1.
……。
雨降り夜の帰り道。
僕は一人、人気のない道を歩いていた。夏の初めの頃の事で、雨が降っている所為もあって湿気が酷い。じめじめっとしている。それで、ただでさえ不気味な道なのに、より一層気持ち悪く思えていた。
しばらく進むと、速足で歩く僕の前に、女子高生らしき人影が現れた。雨と暗さで視界は鮮明ではなかったが、着ている服がセーラー服のように思えたのだ。
――ゲコ。
その時、蛙の鳴く声が聞こえた気がした。近くにどぶ川が流れているから、そこに蛙でもいるのかもしれないと僕はそう思う。
その女子高生の歩く速度は妙に遅く、僕は簡単に追いついてしまった。少しだけ顔を見たいと思ったけど、不審がられるかもと思ってそのまま通り過ぎる。女子高生のいた場所の近くには、ちょうどどぶ川が流れていた。通り過ぎて、少しの間の後、雨音に混じって「どぶん」という大きな何かが川に落ちる音が耳に入った。
僕は驚いて後ろを振り返る。
さっきの女子高生が消えていた。もしかしたら、川に落ちてしまったのかと思って、僕は慌てて道を戻った。
ところが、どぶ川を覗いてみても、女子高生らしき姿は何処にもなかったのだった。そして、辺りを見回してみても、先の女子高生の姿はない。
――ゲコ。
その時、再び、蛙の鳴く声が聞こえた。川の中から聞こえる。よく目を凝らすと、大きな蛙が、川の中を泳いでいるのが見えた。再び辺りを見たが、やはり先の女子高生の姿はない。僕は不気味な気分を味わっていた。
もしかしたら、さっきの女子高生は、あの蛙だったのかもしれない。
……。
その時、その図書館にはほとんど人がいなかった。私は勉強する為に入ったのだけど、女子高生が一人座っているだけだった。その彼女は何かの本を、随分と熱心に読み耽っていた。
昨今の女子高生にしては珍しいかもしれない。
私はあまり気にせず勉強をし始めた。ただ、妙に嫌な気分がして、どうにも勉強に身が入らなかった。
――ケロロ。
しばらくして、不意にそんな蛙の鳴き声が聞こえて来た。私は驚いて辺りを見渡す。ここは図書館。蛙などいるはずがない。そう思って。
机の下なども覗いてみたのだが、蛙の姿は何処にも発見できなかった。蛙の鳴き声が実際に響いたのなら他の人も反応するだろうから気の所為かもしれない、とも思ったのだが、相変わらず、館内にいる人間は私の他は女子高生一人だけだった。その時、私はふと気になって、その女子高生の様子を確認してみた。もしかしたら、彼女も蛙を探しているかもしれない。
しかし、彼女は相変わらずに本を熱心に読み耽っていた。そして、顔を下に向けている所為で、彼女の表情は分からなかった。
“何の本を読んでいるのだろう?”
そう思って見てみると、それはなんとカエル図鑑だった。
“カエルの図鑑を熱心に読むなんて、随分と変わった女の子だ”
それでそう思った。その時、また蛙の鳴き声が聞こえた。
――ケロロ。
私はちょっと不気味に思った。その女子高生の方から、その蛙の鳴き声が聞こえて来たような気がしたからだ。
私はその女子高生の顔を見てみようと、彼女のすぐ近くに向かった。本の隙間から覗いてみる。すると、なんとその彼女の顔は、蛙にそっくりだったのだ。私が驚くと、その女子高生は無表情な瞳で私を見、そしてそれから、
――ケロロ。
と、鳴いた。先ほどの、カエルの鳴き声だ。
私は怖くなって、そのまま図書館から出ていってしまった。
――謎の女子高生、“田中かえる”。
この物語を語り始めるには、まず何と言ってもその存在(“存在”と表現するのも、何か違う気がするけど)について、説明しないといけないだろう。
田中かえるは、妖怪のようなものだ。その噂が囁かれ始めたのは、いつ頃の事だったか。 正直、あまりよく覚えていない。多分、初めは冗談か何かの類だったのじゃないかと思う。何しろ、『謎の女子高生』だ。ふざけているようにしか思えない。
ところが、この『謎の女子高生、“田中かえる”』は、今は怪談の類として、皆の間に広まっている。しかも、その性質は一定ではなく、『女子高生』、『蛙』というキーワードに、正体不明性が加われば、ほぼ何でも『謎の女子高生、“田中かえる”』となってしまうようだった。蛙のような女子高生も“田中かえる”だし、蛙を連れた女子高生も“田中かえる”で、蛙のプリントがされた紙袋なんかを被った女子高生だって“田中かえる”だ。
これは河童などのキャラクターと似たようなものなのかもしれない。河童だって、水辺だとか、皿だとか、嘴だとか、甲羅だとか、子供っぽいだとか、そういったキーワードがありさえすれば、ほぼ何でも河童と認識されてしまう。
つまりは、この『謎の女子高生、“田中かえる”』は、わたし達の文化の中で醸成された、ある種のキャラクターなのだろう。これは人間が“キャラクター”というものを、どう認識し捉えるのかという意味でも、社会現象という意味でも面白い事例なのかもしれない。
もっとも、わたし、木垣天子は、単なる一介の女子高生に過ぎない。そんなわたしにとっては、それは学校で囁かれている変な噂話以上のものではないのだけど。
ただし、だからといって、その変な噂話が、わたしの、否、わたし達の実際の生活に何の影響も及ばさないのかといえば、それも違うように思う。
噂話は馬鹿に出来ない。それは、場合によってはとても恐ろしい効果を生み、わたし達を救ったり、苦しめたりし、わたし達の行動に大きな影響を与える。
実際、もし仮に“田中かえる”の噂話さえなかったなら、あんな変な事件は起こらなかったのかもしれないのだ。
因みに、わたしの知合いも、実はこの『謎の女子高生、“田中かえる”』に遭遇している。彼女はわたしと同じ学年で、一年生の頃(今、わたし達は二年生だ)にこんな体験をしているのだ。
彼女は夜の学校を歩いていた。
なんでも化学実験室に、課題で使うノートを忘れてしまったらしく、それを取りに戻っていたのだとか。
誰もいない夜の学校は不気味だ。何か化けて出そうに思える。彼女は怯えながら、廊下を急いで進んでいたらしい。そして、ある程度まで来たところで、突然蛙の鳴き声が響いて来たのだとか。
ゲコゲコゲコゲコゲコ……
それほど大きな音ではなかったので、中庭にある池に蛙がいて、それが鳴き始めたのだろうと彼女は想像をした。ただし、今まで一度も蛙が池にいるのを見た事がなかったから、少し不審に思いもしたらしい。とにかく、ノートを取って早く帰ろうと、彼女は足を速めた。
ところが、化学実験室でノートを見つけて、部屋を出ようとした瞬間だった。化学実験室のドアがいきなり閉ってしまったのだ。彼女はもちろん慌てた。しかも、ドアを開けようとしても開かない。どうやら、何かがつっかえているようだった。
恐怖を覚えた彼女は大声を上げて、助けを呼ぼうと考えた。ところが、その時だった。
ゲコゲコゲコゲコゲコ……
先の蛙の鳴き声が、再び聞こえて来たのだ。しかも、今度は大きな音。それは間違いなく同じ部屋の中から響いて来ていた。ただし、蛙の姿は何処にも見えない。
やがて、蛙の声に雑じって、女の子の声が聞こえて来た。しかし、その声はひび割れているような妙な音質で、はっきりとは聞き取れなかったらしい。
よく聞くと、その声はこう繰り返していた。
『人を虐めるのは楽しい? 人を虐めるのは楽しい? 人を虐めるのは楽しい? 人をいじめ……』
それを聞いて彼女は悲鳴を上げた。
「ごめんなさい。もう、誰もいじめたりしないから許して!」
そう彼女が声を上げるなり女の子の声は止まり、そして化学実験室のドアの方から、物音が聞こえた。しばらくすると、蛙の声も鳴り止む。恐る恐るドアに手をかけると、ドアは呆気なく開いた。彼女はそれから、全速力でそこから逃げ出した。
実はその彼女には悪趣味な癖があって、頻繁にいじめを楽しんでいたのだ。しかも、それを止めるよう、正体不明の誰かから手紙で何度も警告もされていた。彼女はそれを無視し続けた結果、そんな目に遭ってしまったのだ。
その彼女は演劇部に入っていたのだけど、それから直ぐに止めてしまった。それが原因かどうかは分からないけど、皆は「あの子は田中かえるの怒りに触れ、祟りにあったんだ」と噂し合っていた。
“田中かえるは、苦しんでいる弱い者を助けてくれる”
実は、そんな噂話もあるのだ。
わたしは、田中かえるのこういう一面がけっこう好きだ。教育の為のお化けもいるというけれど、これは当にそれだと思う。