兄貴は花嫁修業中
「あっちゃん! 俺を主夫にしてください!」
これは一体どういう状況なのか。
高校から帰って家の扉を開けたら、エプロン姿(もちろん健全に着衣済)の兄貴が私に土下座していた。
兄貴こと橋田透は、私こと広瀬翠とは従兄妹の関係である。
あちらが二十五歳、私は十六歳。九歳年上の貫禄は一体どこに投げ捨ててきたのだろうか。
ちなみに私の名前は、一文字だしそんなに難しい漢字でもないけど、ご覧の通り癖のある読み方をしている。だから初対面ではみどりちゃんと呼ばれることが多い。結構この中二チックな名前、本人としては嫌いじゃないけどね。
幼い頃の私の両親の離婚とか、あまり育児に熱心じゃない、むしろ放置上等だった私の実のお袋様とか、透と充と言う男兄弟がいても本当は女の子が欲しかった世話好きの伯母様(つまり橋田家の主婦)だとか――そういった事情が重なった結果、私はほとんど小学校に入る前から橋田家に入り浸り、ほとんど末っ子同然に育てられた。
それが透ちゃんを兄貴呼びする一因なのである。
透ちゃんとは年が離れていたせいもあって、よく可愛がってもらったっけ。
お兄ちゃん、と呼ぶと喜んだので、今に至るまでその名残を引きずっている。
反対に、充とは三歳差、結構年が近めだったせいもあるのか、よく火花を散らした。
別に嫌ってるわけじゃない。なんかこう、一緒の空間にいると互いに手を出したくなるような相性なのだ。充は兄ちゃんなんて呼ぼうものなら絶対不機嫌になるから、ミツルのまんまである。
そして、伯母様の圧倒的女子力育成計画と、兄貴の圧倒的妹甘やかし計画と、充の圧倒的ライバル排除計画により、私、広瀬翠はたくましく多芸に育つことになった。今では完璧な家事スキルと、有り余る自信と、打たれ強さを兼ね備えた最強の女子高生である。
ああ、微妙に変な口調はその辺の事情とは関係なく自前。ちょっとドラマのキャラに惚れて、真似してたらそれが定着した。幸い友人たちは懐が大きい奴等ばかりなので、そんな私でも痛い子扱いせず、人格の一部として認めてくれている。
……そういえば、橋田家の家主である伯父さんはなんだろう。たまに帰ってくると、お小遣いくれるぐらいかな。たぶんそれで私を甘やかしてるつもりなんだろう。有り難く受け取って、貯蓄や趣味に充てている。
――で、だ。透兄貴よ。なぜ、この私に土下座しているのだい。
とりあえず邪魔だから退いてもらってリビングまで行く。
ああ、何故当然のように橋田家に晩飯の材料を買って帰ってきたかと言えば、まあ日ごろお世話になっているから晩飯くらい作って差し上げようと言うアレだ。
伯母さんは主婦仲間とお出かけ中で、今日は帰ってこないらしいし。
リビングに来ると、冷静にテレビゲームをしているもう一人の従兄を発見した。
「やあ、ミツル。兄貴がちょっとおかしいんだけど、どうしよう」
「恋煩いだよ。おかしくなるのも道理だろ?」
あれ、原因を知っていたのか。で、今なんて?
「こないだ合コンに連れてかれて。で、一目ぼれっぽい。兄貴にしてはそーとーがんばったんだぜ? 今はメル友してるってさ。会社とか違うけど、割と近所に住んでるんだって」
ふーん。私が高校生活にかまけている間に、ついに兄貴にも春がやってきたのか。というか、合コンなんか行けたんだ。高校だっけ大学だっけ、せっかくふわふわ系の彼女ができたのに「ヘタレなんて嫌っ」とか一週間ぐらいでフラれてからずっとご無沙汰だったわけだけど、ちゃんともう一度春は訪れたんだね。
そいつは良かった。めでたい。祝ってやろう。
私はリビングの端にバッグを放り投げ、ミツルの横に座り込んでゲームの進みをチェックする。シューティングか。お、結構いいスコアじゃないですか。
「で、なんで兄貴はあんなことを言い出したの」
「それがさー。相手のヒト、年上のめっちゃできる女つか、キャリアウーマン? で、好みのヒトはって聞かれたら、主夫がほしいって言い放ったんだってよ。養ってやるから誰か婿に来いってさ。自分は料理できないから、毎日味噌汁作ってほしいって。というか、家事してほしいんだって。自分はどうにもガサツで手が回らないから」
「ほー、そいつはまた豪気な。抱かれたくなったのか、兄貴よ」
リビングのテーブルにちょんと鎮座ましましている兄貴は話題を振られるとはうっ! と飛び上がってからもじもじと両手をすり合わせる。
女子か。これで二十五歳童貞。顔面偏差値なら結構いい線行ってると思うんだけど。ともかく。
「えっ、あっ別にそんな大胆な事はまったく! ただ単に、こう、その、ちょっとだけ仲良くなりたいって言うかっ」
「兄ィ……相変わらずヘタレだぜ……つか自分が受け身なことに反発か突っ込みしろし……」
ミツルががっくりと肩を落としている。似非関西弁風なのはたぶん、最近流行りの芸人の口癖が映ってるんだろう。ミツルの流行はわかりやすい。ピンと来た相手の発音や口癖を無意識にまねしているからだ。
一応状況はつかめた。それで家事スキル高めの私に弟子入りしたいと申しているのだな、この兄貴。
「ふむ。して、何から教えればいいの?」
「て、手始めに手作り弁当などを差し入れたく……」
「無難に掃除からやろっか、兄貴」
「カップラーメンだけの静華さんにまともな食事を食べさせてあげたいんだっ!」
「だったら奢れ。兄貴の金で一流レストランにでも招待しろ。手作り弁当舐めすぎだよ」
その発想はなかったって顔、やめーや。
それと彼女さん、静華さんて言うのね。ちゃっかり名前呼びしてるぞこのヘタレ。いいのか静華さん。
ミツルが横ではーっと息を吐いた。
「アキラー、さっきの思い出せよ。主夫に来いって言い放つ女だぜ。年も収入も低い兄貴の方が逆に奢られるに決まってんだろ。この兄貴にそれをかわしてスマートに会計済ますなんてことができるとでも?」
無理だな。
というか、収入も負けてんのか兄貴。だらしねえ。つかミツル、お前結構聞き出してんのな。
「そっか……私女だけど、そのヒトにだったら抱かれてもいい」
「あっちゃん!?」
「かもしれない。いややっぱり抱かれたい」
「あっちゃーん!?」
「やめろし。その辺にしとけ」
ぬう。結構反応が面白いからこのままからかい続けようかと思ったんだけどなあ。
「さて兄貴よ。まあ確かにお相手の方は大層男前であるらしいから、あなたの嫁になります戦法は正しいと思うんだ。だが、待ってほしい。兄貴の今の嫁レベルは正直ゼロどころかマイナスだ」
「なっ――」
「兄ィ、だからヨメてところに突っ込みしろし」
ミツルのツッコミは置いておいて、私は現状を認識させる。
「だって兄貴の部屋汚いじゃん。兄貴自分の世話だってできない奴じゃん」
「うっ」
長男なのにまるで末っ子みたいなスキルなんだよな、兄貴。
むしろ長男ゆえに大事に大事に育てられたからここまで何もできない男に仕上がったともいえる。
ちっこいころは喘息もちでもあったらしいし。
あ、何もできないって言うのは生活能力のこと。
それなりの大学卒業して社会人やってるくらいの実力はあるのよ。
……おや。ミツルが何か言いたいようだ。
「アキラの部屋はいつみてもきれいだからなー。本人の中身とは違って」
「外面を磨くのは女子の必須スキル。できない奴に限って、ありのままの自分が素晴らしいなんて逃げに走るの。ただの甘えだそんなもの。偽って何が悪い」
ミツルが黙る。私は知っているぞ。君が彼女にいくつかお色気に関する注文をして、最近話をしてもらえていないこと。
具体的には補正下着とナチュラルメイクについてディスるなんてやらかしたこと。
それでいて、メイク落としてきた彼女の顔にがっかりしたこと。
ちなみに彼女は大学の後輩、私が仲良かった先輩でもあるので、奴は今現在私より立場が下なのである。
そうだとも。フォローしてほしかったら余計な口は叩くでないよ。
君の矛盾と飾り気のない本音に、結構怒ってたからね、ミカちゃん。ラインで怒りの旨伝えてきてたんだからね、さっき。
「まあ、正直あんまりやる気は出ないのだけど、この甘ったれ愛玩動物をもうちょい使える愛玩動物に仕立て上げる、そう言う方向性であってるんだよね?」
「本人の前で言ってやるなや……」
「あっちゃん、頼むっ!」
「本人が乗るなや!」
やっぱりこの兄貴、駄目ワンコである。立派な嫁になれる日は来るのだろうか。
静華嬢が忠犬駄目ワンコ好きで、成長を待ってくれることを祈る。
そんなわけでひとまず兄貴の部屋の掃除から始めることにしたわけだが。
入るときに、「あっちゃんももう大きいから、そんな気軽に――」なんて言いかけたので、腹パンして立場をわからせておいた。駄犬はたまにこうやって吠えるから躾なくっちゃ。好みじゃないけど、仕方ない。
にしても、スゲー眺めだ。見事に散らかってやがる。とりあえず床はどこを踏めばいいんですかね、兄貴。
しかし、入っていざ始めようとしたら――。
「ああっ、それは思い出の品!」
「おお、それはしばらく行方が分からなくなっていた本!」
「あっ、やばい。これ、あいつに返さないと!」
私の技術を積極的に盗まなきゃいけない弟子が、積極的に伝授を拒否って掃除を邪魔してくるんですがそれは。
ただ、無言で出ていこうとしたら怒りの表明を感じ取ったのか、真面目にやるようになった。
やればできるんじゃねーか。
とりあえず床のものを上に避難させる。でないと話が始まらん。
これだけは最低限仕込もうと思って、しかしベッドの周辺にやってきたのがいけなかった。
「あっちゃん、そこは駄目っ!」
途端に焦り出す兄貴。なるほど、これは、あれですな。
「……ほう」
兄貴を器用にかわしながら、私はお決まりの場所をちょっくら探ってみる。
え、もちろん漁るに決まってるじゃない。こんな絶好の弄りポイント!
「ねー兄貴、静華さんてこんな感じのヒトなの? 付箋張ってあらー」
「やめてええええ!」
なんだ、グラビアが発見されたくらいで泣き出すとは情けない。エロ本か使用済みティッシュでも出てきたら引きつつネタにするのに。さすがヘタレ。それともむっつりなのか? まあいいや。
そんなハプニングは多少あったものの、一時間たつ頃には私は兄貴に掃除の基本スキル:床を綺麗にするを習得させた。
というか、掃除機のかけ方という超絶基本中の基本をまず覚えてもらうことにした。
「だーかーら。掃除機はがーってかけるもんじゃないの。ある程度、ゆっくりやんないと吸引がうまくいかないんだって。カーペットかけるんなら、ローラー付きの吸い口にして。強度は三。マックスだと吸い過ぎてうまくいかないから。マックス使うのは布団ね」
「こっ、こう?」
「そーそー」
こんな調子ですよ、奥さん。
それが終わったらいるものといらないものを弁別させ、ゴミの弁別もついでに覚えさせる。
一回スイッチが入ると割と兄貴は優秀だった。
私は夕飯作るから、といったん離れて呼びに帰ってきたころには、汚部屋から多少散らかっている部屋ってレベルにまで成長を遂げていた。
やればできるじゃん、兄貴。
重要なのはこの状態の維持だと言ったら、ちょっと泣きそうになっていたが。
「いーい。掃除は毎日するもんなの。毎日しないから、余計大変になるの。これから私が来るときは部屋点検するから。できてなかったら兄貴の晩飯抜きね」
「アキラ、スパルタ……」
リビングで私お手製の晩飯前に、待てをかけつつ言い聞かせる。
だって、駄目ワンコなんだもの。ちなみに今日の献立はハンバーグ。なんか食べたい気分だった。
ミツルがため息ついてる一方、兄貴はとりあえずの達成感でかぶんぶんと尻尾を振っていた。
で、それからも地道に掃除に関するスキルを伝授していたわけだが。
てっきり早々にフラれて諦めると思っていた兄貴、静華お姉さまのお気に召してしまったらしい。
「あっちゃん! 掃除機のかけ方、褒められた! 今度自分ちもやってほしいって!」
この間玄関の扉を開けたら開口一番そう報告された。結構残念だな静華さん。面白いからいいけど。そして確信した。彼女、駄目ワンコでも大丈夫な人だわ。
それにしても、なんて色気のない自宅訪問の誘い。
っていうか、なんで掃除機かけるようなシチュエーションになったんだ、兄貴。
まあでも、良かったね。あわよくばそのまま押し倒されるといいね。
……そのために部屋片づけるのかな? やめとこう。深くは考えまい。
「というわけで、次こそ手作り弁当を――」
「片腹痛いわ。まずは包丁の扱い方から」
とりあえず、弁当は却下。
だって兄貴は麺のヒト。絶対弁当だって今の兄貴に作らせたら麺入れるに決まってる。
もうちょっとそこのところの意識が修正されるまで弁当作りはお預けである。
私が思うに、兄貴にまず必要なのはウサちゃん林檎スキル。
絶対静華さんそういうのに弱いから。兄貴の報告を聞いてる限り、乙女な男が彼女の好みで間違いないらしいし。
「――だから持ち方逆だって。こう」
「えっ、で、でも、親指切れるよソレ!?」
「節穴。切れてないっしょ。ほれほれほれ……」
「す、すごい! 皮がするすると剥がれていく!」
「はい、一緒にやってみて」
「ええ! うっ、ううっ……」
トオル兄貴はそんな感じに、今日も私と花嫁修業中。
「あっちゃーん、やっぱり指切ったー!」
「あーもー。……なんだこの程度。かすり傷じゃんか。そうだ、ついでに応急処置も実演してあげよう。だから張り切ってこれからも怪我したまえ」
「う、うわあああん!」
……自慢の嫁になるまでは、まだまだ遠い道のりです。