無知の免罪符は在らず
入彦は大王の出発を明日に控えてそわそわしていた。何度も何度も入姫の部屋へと訪れ、あれこれと世話を焼きたがった。
たった一人の娘がとうとう自分の元から離れて遠方へと去ってしまう。もう生きているうちには二度と会うことは無いのだろうと思うと、少しでも長く入姫の元で取り留めのない話でも何でもしたかったのだ。
しかし、わりかし落ち着いている入姫に比べ、対照的に弟姫の様子が何だかおかしい。入姫の嫁入り話が決まった次の日の昼からだ。朝方はまだ怒っていたのに、何処かへと出かけて戻ってきた後からずっと顔色が悪かった。入姫の手前、元気そうに振る舞っているものの、ふとした瞬間に何かを伝えたいのに伝えれないもどかしそうな顔をする。入彦は気づいていたが、果たして自分にしてやれることがあるのか微妙な問題であったので、関与することはしなかった。
今も刻まれていく時を惜しむようにして、入彦と弟姫は入姫と歓談していた。白々しい空気が時々混じるものの、話題の少なさから来るものだと思って、言いたいことを色々と話合った。
そうやって過ごす一日はあっという間で、直ぐに夜がやってくる。あぁもう夜だと思ってお休みを言えば、直ぐに朝がやってきて、おはようすら言わないうちに入姫は屋敷を去っていった。
入姫はさようならを言うと泣きたくなるからと言って、鳥も鳴かぬ時刻に池の宮まで行ったようで、そこから夜明けと供に旅立っていってしまった。
あれだけ仰々しかった大王の行列は、入姫が何か言ったのか、帰りは曲部の一人も起こさないで静かに去っていった。
入彦は空虚な気持ちで屋敷を歩き回る。どこもかしこも入姫の気配が残っていて、実感がわかなかった。ふとした拍子に入姫が顔を覗かせる気がしてならない。
弟姫の様子も似たもので、ぼぅーっとしていて以前のような覇気がない。入彦が立ち直る頃も弟姫の様子は一向に変わる気配はなかった。さすがにこれはおかしいと思って、弟姫を自室へと呼び寄せる。
「ここの所、様子がおかしいぞ。確かに入姫はもういないが、いつまでもそうしているのは、私たち以上の寂しさを持つ入姫に対して失礼ではないか」
入彦がわざと強い口調で言えば、弟姫はのろのろと首を上げた。
「……ごめんなさい」
顔を上げた弟姫の顔色は真っ白で血の気が引いており、さすがの入彦も眉根を寄せた。熱があるのかと額に手をやってみるけれどもそうでもない。
入彦が深く探ろうと口を開く前に、弟姫は立ち上がった。
「私、部屋に戻ります」
そう言って背を向ける。その背に、入彦は一言だけ言葉をかけた。
「お前、以前入姫に作ってもらった首飾りはどうした。いつも付けていただろう」
弟姫は立ち止まる。確かにその胸元には鮮やかに弟姫の美貌を引き立てていた首飾りはない。だけれど振り返らなった。その在処はすんなりと弟姫の口から出た。
「なくしてしまいました。……失礼します」
弟姫は部屋から出ていく。入彦が心配する間もなく、入れ替わりに阿弖が入ってきた。
阿弖は大王から贈られてきた褒美を幾つか手に持ちながら、すれ違った弟姫を心配そうに見送る。
「弟姫さまは大丈夫で御座いやしょうか……」
「そうだな、心配だ。阿弖、暫く様子を見てやってくれないか」
「いいですが、弟姫は最近しょっちゅう出かけていらっしゃるようで……」
「一体何処に?」
「さぁ、それがよく分からんのです」
阿弖は手に持っていた褒美の品の一部を机の上へと置いた。銅鏡、勾玉、管玉、黒曜石、銅剣、石剣……。どれも装飾や祭司に必要な類の物ばかりだ。
「言われた通りに布類は曲部へ、鉄類の半分は今、農具へと作り替えております。残りの品はこれらだけですがどういたしましょうか」
「残り半分の鉄剣と一緒に倉へ放り込んでおけ」
指示を出し、神妙な顔で続ける。
「お前、それが終わったら先に言ったとおりに外出する弟姫の後を付けなさい。そして弟姫の様子がおかしい理由を探ってくるのだ」
「はい」
阿弖は持ってきた荷物を再びかき集めながらしっかりと頷く。
入彦は不安感が募るばかりで弟姫を問いただしたかったが、理性でそれを押し留めた。
***
弟姫はこっそりと屋敷を抜け出した。うっすらと白く積もっている雪は入姫が旅立つよりも前からあって、未だに溶けないで残っていた。
弟姫は足早に歩いていく方には例の池がある。黙々と脇目もふらずに一直線で歩いたからか、あっという間に池にはたどり着く。だが、そこで足を止めなかった。池を通り過ぎて林の中を歩んでいく。
やがてだいぶ歩いたとき、小さな洞穴が現れた。そこの直ぐ入り口で膝を付き、腕を組み、目を臥せて、祈る。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
弟姫が謝るのは目の前にい横たわる空っぽな大碓だ。あの日、夜が明けると同時に大碓に無茶な頼みを言ったことを謝りに出掛けたのだ。
そこで小碓と出くわした。髪を垂らした青年は二度目に会った大碓だと直ぐに気がついた。同じ顔が二つ並んでも些細な違いは違和感を持たせ、弟姫の記憶を揺すぶったのだ。
小碓は丁度、大碓を池から引き上げているところだった。最初は大碓と全く同じ顔の小碓に驚きもしたが、その驚きも、息をしないで胸を赤く染める大碓を見た途端に恐怖へと塗り替えられた。
今にも悲鳴をあげそうになる弟姫に、小碓は笑って言うのだ。
『君が昨日あんな事を言ったから、兄上は死ななくてはならなくなったんだよ』
弟姫は愕然とした。震える声で自分のせいだと言うのか、と小碓に問うた。小碓はますます笑うだけだった。
そして大碓をこの洞穴へと運び入れて、さっさと去ろうとした。その時に小碓は弟姫に口止めをするのを忘れなかった。
『誰にも言ってはいけないよ。私が再びこの地に来るまで、祀っても墓を作っても駄目だ。そんな事になっていたら、私は君に何をするか分からないからね……』
ひやりと冷え切った手で、弟姫の首を軽く撫でた。弟姫は身体を強ばらせて、ただその言葉を噛みしめる事しか出来なかった。
今、大碓の首には例の入姫が作った首飾りがかけてある。弟姫の物だが、せめてもの償いだ。そして暇さえあればここへ足を運び、祈り、謝罪する。
『都に行けば大碓さまと毎日会えるのよ』
そう言って笑っていた入姫の微笑みが浮かんでは消え、浮かんでは消えた。自分は姉のささやかな心の慰みすらを奪ってしまったのだ。
後悔の罪は決して消えない。
永久に弟姫の心を苛み続ける。