入姫の秘め事
入彦は宴が終わると、自室に入姫を呼び入れた。弟姫は何処からかふらりと戻ってきて入姫にくっついて行った。入彦は別に聞かれては困る話じゃないと思ったので、弟姫にも入室を許可してくれた。
娘が二人とも木簡だらけの部屋で、それらの山を崩さないように座るのを見てから、入彦は先ほどの宴で決まったことを話す。やはりという結果となって、入彦は四六時中渋い顔だ。
「入姫、お前は大王に献上されることとなった。覚悟は決まっているな?」
「……はい」
目を伏せて入姫は頷いた。非常に落ち着いていて、入彦としては少し寂しい気もした。
しかしこの事実に猛反発する者がいた。宴に参加していなかった弟姫だ。初めて聞いた話に、弟姫は憤然として抗議する。
「どうしてそんな事になっているのよ!」
「大王はもともとそのためにここにいらっしゃったようなものなのだ」
「でも、姉上様は……!」
弟姫は入姫と大碓の仲を知っている。今日、池に行ったのも、こうならないために大碓に真意を問いただしたかったからだ。それがどういうわけか話がおかしな方へ歪んでしまったせいで話すことが出来なかったが。
入彦は弟姫のささやかな奮闘を知らない。
入姫もその可能性があったから、大碓との距離を零距離にまで縮めることは決してしなかった。どんなに惹かれても、互いに触れ合うことはしなかった。後悔はしていない。
「弟姫、私がどうかしたの?」
いつもよりも綺麗な、でも悲しそうな微笑みで入姫は笑った。弟姫は納得いかない。
入姫は大碓への思いを隠すつもりだと悟った。
自分たちは幼い頃から入彦が決めた相手と結婚するように言い含められている。逆らうという意志はほとほと無いし、自分のことでもないけれど、どうも納得がいかない。
弟姫がむすりとしていると入彦は首を傾げた。入彦は事の次第を知らない。悟ってはいるものの、詳しくは知らないのだ。
「どうした。何かあるのか」
「……いいえ、何でもないです」
弟姫は小さく言って、立ち上がる。前髪が垂れて表情を隠した。
「部屋に戻ります。失礼しました」
「私も戻りますね」
弟姫が退出するのに合わせて、入姫も部屋を辞した。無言で小走り気味に歩く弟姫の背中を追いかけるようにして、部屋へと戻りに行く。
途中、日当たりの良い庭に面した廊下で入姫はぽつりと漏らした。
「綺麗……」
時刻は夕方。昼と夜が出会う時。夜の始まり。黄昏時。
空は鮮やかな茜だけではなく澄んだ紺とふんわりと輝く黄金が溶かされていて、色が移り変わっていくよう。滅多に見れない空模様に、入姫は感嘆を漏らす。
弟姫も立ち止まり遠くを見た。名も知らない鳥が群れを成して夕陽に向かって飛んでいく。寂しさ募る風景に、弟姫はぼやく。
「どうして姉上様は嘘を言うのよ……」
「何のこと?」
「大碓さまのことよ。姉上様、本当は大碓さまのことをお慕い申し上げているのでしょ? 私、分かる。姉上様は大王のもとへ行くよりも大碓さまのもとへ行きたいってこと、私、知ってる!」
強い口調で、顔を見られないように俯いて、弟姫は責める。何も本音で語らないで、笑って全てを受け入れる入姫を、弟姫のやるせない想いを以て責める。
入姫はそれでもふんわりと笑ってみせる。その微笑みに嘘偽りはない。
「私は別に何も考えていないわけじゃないわ。だって、都に行ったら大碓さまと毎日会えるのよ。望んだ形ではないけれど、一緒に過ごせるのだから十分よ」
“望んだ形ではないけれど”。
弟姫はその言葉に唇を噛む。入姫は気づいていないだろうが、やはり心の底では入姫自身が願っている形があったのだ。弟姫は入姫の望む形を叶えてやりたい。たった一人の姉なのだから、遠くへ行くのだとしても幸せになって欲しい。
都は弟姫も入彦もいない寂しい場所だ。そこで一生を大王に仕えるだけだなんて、入姫はそれでいいのだろうか。
(……良くないに決まっている)
そう思うから、せめて大碓とは結ばれて欲しい。大王に仕えるなら別に妻ではなくても良いのだ。弟姫は国中の美姫を侍らす大王の姿を想像して半眼になった。そんな所へ大切な姉上様をやれるかと一人苛立つ。
「弟姫、もっと話しましょうよ。私、大王と一緒に発たなければいけないから、時間があまりないの。今日の夜は、久しぶりに二人で寝ましょう?」
「……ずるいよ」
入姫の覚悟はとっくに決まっていたのだ。