熱
私は屋敷の庭先に立って、今にも崩れ落ちそうな灰色の冬空をじっと眺めていた。それは本当に崩れそうな、不安を掻き立てるような空模様だった。何かどす黒い闇が一斉にこの地上を包み込み、無へと葬り去るような、そんな下らない妄想を繰り返してしまうのだった。
寒気が肌を突き刺し、下駄を履いた素足から冷たい悪寒が背筋を上ってくる。やがてそれは私の口から、大きな溜息として零れた。私の体はそれでも火照ったように熱かった。何故だか、今は胸の奥底から熱い感情が湧き上がってくる気がした。
だが、別に何事もある訳ではなく、私はたまにこういった気分になるのだった。くたびれた半纏のほつれた破れ目から、私の体の熱がぼろぼろと零れた。やがてそれは地へと吸い込まれ、何事もなかったように無へと帰する。
もう宵闇が街を呑み込もうとしていた。あと数日で年の瀬だが、私の寿命もあと、どれくらい持つだろうか。骨ばった腕は本当に頼りない。握った拳でさえ、緩く垂れ下がってしまいそうだ。
そこで背後から誰かが呼ぶ声が聞こえてきた。私と同じように、しわがれた年寄りの囁き声だった。
「あなた、そんなところに立っていたら、風邪を引いてしまいますよ」
妻のミチは、同じようにボロボロの半纏を羽織ったまま、ゆっくりと壁に手を当ててこちらに歩いてきた。廊下の床だけではなく、彼女の体の節々からも、ミシミシと音が鳴った。
「ここにいると、体があったまるんだよ」
私は振り向くと、そう無感情な声で言った。感情さえも枯れ果ててしまったのか、と私は自分の弱弱しさに心の中で苦笑してしまった。
「何言ってるんですか、風邪を引きますよ」
「こうして年の瀬を感じると、何か熱いものがこみ上げてくるんだよ」
「馬鹿言ってないで、早く入りなさいよ」
ミチは縁側に立って、大きな声で――それも枯れ果ててしまったものだが――怒鳴った。
「お前もたまには庭に来て、外気に触れてみたらどうだ? そのままだと、心が濁るぞ」
「濁ってるのは、あなたの目でしょう。今にそこらへんに寝っ転がって、腐ってしまいますよ」
そんな容赦のない言葉を掛けてきたミチだが、彼女はふと、私にかさかさの唇を開いてみせて微笑んだ。それは彼女が若い頃に見せた、水蓮のような美しい笑みだった。私はふん、と鼻息を零して、空へと再び視線を向けた。
今にも崩れ落ちそうな空だが、一向に崩れてこなかった。私の生もいつかは崩れることはわかっているが、それはまだ一向に来ていない。すぐ側まで迫っているかもしれないが、今、私は生きている。それだけは変えられない、揺らぎようのない事実だ。
「空が、綺麗ですねえ」
いつの間にか横に立っていたミチが、黒い風呂敷を広げたようなその空を見て、つぶやいた。
「どこが、綺麗なんだ?」
「この空を見ると、落ち着きますねえ……」
私はその小さな頭を見つめながら、「お前も、俺とそう変わらんな」と不機嫌そうな声で――だが、微かに熱を帯びた声で言った。
だが、その温かみは思い過ごしではなかった。微かに触れた腕の温もりが、まだ心に染み渡っていた。
「やはりここにいると、温かいな」
私は熱が離れないように、微塵も動くことなく、空を見つめながら立ち続けた。
了