3.
「呪われてみない?」
図書室でのこと。珍しくわたしの近くの席に黒宮さんが腰を下ろしたと思ったら、いきなりそんな事を言って来た。わたしはその彼女の行動と言葉とに驚いてしまっていた。そんなわたしの反応に、黒宮さんは笑った。
「そんな変な顔をしないでよ。少し、言ってみただけなんだから」
わたしはそれを聞いて変だと思った。黒宮さんはあまり冗談を言わないタイプだろうし、それに、“呪い”だとか、その手のオカルトな話題を嫌悪していたはずだ。それでわたしは、こう尋ねてみる。
「黒宮さんは、そういう話が嫌いじゃなかったの?」
わたしが何を言いたいのか、それで彼女は察したらしく、少し肩を竦めると、それにこう返した。
「少し観方を変えてみたのよ。ほら、この前、鈴谷さんが宗教とかそういうのは、システムだなんだって言っていたでしょう? そういう意味じゃ、全くのデマだとしたって、呪いが使えるって言われている私の立場も、システムの一種なんじゃないかってね。それで、少し試してみたくなっちゃって」
そう言いながら、彼女は少し舌を出した。あまり話した事がないから知らなかっただけで、案外、彼女は冗談を言うのかもしれない。
「ただ、やっぱり嫌だって思いもするけどね。何かを呪えるなんて噂も嫌だけど、こんな噂の所為で、人間の醜い部分をたくさん見る事になるのも嫌。
人間なんて、一皮むけば、憎しみや恨みで溢れている存在なんだって実感しちゃうわ。厭世主義になりそう」
その時、わたしは一人で調べ物をやっていて、奏は近くに居なかった。彼女は今、演劇部で稽古をしているはずなのだ。わたしはそれを少し良かったと思う。こういう話は、あまりあの子には聞かせたくないから。
「でも、だからそれで人間を否定するの? 黒宮さんは」
わたしはその彼女の言葉を受けて、そう問いかけた。それに黒宮さんは不思議そうな表情を浮かべた。
「なに? 人には綺麗な部分もあるとかって、そんな事が言いたいの?」
「違うわよ」
と、わたしはそれに返す。そういう意味じゃ、わたしも充分に醜いし、その醜さを実感してもいるし。嫌だとも思うし。でも、それは……、
「結局、そういうのが嫌なのって、黒宮さんがそういう人間だからでしょう? そういうあなたの枠組みから、人間を観ているから醜さに嫌悪するのよ」
そのわたしの言葉に、黒宮さんは怪訝そうな顔をした。
「何を言っているの?」
「そういう醜い部分をそのまま受け止めて、それでも嫌だとか思わないでいられる人もいるって話よ」
……もっとも、嫌悪感は抱かなくても、彼女は哀しみを感じはするのだろうけど。わたしはそんな彼女の顔を見たくはない。だから、できる限り、そういうものから彼女を遠ざけていたい。
そのわたしの返答に、黒宮さんは少しふて腐れたような顔をしたが、それから「そう」とだけ応えると、後は何も言わなかった。どうにも当てが外れたような顔をしているような気がする。わたしに何かを期待していたのだろうか?
その後で、調べ物を続けながらわたしは思い出した。実はつい最近、呪われた人がいるらしいのだ。別のクラスの生徒で、呪いの所為で風邪を引いて、三日程学校を休んだとか。黒宮さんが関わっているという噂が当然のように流れたけど、オカルトを嫌悪している彼女が呪いなんかやるはずがないとわたしはそれを信じなかった。だが、この今日の彼女の態度を見る限り、そうとばかりも言えないのかもしれない。
ただ、どうであるにせよ、関わりたくはないと考えたわたしは、その件には触れないでおいたが。
それから数日後の事。今度は、もっと本格的な呪いの噂話が流れた。学校の校舎裏には、森が拡がっているのだけど、その森の中の木の一つに、藁人形が釘で打ちつけられてあるのが発見されたのだ。その森はハイキングコースになるような明るい森じゃなくて、暗くてじめじめとしていて、どちらかと言えば、あまり立ち入りたくはない感じ。そして、その森の入り口、学校の校舎裏から見える位置には、正体不明の石でできた祠があった。呪いはその祠と関係があるのじゃないかと、そんな事を言っている人もいた。
「まず、何の関係もないわね」
ただ、鈴谷さんにそれを尋ねてみると、彼女はそう断言をするのだった。またまた図書室でのこと。昼休み。今回は、奏も一緒だ。
「なんで、そう言い切れるの?」
わたしがそう尋ねてみると、鈴谷さんは淡々とこう説明をして来た。
「呪いっていうのは、一つの社会システムなのよ。ただし、それは人々に“信じられている”状況下じゃないと機能しない。そして、あの祠の神様が、呪いを引き受けてくれるなんて文化を、この土地は持っていない」
鈴谷さんも黒宮さんと同じ様な事を言う。もっとも、黒宮さんの考えの元ネタは鈴谷さんだから、当然かもしれないけれど。わたしは少し考えると、それからこう訊いてみた。
「でも、そういう噂が流れちゃったのなら、実質、そうなるのじゃない? あの祠の神様が、呪いに何の関係もないのだとしても」
すると鈴谷さんは、すんなりと頷く。
「ええ、そうね。その可能性はある。でも、それはあの祠の神様が受け継いできた文化的な伝統とは、何の関係もないわ。そもそも、あの祠の神様が何であるのか、私達は知らないのだしね」
それを聞くと、奏がこう尋ねた。
「鈴谷さんは、あの祠の神様は、何だって思っているの?」
何故か、目を輝かせている。その奏の様子を不思議に思ったのか、ちょっと変な顔をしたけど、鈴谷さんはこう答えた。
「多分、だけど、かつてこの土地の人達が祀っていた小さな神様でしょうね。今は失われてしまっている信仰。仮に宿神の類だとすれば、呪術にも関係してくるけど、それでもあの藁人形とは関係ないと思うわ」
それを聞き終えると、今度はわたしはこう訊いた。
「呪いはそれが信じられている状況下なら、機能してしまう。なら、祠の話は別にしても、あの藁人形の呪いは効果があるのかもしれないって事よね?」
それに鈴谷さんは、曖昧に返事をした。
「ええ、まぁ、そうだけど……」
なんだか煮え切れない感じだ。
「効果がないかもしれないの?」
それでわたしは、そう尋ねた。すると、鈴谷さんはこう言った。
「呪いが効く仕組みは、個人だけに注目した場合は、単純なの。マイナスのプラシーボ効果。自分が呪われていると思い込む事で、精神が削られて、実際に病気になってしまうって感じね。
でも、その噂になっている藁人形には、個人が特定できる情報は何もなかったのでしょう? なら、マイナスのプラシーボ効果は働かないわ。呪われている人が、呪われているって自覚がないといけないのだもの。もっとも、その人だけに分かるような伝え方をしたなら別だけど……」
ただ、それから少し考えると、こう続けたのだった。
「いえ、まだ、呪いが効く場合もあるわね。でも、人を呪わば穴二つで、呪詛返し。それはむしろ、術者の方が呪われる結果になるのかもしれない」
彼女が何を言っているのか、わたしにはまったく分からなかった。ただそれは、半ば独り言に近い感じだったから、元々、わたし達に理解させるつもりで言った訳じゃなかったのかもしれない。
そして。
その日の放課後、わたしは奏からその例の正体不明の祠にお祈りをしに行こうと誘われたのだった。どうして彼女がそんな事をしたいのかは全く分からなかったが、それでもわたしはそれを拒否しなかった。実を言うのなら、わたしは奏からの誘いはほとんど断らないのだ。
「今度の劇が上手くいくように、祠の神様にお願いをしたいの」
それに、そんな無邪気な事を言う彼女は堪らなく可愛く思えた。校舎裏にあるから、少しの距離だけど、デートと言えばデートになるのだろうし。
校舎裏の祠に行くためには、金網のフェンスを乗り越えなくてはならなかった。学校側のフェンスの前には木々が植えられてあって、それを超えると荒涼とした空き地が広がっているのが目に入る。
空き地の雑草は、初夏だというのに、所々枯れていた。恐らくは、除草剤が散布されてあるのだろう。それを見て、奏は少し残念そうな顔をした。奏のその顔を見て、わたしも嫌な気分になる。夏らしくないその光景からは、確かに嫌な印象を受ける。
「これだと、神様も気分が悪くなっちゃうかもね」
フェンスを乗り越えると、奏はポツリとそんな事を言った。空き地に降り立って、予想以上に植物が枯死した状態を醜いと感じたからなのかもしれない。活き活きとした植物と除草剤にやられて死んでいる植物達が混ざり合ったその光景は、確かに不自然で気持ちが悪かった。
ゲコゲコゲコゲコゲコ……。
その時、わたしの耳に、蛙の鳴き声が響いて来た。小さな音だったが、風に乗ってここまで届いている。わたしは奏と顔を見合わせた。実はこの空き地には、貯水池があるのだ。恐らく、そこに蛙がいるのだろう。貯水池の周囲には、フェンスも何も張っていないので、けっこう危ない。
なんとなく、二人でその貯水池まで行ってみた。ほんの少し蛙の鳴き声は大きくなったような気がしたが、蛙の姿は見えなかった。まぁ、そんなものだろう。簡単に見つかったら、自然界ではすぐに食べられてしまう。
「蛙、見えないね」
奏が貯水池を覗き込むようにして見ているので、わたしは不安になって「危ないわよ」と言って彼女を庇うようにして彼女の前に手をやった。実はフェンスがないこともあって、この貯水池に落ちてしまう人も偶にいるらしいのだ。
「うん。そろそろ、祠にお祈りをしに行こうか。時間もあまりないしさ」
それを受けると、奏はそう言った。わたしはそれに頷く。それからわたし達は祠へと向かった。
石でできた小さな祠は、風雨で削られて元の形がほとんど分からない状態になっていた。ただ、薄らと人のようなものが、その中心に鎮座しているのは分かる。祠には流石に除草剤をかける事を憚られたのか、苔がかなり濃く生えていた。
石でできているお蔭で今まで残っていただけで、本来なら、もうずっと前に朽ち果てていだろう神様。否、信仰がなくなった時点で、神様なんて朽ち果てているのと同じなのだろうと思う。ならば、これは神様の遺骸とも言うべきものなのかもしれない。
わたしがそんな事を思っていると、奏は財布を出して、その祠の中にそっと五百円玉を置いた。
「お金なんかで、ここの神様が喜ぶかどうかは分からないけど」
そして、そう言う。
その純粋な彼女の瞳を見て、わたしは“神様の遺骸”などと思った自分を恥ずかしく思った。彼女ただ一人だけでも信じていれば、これは間違いなく神様なのだ。
それからわたしも財布を出すと、百円玉をお供えした。神様は喜ばなくても、少なくとも、これで奏は喜んでくれる。そう思って。
奏が手を合わせてお祈りをし始めたので、わたしも同じ様にお祈りをした。
“どうか、彼女、唄枝奏を助けてあげてください。この子は心から、あなたを信じているんです”
心の中で、そう訴えた。
既に失われている信仰の先の神様に。届くはずがないと思いながらも。
お祈りが終わると、わたし達は学校へ戻ろうとした。しかしそこで、森の中から出てくる誰かの気配に気が付いたのだった。
出て来たのは同じ高校の女生徒で、確か同学年だったはずだ。ただ、わたしはその彼女の名前までは知らなかった。その彼女の姿にわたし達二人は驚いた。まさか森から人が出て来るとは思っていなかったという事もあるが、何よりその形相に驚いたのだ。
まるで般若のような凄い顔で、その女生徒はわたし達の事を睨みつけていたのだった。
「何よ?」
そうその女生徒から問われたが、そう問いたいのはこっちの方だった。どうして、睨まれなくちゃいけないのだろう?
「いえ、あたし達はただ、この祠にお祈りをしていただけで」
そう奏が言うと、歪めた般若の表情をその彼女は解いた。ギャップの所為もあるのかもしれないが、普通の表情の彼女はそれなりに綺麗に思えた。ちょっとばかり険が強過ぎではあるけれど。
「そう。随分と変わった事をするのね」
それだけを言うと、速足でその女生徒は、空き地を出て行ってしまった。わたし達は顔を見合わせた。あれは、何だったのだろう?と思いつつ。
「わたし達も戻りましょうか」
そうわたしが言うと、奏は「うん」と頷いて歩き始めた。しかし、それから、学校のフェンスを乗り越える時に森を見て、まだ誰かがいる事を、わたしは発見してしまったのだった。またうちの学校の女生徒だった。どうやら、木の影に隠れていたよう。
遠くだから確かな事は言えないが、その女生徒もわたし達と同じ学年だと思った。見覚えがある。大きな眼鏡をかけていて、三つ編みを二つに結んで後ろに下げている。
「どうしたの?」
わたしがフェンスの上でその女生徒を見ていると、下から奏がそう訊いて来た。わたしは「なんでもないわ」とそう言って、フェンスを降りた。どうせ、気にするような事じゃないと思って。
しかし、それから少し経って、女生徒が貯水池に落ちてしまうという事故が起こってしまったのだった。しかも、その落ちた女生徒は、どうやらわたしがその時に校舎裏で見た三つ編みの女生徒らしかった。外見の特徴が一致したのだ。更に、それが呪いの所為だという噂まで流れていた。彼女の名前は田村鈴といい、これは後で知った話なのだが、森から般若のような表情で出て来たもう一人の女生徒の名前は、園上ヒナというらしかった。
そして、その田村という女生徒が落ちた場所は、奏とわたしがお祈りをしていた、あの祠の近くらしいのだった。




