5.
劇の片付けの最中に起きた“田中かえる”の事件は、当然、学校中で話題になった。噂話の中だけに登場する妖怪の類、謎の女子高生“田中かえる”が女生徒を襲い、しかもそれを複数人が目撃し、更に煙のように消えてしまったのだから、無理もない。
まるで何かのミステリ小説だ。もし、そうだったなら、ベタベタな展開だが。
田中かえるが消えた舞台袖は衣裳部屋代わりに使われていて、田中かえるが逃げ込んだ時は誰もいなかったらしい。出口はあるが、出口では他の生徒達が片付けをしていて、誰も出て来るのを見なかったと証言している。
つまり密室。密室で、あの“田中かえる”は消えてしまった事になる。まるで、自分が本物の妖怪である事を誇示しているかのように。
襲われた女生徒は、演劇部の二年で、部内で対立し合うグループの一員だった。天照大神をやった女生徒の仲間。そしてこのグループは、中立の姿勢を崩そうとしない奏の事もあまりよく思ってはいない。
悪い展開だった。
この事件の前は、奏が“田中かえる”を祀っている事はあまり騒がれなかったが、この所為で注目を集めてしまったのだ。
『唄枝奏が謎の女子高生、“田中かえる”を祀ったからこそ、こんな事件が起きたのじゃないか?』
そんな馬鹿馬鹿しい事が言われるようにまでなってしまっていた。
あの劇の最後にあった奏への野次も悪かった。あの時、野次を飛ばした女生徒達は、実は田中かえるに襲われた女生徒のグループと仲が良かったのだ。つまりは、天照大神の役をやった女生徒のグループと。だからこそ、奏を“猿”などと悪く言ったのだろうが、どうやら奏のその恨みを晴らす為に、田中かえるが現れたと、そんな風に解釈をされてしまったようなのだ。つまりは、“田中かえるの祟り”という事に。
冗談じゃない。
わたしはともかく、奏はそんな事で誰かを恨むような子じゃない。今までにも何度か似たような事があったが、奏は一度も恨み言を言った事がない。
まだある。
わたしはそれまで知らなかったのだけど、うちのではない制服を着た謎の女生徒が、放課後の校舎を歩いている姿が、何度か目撃されているらしかった。
その事件の後で、それも、謎の女子高生“田中かえる”と結び付けられて考えられるようになってしまった。蛙の要素はないのに。きっと、生徒会室に逃げ込んでそのまま消え、三谷楓が蛙の鳴き声を聞いたという、あの噂話に出てくる女生徒と同じものだと判断されたからでもあるのだろう。そしてそれで“田中かえる”の存在感は、更に学校内で強くなってしまったのだ。
次の日の昼休み。わたしは鈴谷さんに、この事を相談しようと、図書室へ向かった。妖怪だとか、祟るだとか、祀るだとか、この手の話で頼れるのはあの人だろうと思ったから。皆を説得とまでは言わないが、奏一人を説得する事ならできるかもしれない。何しろ、未だに奏は田中かえるを祀る気でいるようなのだ。今朝も、例の祠にバナナを供えていた。
「饅頭が悪かったのかな?と思って」
などと言っていたが、どうしてバナナなのかは不明だ。「このタイミングはまずいって。“田中かえるの祟り”とか言われているのに」とわたしは奏に忠告したが、必死な様子の彼女はわたしには止め切れなかった。そして案の定、奏のその行動は学校内で話題になってしまったのだった。
騒がれている。馬鹿にされ、蔑まれ、不気味がられている。悪罵讒謗。わたしには、それが許せなかった。
図書室に入ると、誰かの話声が聞こえて来た。鈴谷さんの声でも黒宮さんの声でもない。珍しいと思って更に足を進めると、そこでその話声は止まった。
スラッとした体型のショートカットの女生徒。美人。そこにいたのは副生徒会長の三谷楓だった。あの、奏にちょっかいをかけに来ている三谷涼の姉だ。向かい側の席には、黒宮さんの姿が。どうやら、珍しく二人で何かを話していたらしい。
「それじゃ、よろしくね」
わたしの姿を見ると、軽くため息を漏らしてから、そう言って三谷楓は席を立った。
「まぁね。別に良いわよ。あんたと喧嘩すると面倒そうだし」
などとそれに黒宮さんは返す。三谷楓はそれを聞いて軽く黒宮さんを睨んだ。恐らくは“他人がいるのにそんな事を言うな”とか、そんな感じの反応だ。それを受けて黒宮さんは「案外、気が弱いわね」とそう言う。それを無視して、三谷楓はそのまま図書室を出て行ってしまった。
「もしかして、呪いの依頼?」
彼女が出て行った後で、わたしは黒宮さんにそう訊いた。すると黒宮さんは可笑しそうに「フフッ」と笑った。
「違うわよ。彼女はそんなに頭が悪くない。ちょっとね。色々とあるのよ。人間関係って本当に億劫だわ」
そして、そんな事を言う。
「で、あなたはどうしたの? 劇が終わったばかりから、図書室にも用はないでしょう。まさか、あなたこそ呪いの依頼?」
続けてそう黒宮さんが尋ねて来たので、わたしはこう返した。
「冗談は止めて。わたしは鈴谷さんに用があって来たのよ」
「鈴谷さん? 彼女、今日は来ていないわよ」
「みたいね。また出直すわ」
そう言って出て行こうとすると、そんなわたしを黒宮さんは呼び止めた。
「ちょっと待って。
ね、木垣さん。あなた、唄枝奏さんととても仲が良かったわよね?」
黒宮さんは“とても”の部分を妙に強調して言った。それでわたしは、彼女がわたしをからかうつもりでいるのかと思ったのだが、どうやら違うようで、彼女はこう続けるのだった。
「あなたが唄枝さんを護りたいと思っているのなら、三谷涼って一年に気を付けなさい。何をするか分からないわよ」
当然、わたしはその言葉に反応する。
「あの一年、やっぱり危ない奴だったの?」
それを聞くと、黒宮さんは少し驚いたようだった。そして、
「あら? もう、充分に知っているみたいね。余計な忠告だったかしら」
と、そう言う。
「もしかして、暴力を振るうとか、そういう奴な訳?」
わたしがそう問い質すと、黒宮さんは首を左右に振った。
「違うわよ。敢えて言うなら、利用されるかもしれないとか、そんな事。確証は何もないけどね。一応、近づかない方が無難だと思うわよ」
その曖昧な情報にわたしは苛立った。これでは奏を説得し切れない。もっとはっきりした情報が欲しいのに。ただ、突いてもそれ以上は何も黒宮さんから情報は出て来なかったので、仕方なしにそのままわたしは教室に戻った。
教室に戻ると奏の姿が見えなくなっていた。“どうしたのだろう? まさか、また田中かえるを祀りに行ったのだろうか?”と不安になっていると、そんなわたしの様子に気が付いたのか、クラスメートの立石がわたしにこう教えてくれた。
「唄枝さんなら、三谷涼に呼ばれて、どっかに行ったわよ」
なんですとぉ!
と、わたしはそれを聞いて、当然、憤った。あいつだけは、奏と会わせたくなかったのにぃ!
憤っているわたしを眺めながら、立石は更にこんな事を言った。
「しかし、意外よね。本当にあの一年はロリコンだったのかしら。前に、姉にベッタリのシスコンだって聞いていたから意外だわ。姉の三谷楓は、ロリコンって感じではないでしょう?」
わたしはその説明に反応をした。
「それ、本当なの?」
黒宮さんの忠告を思い出したからだ。彼女は三谷楓と話していた後で、わたしにその弟の三谷涼に気を付けろと忠告をして来た。そして、その三谷涼は姉にベッタリのシスコン。何かあると思うのは当然だろう。
「噂が本当なら、三谷涼は姉がいるからこの高校を選んだって話よ。姉を追っかけて来たのね」
立石はそれからそう言った。わたしはそれを聞いて更に不安になる。しばらくして奏が教室に戻って来た。わたしが心配して「三谷涼に何かされていない? 大丈夫だった?」と尋ねると、奏は「天子ちゃんが心配するような事は何もなかったよ」とそう返して来た。
“超心配!!”
わたしはそれを聞いてそう思う。三谷涼の狙いが何なのかはまったく分からないが、恐らくは純真な奏を利用しようとしているのだろう。奏にそれを見抜けるとは思えない。
放課後。本来なら、奏の警護につきたいところだが、鈴谷さんに相談もしたかったわたしは、演劇部に向かう奏を泣く泣く見送って、結局は図書室に向かった。
すると、図書室の前の廊下の隅で、誰かが話しているのが目に入った。一人は黒宮さんで、もう一人は驚いた事に、以前に森の中から般若のような表情で出て来たあの女生徒だった。
一体、どういう接点なのか……。
図書室の前の廊下は、人通りが少ない。だからその二人の話声はとても目立った。“どうして、廊下で話しているのだろう?”などと思っていると、黒宮さんと話していた女生徒は突然に声を荒げた。
「とにかく、何とかしてよ!」
黒宮さんはそれを相手にしない。
「無理よ。それに、私はちゃんと忠告をしたでしょう?」
そう言ったところで、黒宮さんはわたしの気配に気が付いたようだった。振り返る。それでもう一人の女生徒もわたしに気が付く。わたしを見ると、悔しそうな顔をした後で、その女生徒は何も言わずに去ってしまった。
「助かったわ」
その女生徒が去った後で、黒宮さんはわたしにそうお礼を言って来た。お礼を言われるような事は何もしていないと思いつつ、わたしはこう尋ねる。
「彼女は?」
「園上ヒメさんという二年の女生徒よ」
その答えを受けて、そういう事じゃなくて、と思って黒宮さんを見ると、黒宮さんは肩を竦めてこう付け加えた。
「似たような場面でよくあなたと会うけど、誰かを呪えるなんて噂が立っていると、色々な手合いがやって来るものなのよ。ま、タイミングがタイミングだから重なり易くもなるのでしょうね」
よく分からない。
どうにもあまり言いたくはなさそうだったので、わたしはそれ以上を追及しなかった。ただ、それを聞いてこう思いはした。
“誰かを呪えるとされている立場になると、色々な人の憎しみや恨みをたくさん集めてしまうのかもしれない”
或いはそれが、呪いが一つの社会システムとして機能するって事の意味なのだろうか。確か、黒宮さん本人が以前にそんな事を言っていたような気もする。
「今は鈴谷さん、中にいるわよ。だから、廊下で話していたのだけど」
そうそれから黒宮さんは言うと、そのまま図書室に入って行ってしまった。わたしもそれに続いて中に入る。中で鈴谷さんは、いつも通りに本を読んでいた。
わたしが近づいて行くと、鈴谷さんは顔を上げて「何かしら?」とそう尋ねて来た。
「実は鈴谷さんに相談事があるの」
それを聞くと鈴谷さんは首を少し傾げた。それからこう言う。
「もしかして、例の“田中かえる”の件?」
わたしはそれを聞くとコクリと頷いた。
「その様子なら、知っているかもしれないけど、“田中かえる”を祀っている所為で、奏が疑われているの。何とかならないかと思って」
それを聞くと鈴谷さんは、難しそうな顔をした。そして、軽くため息を漏らす。
「つまり、私に唄枝さんの“信仰”を変えて欲しいと言っているの?」
わたしはまた頷く。
「そう。鈴谷さんくらい知識があれば、なんとかなると思って。奏は鈴谷さんを信頼しているみたいだし」
すると淡々と鈴谷さんはこう返して来た。
「それは難しいわね。私は、あの人がどんな理由や経緯で、田中かえるに対する信仰を持つに至ったかを知らない。しかも、私は基本的には信仰を大事にして欲しいと思っている立場だから」
「それじゃ、鈴谷さんは、奏はあのままで大丈夫だって思っているの?」
「思ってないわよ。今のところ、あの人の信仰は、あの人だけのものみたいだしね。共有されていない信仰は、共同体の中で異分子となってしまう。どんな問題を生むか分かったものじゃない。霊に関わる偏見蔑視は、怪異の噂を呼び起こしもするしね。そして、そうして生まれてしまった怪異の噂は、人間社会に作用する。もちろん、悪く作用する場合の方が多いと思うわ」
「じゃ、どうして、説得に協力してくれないの? 鈴谷さんだって、唄枝が嫌いな訳じゃないのでしょう?」
それに鈴谷さんは、また軽くため息を漏らした。
「落ち着いて。どうも木垣さんは、唄枝さんの事になると直ぐに興奮してしまうみたいね。
私には“できない”と言っているの。したくてもね。情報が足らないし。色々と」
そう言われてわたしは少し反省した。確かにわたしは、奏の事になると冷静さを失ってしまう。鈴谷さんだってよく知らない状態でこんな事を頼まれたなら困るだろう。それでわたしは、それから鈴谷さんに今までにわたしがこの件について手に入れて来た情報を全て話した。奏の田中かえるに対する信仰の事、演劇部の事、三谷涼が奏にちょっかいをかけていて、田中かえるの祀りこめを促している事、ついでに、関係があるかどうかは分からなかったけど、あの日、祠の前で見た田村鈴や園上ヒメの事。奏は田村鈴に会って、田中かえるを祀ると告げたのだ。関係がないとは言い切れないはずだ。なら、園上ヒメだって関係しているかもしれない。
「ちょっと、ちょっと。私がした話を鈴谷さんに言わないでよ」
説明し終えると、黒宮さんがそう言って来た。
「駄目だったの?」
と私が言うと、「別に良いけどね」と言う。“何なのだろうこの反応は?”とわたしが思っていると、鈴谷さんは、そんな黒宮さんを軽く見やった。それから腕を組んで考え込み始める。
「どうにも変な感じね」
それからそう言うと、鈴谷さんは黒宮さんを見つめながらこう言った。
「園上さんは、何に対して怒っていたのかしら」
黒宮さんは「それは、私に話せと言っているの?」と訊く。
「話せる範囲で良いわ」
鈴谷さんがそう応えると、それから黒宮さんはこう言った。
「彼女、手紙を受け取ったみたいなのよ」
「手紙?」
「ええ。しかも、そこには“ゲコゲコゲコゲコゲコゲコ”としか書かれていなかったのだって。蛙語ね。日本語で書いてくれなくちゃ分からない」
黒宮さんのその面白くない冗談を無視して、鈴谷さんは言った。
「つまり、田中かえるを利用して、誰かが園上さんに嫌がらせをしているって事なのかしらね?」
それに黒宮さんは何も返さない。またまた軽くため息を漏らすと、鈴谷さんはそれからわたしに向かってこう言った。
「分かったわ。この程度の情報じゃ、まだ何にもできないから、私の方でももう少し調べてみる。それにこれはどうも、唄枝さんの信仰を止めさせれば、それで解決するような事件じゃないような気もする。そもそも、私も木垣さんも唄枝さんの信仰の正体を全く把握できていないのだしね。だから、もう少し待って」
それを聞くと、黒宮さんは馬鹿にしているのか感心しているのか分からない変な感じで言った。
「鈴谷さんって、案外、お人好しよね。そんなの放っておけばいいのに」
依頼主のわたしがここにいるのを、忘れているのだろうか。
とにかく、それからわたしは、鈴谷さんに対して「ありがとう」と、お礼を言った。これで少しは希望が出て来た。たった一人の協力者だけど、それでも心強い。




