感じられない。
この中を進むのかと足が竦みそうになる。だが逃げてもいられない、このままでは俺だけでなく妹のユイまで疑いをかけられることになる。
それだけは避けなければならない。それだけは許せない。
怖気付く心を奮い立たせる。
いつの間にか屋敷は目前に聳えていた。
意を決して門を抜け屋敷内へ侵入する。鬼が出るか蛇が出るか、未だ人の気配は感じないままだ。
その反面まだ玄関にすら辿り着いていない庭の部分だというのに重さを感じられるほど魔力が濃くなっている。
進む度、足を繰り出す度、一歩一歩が重くなる。実際に重量が増えているわけではないだろう、恐怖と濃すぎる魔力による錯覚、幻覚の類いだろう。
体感的には足を引きずっている感覚までし始めた、だがそれでも止めない、止まらない。
その甲斐あってか屋敷の玄関前まで何とか来れたようだ。
倒れこむ勢いで扉を開けようとしたその時、体温が急激に下がった。
周囲の温度が下がったのではないはずだ、これは、恐怖。ここに来るまでに感じ続けて来たそれを嘲笑うかのようなただただ圧倒的恐怖。
怯えているのだろう、竦んでいるのだろう、背筋につう、と冷や汗が流れる。自分の顔をうかがい知ることは出来ないが恐らくは真っ青になっていることだろう。
動けないのではない、動かないのだ。
背後に突然現れた『恐怖』に身も心も束縛されている、己を奮い立たせることすらも考えられない。
「こんな夜更けに一体どうしたのいうのだね? いや、いい、見た所脆弱さを全面に押し出しているような『人間』だが、ふむ……異変に気づいてここへ来たのだろう?」
若い男の声だった。
しかしそれには年季を感じさせるような威厳があった。男から齎される言葉によって心臓が握らている錯覚を覚える。
唯一働く頭が、頭脳が、思考が、逃げろ逃げろと警鐘を鳴り響かせる。しかし意に反して男を確認することすら出来ない。
「そう怯えずとも良い、私は『人間が』嫌いだが、君のような勘の鋭い者は特別だ。実を言うとここに来れたのは君が初めてでね、この程度かとガッカリしていたのだよ。それがどうだ君はここまで、しかも我が家の玄関にまで辿り着いた、これは誇ってもいいことだ、少なくとも勇気で君に勝る人間は一人としていないだろうね」
うるさい、だまれ。
果たしてそれは思考か男か、どちらに言ったのか。
途切れ途切れの短い呼吸をやっとの思いで繰り返す。男の語りはまだ続いている。
幸いまだ俺を殺すつもりはないらしい。もういっそ殺してくれと叫ぶ心を捩じ伏せ、逃げろと泣き喚く思考を黙らせて考える。
この状況を打開する一手ではない、ただ己が助かる道を、宿へ戻りユイを連れ出すための一歩を、ここで死なない為の一手を!
「–––と、そういえば自己紹介がまだだったね、君には特別だ、聞かせてあげよう。ささ、こちらを向きたまえ」
男の声に従う、従っていた。
振り向いたその先には美しく整った顔の男がいた。銀の髪を星空に靡かせ、切れ長の目は『赤い』。
スラリとした手足、程よく引き締まった肉体は男の着る上質で絢爛な服をより上等な物に魅せる。
思わず思考が止まり見惚れてしまう程には男は美しく気品に溢れていた。
「初めまして、勇気ある少年よ。私の名はヴァレン・スティルス、君の名前は、と言いたいところだが結構だ。特別と言ってもそこまでではない」
底冷えのする目だった。
赤いからでも、整った顔だからでもない、こちらを見下す目は雄弁に語っていた。
『人間風情が』と。
この男が何者なのかは分からない。しかし今までの発言とこの目を見れば分かる––––この男は、少なくとも人間じゃない、と。
だとするならこの男、ヴァレン・スティルスが何を考えているのか、何をするのか、元々つかなかった予想が更に分からなくなった。
聞く限りでは『人間』を毛嫌いしていて見下しているようだが。
「……ふむ、実に惜しいな。君ほどの逸材ならば是非とも欲しいと思ったのだが……眷属化させるには君は、いささか弱すぎる。これでは私が血を啜るだけになってしまう」
スティルスは嘆かわしげに額に手を当て、首を振る。
悔しいとすら感じない。それは何も目の前の男が自分より遥か格上の触れることすら出来ない存在だという理由だけではないだろう。
事実俺は弱い。
魔法は大して使えず、妹であるユイに負ける始末。
ならばと剣を握っても大して上達せず、良くも悪くも『それなり』止まり。
師匠に付き合ってもらって山に篭り修行しても結局『それなり』に終わった。
でも、だからって–––
「今ここで諦める理由にはならないんだよ!」
心の叫びは口から大きく溢れていた。俺を見てスティルスは目を開き、とても驚いた顔をしていた。
「これはこれは……いや、驚いた。素直に賞賛しよう、素晴らしい、凄いよ、君」
途轍もない疲労感が両肩に乗っかり、膝に手をつき息が上がる。
肩で息をする俺にスティルスは驚いた顔を治し今度は喜色満面の笑みで褒め讃えている。
「まさか、吸血鬼の、それも私、ヴァレン・スティルスの魅了を意志だけで打ち破るだなんて……ふ、フハハハ、なるほど人もまだ棄てたものではないか」
吸、血……鬼?
何故そんな大物がこんな場所にいる!?
クソ! 大物は新人の自分達には仕入れるだけ金の無駄だとロクに情報を聞かなかった自分を殴りたい。例えそれが正しい選択で今が異常なだけなのだとしても。
そんな俺でも噂程度ならいくつか聞いたこともある。
曰く、吸血鬼は相手を魅了し、敵を殺す、もしくは吸血するのだと。
曰く、竜すらも軽く屠ると。
竜を軽く、というのは流石に誇張だと思うが討伐くらいはやってしまえそうな力をスティルスからは感じる。
「これは益々欲しくなった。彼女に頼るのは癪だが–––」
ギョロリと目が俺を捉える。
「まあ、君が手に入るなら誤差だろう。頭と心臓さえあればなんとかなるのだったかな、確か」
何かを思い出すようにスティルスは呟いた。
それを聞いた時にはボトリという音が真下から聞こえていた。
恐る恐る下を向けばそこには–––––腕が二本落ちていた。
「あ、ああ、ああああ! あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝!! うっ、あ、ぐぅ、うう、ぅアア、あああ、アアアァアアアアア!!」
痛みが遅れてやってくる。
身を焼き殺すような熱い痛みが全身をのたうち回る。
なんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだなんなんだ。
焦点が定まらない、頭はグチャグチャで、口からは呻きしか出ない。
足の震えは増し、何がどうなっているのか、自分の状況が分からない。
「う〜ん、美味、だね。叫ぶだけで発狂していないのも素晴らしい。君は私をどこまで愉しませるんだい」
男が何かを言っている。何も聞き取れない、何も聞きたくないのに何かを舐めたような湿っぽい音が嫌なほど耳に響いた。
いやだ、イヤだ、嫌だ。
分かりたくない、理解たくない。
自分の血を舐めていたなんて、自分の腕が斬り落とされたなんて、なん、て。
「おやおや、少しやり過ぎたかな。私は君の心までも欲するというのに……まあ、君なら大丈夫だろう。次は––––足、かな」
それは奇跡だったろう。
ただ震えている足同士がぶつかって縺れて転んだ、それだけの情けない動きで俺の足はまだくっ付いている。
転んだ拍子に頭を打ったおかげだろうか、痛みと恐怖に支配されていた思考が僅かに戻ってくる。
しかし戻ったところでここにあるのは絶望だけだった。それでも人の本能か、目前の死から逃れようと体をジタバタ動かす。失った両腕の切断面を地に押し付け、震えを一層強くする足でもがく。焦りばかりが募り、痛みさえも遠くに追いやっていく。
もう、諦めた方がいい。
そう思った時、聞こえるはずのない声が聞こえた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!! 待ってて! 今そこに行くから!」
今までとは違う別の、より恐ろしい恐怖に支配される。
震えだした体の特に震える頭を必死に横に向けると、そこには––––ユイが、宿で眠って待っているはずの、安全な場所で死が身近かないはずのユイがこちらに向かって走っていた。




