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雪のひとひらを解かすように、花は開く1

▼▼▼


 汚れの無い柔らかな雪の絨毯の上を無遠慮に歩く。出る息は白く、空気に溶けていった。毛糸で編まれた襟巻きで鼻まで隠し、少しでも冷気に触れないようにする。既に嗅覚は麻痺しており、木々の独特な匂いは無いように感じている。


 綿のような雪で覆われた山道を、ジンは一歩を大きく歩いていた。呼吸は荒れ、体は骨に痛みが走る程に冷えきっているが、それでも歩き続ける。旅をしてから一年も経っていないものの、これで何度目かの命の危険が迫っていた。


 空気をも凍らせる一陣の風に巻き込まれ、雪の粒が舞い上がる。それは美しく、白を引き立たせる煌めきを伴っていた。太陽に照らされた白銀の世界は、天への道標の如く光の道を作り出す。


 寒さに奪われた体力と気力は、確実にジンの身体を蝕んでいく。徐々に閉じていくような胡乱な意識を奮い立たせて、何とか足を動かしている状態だった。もしこれが夜ならば、既に死んでいただろう。それでも、雪や寒さに慣れていないジンにとって、常に死神が付きまとっているようだ。


 元々、ジンの故郷は暖かい気候であった。雪を見るのは初めてではないが、人生でも片手で収まるくらいしか見たことがない。だから、寒さに対する耐性など無くむしろ苦手と言っても良かった。


 死を意識した事はこれまで何度もある。それこそ、物心ついた時から数えきれないくらいには。でも、いつだって自分の力で危機を乗り越えてきた。その中で、覚えていない程の人間を殺してきたし、不幸に追いやってきた。


 今度ばかりは死ぬかもしれない、と薄れゆく意識の中でそう思う。風は凶器となりジンの体を痛め付け、刃物で切り裂かれた鋭い感覚が走った。歩を進める度に、柔らかな雪道は足の力を奪っていく。この白銀の先は地獄なのだろうか、と自嘲気味に笑った。


 山に迷い混んで二日、とうとう嗅ぎなれた死の臭いが濃厚になってきた。


 それでも、まだ死にたくはない。こんな場所で死ぬならば、故郷から逃げた時に殺されている。まだ生きたいから、こうして抗うように歩を進めているのだ。痛みばかりが走る体を叱咤しながら、地面に吸い付いていく足と上半身を前に進める。息を吸う度に冷気の刃物が肺を切りつけようとも、生きる為に顎に力を入れながら空気を取り入れた。


 もはや強靭な精神力だけで動き続けるジンには、この美しい景色と異常な気温の不釣り合いな違和感には気付かない。


 紐で肩と腰を結びつけたように背負う雑嚢から、砂が入ったような重さを感じた。ザクザクと雪のひとひらを作るような音を鳴らし足を前に動かす。僅かな動作さえ苦行と感じながら、落ちてくる瞼を必死に見開いた。銀の世界に反射する輝きが瞳を刺激するが、望むところだと更に大きく前を見据えた。


 雪面には影絵のようなジンの姿が映し出され、その心境を表すかの如くゆらゆらと儚げに揺れている。この揺れが消えた時にはおそらく、ジンの気力も無くなった時だろう。


 しかし、ジンの瞳は普段と同じ獰猛な煌めきを湛えており、折れる事がない意思と共に輝いていた。それは生への渇望なのか、この冷気でも燃え続ける炎が宿っている。


 その時、白銀の世界にポツンと取り残された小屋を見た。長い年月をかけて忘れ去られた樹木のような様相をした、小さな小屋。それが命を繋ぐ為の光明だと思ったジンは、無我夢中で歩みを早めた。


 陽炎のように定まらない意識と視界。だけど決して、小屋の姿を失うまいと心の中で叫び声を上げながら、自らを鼓舞した。鐘を叩き付けた音が心臓の辺りからする。幻聴だと理解しても、それは止むことはない。


 白く輝いている景色が濁り、小屋が遠ざかっていく錯覚に陥る。歯を食い縛り、手を伸ばし続けた。


 しかし、手のひらが木のドアに触れたと思えば、その温かさに愕然とする。急に安心感が広がり、ドアへもたれ掛かるように膝を折った。


 閉じていく意識の中、薄らかな声を聞いた気がした。



▼▼▼


 地面に降り積もる雪と同じ白銀の髪を靡かせながら、リーリアは村の裏手にある山道を歩いていた。透き通った肌は林檎のような赤が混じっている。晴天を思わせる澄んだ碧眼に映る光景に、可愛らしく首を傾けた。


 荒んだ樹木のような雰囲気がある小屋の前には人が倒れていた。小走りで近寄り、倒れている人物を窺うようにしゃがみこんだ。リーリアはリスを連想させる大きな目を見開き、雪に反射される光が引き立て役になる程の眩い美貌の顔を近付けた。


 針のように堅い黒髪は、一切の手入れを行っていないのかボサボサだ。粗暴さを感じさせる顔付きには良い印象はなく、山賊だと言われても納得してしまう。陽に焼けた浅黒い肌は血の気を無くしており、色が薄くなっていた。古い外套越しでも分かる鍛え上げられた肉体も、今は力強さを失っている。歳は三十にも到達していない頃の若い男。


 明らかに衰弱して、このままでは死んでしまう。悪い印象を横に置き、リーリアは慌てて小屋のドアを開き男の両脇に手を入れた。中から流れてくる暖かな空気とは裏腹に、男の体は冷えきっている。華奢な体躯を精一杯に使い、男を小屋の中へ引きずった。すかさずドアを閉めて、息を吐く。


 外観に反して、小屋の内部は意外と整っていた。ともすると、空虚な印象を受けるだろう。生活に必要なもの以外は排除して、少ない家具を指定の位置にきちんと置かれていた。ここに来た人間は、一度は気温に対しての疑問を持つ。外の凍てつくような寒さと相反するように、ちょうど良い暖かな熱が室内を支配しているのだ。


 熱の発信源は、見るからに寝心地が良いとは思えない簡素なベッドに横たわる少年だった。彼は室内に入ってきたリーリアを確認したのか、緩慢な動作で上半身を起こす。感情の読み取れない、影のある碧眼をリーリアに向けた。


「姉さん、お帰りなさい」


 リーリアと同じ白銀の髪は、この地域に生まれた証である。血縁を意識させる程に、その顔はリーリアに似て儚げな美しさがあった。棒のように痩せ細った手足を動かし、ベッドから立ち上がる。まるで、その行為が予め決められていたかのような無機質さを感じた。


「イヴァン! お湯を用意して!」


 イヴァンと呼ばれた少年は、姉の言葉に一切の感慨も伺わせず傍らの壺から、椀状の容器を用いて水を汲み上げた。その上部の壁には窓が設置されて、そこから太陽の光が射し込んでくる。焦る事もなく、イヴァンは容器の中に手を入れた。すると、水から湯気が立った。


 その様子を尻目にリーリアは素早い動きで男の体を温める為に壁にある、防寒用の毛皮で作られた外套を男にかけた。その時にはイヴァンは容器を持って隣に立っていた。暗い碧眼には一切の感情は無く、彼は男を見下ろしている。


「この人を助けたいの?」


「そうよ。だから、早く暖めてあげないと」


 姉の必死な様子にイヴァンは目を伏せながら、意識の無い男の傍にしゃがんだ。容器を置き、リーリアの顔を覗き込むように見る。


「そんな事より、もっと早い方法がある」


「何? あるなら、早く助けてあげて」


「うん。分かった」


 そう言うと、イヴァンは緩慢な動きのまま男の顔に自身の顔を近付けていく。一瞬、リーリアは弟が何をしようとしているのか理解出来なかった。


「あっ……!」


 ようやくイヴァンの真意に気付いた時にはもう遅く、彼は男と唇を合わせていた。さも当たり前の事のように、何の躊躇もなく彼は得体の知れない薄汚れた男と接吻をしてしまったのだ。


 衝撃と困惑、そして何よりも正体不明な忌諱感に苛まれたリーリアは、顔を真っ赤にして手で視界を遮る。しかし指の隙間から覗く辺り、年頃の女らしい興味はあった。生まれてから男性と接吻すらしたことの無いリーリアも、やはり十七歳の少女である。


 問題なのは、男性同士だという事ともう一方が自分の弟だという事か。しかも、おそらくイヴァンはこれが初めての接吻だ。相手が男性とは、なんという悲劇だろう。本人は気にしていなくとも、彼の姉であるリーリアは謎の罪悪感が胸に広がった。


「な、何をしているの……?」


 リーリアの問いかけに顔を上げ、あくまでも無表情を貫きながらイヴァンは答える。


「こうした方が早いから」


「いけません、いけませんよ! いくら人を助ける為でもーー」


 ゴニョゴニョと煮えきらない言葉を紡ぐリーリアの反応に、イヴァンの声が響く。


「助けなくても良かったの? 姉さんが言った事なんだけど」


 その言葉に、頭を殴られたような衝撃がリーリアを襲った。確かにこれは自分が言った事であり、他人の命を助ける為なら手段を選んではいられない。自らを犠牲にして見ず知らずの男を助けるイヴァンの優しさに、涙を浮かべた。


 彼を知る者は、感情の無い人形だと言うがリーリアは知っている。イヴァンという少年は誰よりも優しい、きちんとした人間なのだと。


 左手で溢れそうになる涙を拭いながら、右手で男の肌に触れる。既に身を蝕んでいた冷気は消え失せ、人肌の温度に戻っていた。


「ところで、なぜ唇を合わせる必要があったの?」


 純粋な疑問が沸き上がり、リーリアは首を傾げながら質問をした。


「接触しながら僕の息を体内に入れる必要があったから」


 再び、リーリアを愕然とさせる。とある事実、その可能性に気付き心臓が早鐘を鳴らすように鼓動した。


「じゃ、じゃあ口の中に舌を入れたりは……」


「うん。口を開ける為と、滞りなく息を吹き入れる為に」


「はぅ……」


 男性を知らぬ生娘には刺激が強すぎたのか、リーリアは目を回しながら倒れてしまった。


▼▼▼



「あらあらあら、まあまあまあ」


「うむ、それは、だな、非常に、なんというか……」


 ジンの話を聞いていたアイナとリングスは、各々の反応を示した。アイナはニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべ、リングスはその強面を曖昧に歪めている。ジンとしては不本意な反応であった。


「何だよ、テメェらその反応はよォ」


「いやぁ、儚げな美少年と接吻とは、中々出来ない経験だねぇ」


「そうだな。何事も経験と言う。しかしジンよ、この国では男色は認めれておらん。あえて荊の道を歩むと言うのなら止めはしないがな」


 非常に遺憾である。男色とは人聞きの悪い。むしろジンは女好きを声を大にして言いふらす程に女が大好きだ。傷だらけのテーブルを叩き、凶悪な瞳で二人を睨み付けた。


「喧嘩売ってんなら買うぜ」


「そんなもん誰が売るか」


 ザラザラとした感触を手のひらに感じながら、ジンは思案の表情をするリングスに目を向けた。


「どうしたんだよ」


「幾つか疑問に思う点があるのだが、訊いても良いか」


「別に構わねぇ」


「うむ。では一つ目の疑問から。ジンはその時、意識を失っていたのだろう? なぜ、そのリーリアという娘の心境まで話せるのだ?」


 ジンは乱暴に頭を掻き、何かを思い出すように視線を上へやる。証明が顔を照らし、自分でも何を思っているのか分からない、曖昧な表情をした。


「目覚めてから聞いたんだよ。だから、俺がこの目で見たわけじゃねぇ。あのガキと口を合わせたのも、事実かどうかなんて俺には分かんねぇんだ」


「なるほど。では次、もしやその少年というのは異能者ではないか?」



 リングスが言う異能者とは、特殊な力を持つ人間の事だ。存在自体は稀であり、そうそうお目にかかれない人種である。地域によっては崇拝の対象になったり、逆に悪魔のような扱いを受ける事もあった。


 記憶の中に存在するイヴァンは後者で、感情の起伏が薄い事も相まって忌み子と呼ばれていた。曰く、彼が生まれてから両親は謎の死を遂げ、村の中には異能で殺したのではないかと言われる始末。


 ジンは首肯で問いの答えを表した。


「冷気を奪う能力だって本人は言ってたな」


「それは、稀有な体験をしたのだな」


 何やら黙りこくっているアイナに怪訝な表情をする。そんなジンに、リングスは最後の質問だと言って口を開いた。


「ジンはなぜ、そのような場所にいたのだ? 普通に考えれば、雪に慣れていない人間が雪山に入るなど正気の沙汰ではない」


「あァん? そんなもん迷っただけに決まってんだろ」


「……ジンよ、お前は馬鹿なのだな。良くこの二年間、生き残れたものだと私は関心しているぞ」


 確かにそれは自分でも思っていたが、あえてリングスの呆れた顔を無視して先程から黙っているアイナに意識を集中させる。俯き、どこを見ているのか分からない表情をしている彼女に、ジンは声をかけた。


「何黙ってんだ。テメェが聞きたいって言うから、話してやってんだろ」


「え? あ、あぁそうだな。ごめんごめん、ちょっと眠くなってきたんだよ」


「なんだ、ガキは寝る時間か? もう寝るってんなら、俺も長話しなくて良いから助かるんだけどよ」


「いや、聞かせてくれ」


 アイナの額から流れる汗は、暑さからかはたまた全く別の何かかは読み取れない。ただ、眠いというのが嘘だとは分かってしまった。


「ガハハッ! やはり私の娘だな! 冒険に思いを馳せて、眠気さえ捩じ伏せるとはな」


 馬鹿みたいに笑うリングスを鬱陶しく感じながら、ジンはテーブルに肘を付いた。白く覆われた記憶を手繰り寄せ、姉弟との思い出を呼び起こす。


 あの、命をも凍らせる白銀の世界で姉弟がジンと出会い、どういった軌跡を辿ったのか。彼らにとって、その出会いが分岐点だったのは確実であり、もしかすると出会わなければ少年は姉以外の誰からも拒絶された、閉じられた世界で生きていたのかもしれない。

 

 過ぎてしまった記憶を言葉に預け、ジンは再び話し始めた。


 

 つづく。

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