大碓の秘め事
その夜、弟姫は屋敷を抜け出した。月明かりを頼りに走って、池へと足を急がせる。今度こそ大碓の真意を聞くのだ。
弟姫は息を切らして走る。冬の夜道は想像以上に冷気が突き刺さり、指先や爪先の感覚がなくなる頃、やっと池へとたどり着く。ここからどうしよう。
弟姫は大碓が普段何をしているかを知らないから、ここに来る以外に大碓と会えそうな手段を知らない。うろうろと周辺をさまよっていると、ちょうど散歩していたらしい大碓に合うことが出来た。
「大碓さま!」
暗闇だったが、しっかりとした体躯の大碓は暗闇でもその形がよく分かった。
大碓の方はというと急な来訪者に驚き、目を細めて誰だろうかと思う。
「大碓さま、お願いよ。姉上様を連れ出して逃げて! このままじゃ、姉上様が結婚しちゃう」
汗に混じって涙までも溢れそうになるのを必死に堪える。大碓の袖を掴んで詰め寄れば、大碓はやっと誰か認識したようでますます驚く。
だけれど大碓は落ち着いた声音で、諭すように言った。
「……無理だ。大王の命には逆らえない。逃げても無駄だ。入姫もそれを承知で適切な距離を保ってきたんだ」
「でも、」
弟姫は食い下がる。大碓は掴みかかる弟姫の手をゆっくりと離しながら、囁いた。
「入姫は賢い。無駄な争いを生まないで、誰もが平和になれる道を歩むんだ。その意図を汲んでやれ」
そんな事、弟姫だって知っている。でもそれは入姫の自己犠牲の上になりたっているのではないか。そこが弟姫には納得行かない理由。
「大碓さまは姉上様を愛していらっしゃらないの?」
「俺が恋のためなら何でもするように見えると? それに結婚するだけが恋の道ではない」
大碓は自嘲する。
弟姫はぐっと詰まった。あの柔和な入姫さえ説得できなかった自分が、大碓を説得できるわけがなかったのだ。そこを自分は理解していなかった。
弟姫は唇をきつく噛んだ。そうでもしないと無様に泣き崩れそうだった。
「……まだ機じゃないんだ。その時になったら連れ出すさ」
大碓の呟きに弟姫は顔を上げる。月明かりで陰って見える大碓は真摯な眼差しで先を見つめていた。
「どういうこと?」
「俺は近々、反乱を起こして大王の座に着こうと思っている。この国には新しい波が必要なんだよ」
「……波?」
「人は学習することで成長する生き物だ。その学習の対象がないといけない。……この国の反乱分子をかき集めて反乱を起こせばそれなりの勢力になるだろう。言ってみればまほろばの力の影響とはそれだけなんだ。本当はそこでわざと負けて小碓辺りに国を纏めさせようと思っていたが……本気であらがってみるのも有りかもしれない」
悪戯を思いついたように言う大碓に、弟姫は唖然だ。まさかそんな大規模な計画を大碓が立てていたなんて。
でも、はっとして弟姫は言う。
「で、でもそれじゃ、姉上様も危険になるじゃないの!」
「本当に愛し合っているなら、それくらい何ともないさ。そこらへんはまだまだお子さまのお前には分からんだろうがな」
にやりと笑ってみせる大碓は、がしがしと弟姫の頭を撫でた。弟姫は大碓の手を払いのけて、ぼさぼさになった髪を整えようとする。でも大碓の腕力は大きくて歯が立たない。
やっと解放して貰ったとき、弟姫はがしがしと豪快に撫でられたせいで少しふらついた。
「お前は心配しなくていい。これは俺達の問題だから」
その言葉を聞いて、弟姫はまた泣きそうになる。大碓も入姫も自分を関わらせようとしない。弟姫はとっくに巻き込まれる気はあったのに、二人とも笑って許さない。
弟姫に出来ることなど、最初から何もなかったのだ。