入彦の憂い
最近、入彦には気になることがある。
二人の愛娘のことだ。
可愛い二人の娘の行動が最近おかしいのだ。入姫の方はどうやら外へと頻繁に出ているようであるし、弟姫の方はそんな入姫の行動を隠すようにして過ごしている。だが、良いとも悪いとも何の話も耳に入らないので取りあえずは放っておいている状態だ。何とかしたいがどうもその口実が見当たらない。
入彦は仕事の合間にずっとその事を考えている。そしてその悩みをも越える仕事が今、入彦の頭を悩ませていた。
大王の行幸。
先日、大碓がやってきて宮と池の完成を告げた。そして善は急げとばかりに使者を都へと送り、大王にも告げさせているという。
本当に大王が行幸なさるというのなら、曲部からの税の徴収を少し増やして大王を歓迎する体勢を整えなければならない。曲部の中から見目の良い女を選び、付け焼き刃でも良いから教養を学ばせる必要もある。下働きの女は最低でも用意しなければならないのだ。その選定やら必要経費の獲得やらに追われている。
入彦は筆を置き、首を巡らした。部屋には木簡があちこちに散らばっている。机の上の空間を確保するために書いては放って書いては放っているせいなのはよく分かっている。
それを下人の一人が拾って分類分けしていた。阿弖という名の彼は文字が読める数少ない人材だ。
「……阿弖、最近変わったことはないか?」
「はい? どういう質問で御座いやしょう?」
急に声をかけられて阿弖は驚きつつも、その真意を尋ねた。その際、がらがらと木簡の山に腕を引っかけて派手に崩してしまうが、入彦は苦笑しただけで特に注意はしない。
「里の様子はどうだ。まだ正式に決まっていないのに、大王が来るかもしれないと浮き足たってはいないか?」
「そんな事は無いですなぁ。……あ、でも。姉姫様がよくお出かけになってらっしゃるのは耳に入ります。どうやらお池に通っているようで」
「池?」
入彦は訝しがった。池は池だ。確か入姫は池に落ちて風邪を引いたと言っていたが、その場所へ通っているというのか。
何のために、と思いつつも深いことを阿弖に問うことは出来なかった。問いかけても無駄だ。話している間、阿弖の視線はうろうろとさまよっていたので、多分だが弟姫辺りに口止めされているのが予想された。弟姫が屋敷の者たちに口止めをして回っているのも知っている。
別に入姫が池を見に行くのは良い。だが、入姫が池で何をしているかが分からないから困るのだ。もし逢い引きなどをしていた場合、辛い思いをするのは入姫だ。大王が召し上げるのを望むとしたら、献上すべきは姉の入姫だからだ。
傷を作るなら浅い方がいい。
入彦はままならない世の中をこれほど恨むことは今以上に無いかと思えた。想いを遂げられない辛さを教えたくはないのだ。
悶々としながら木簡を処理していくと、門の方から誰かの声が聞こえた。阿弖に行かせると、阿弖はその手に一つの木簡を持ってすっ飛んで帰ってきた。
「や、やややや八坂さまっ! これを……!」
受け取って目を通す。目で文字を追っていくと、段々と眉間に皺が刻まれていくのが自分でも分かった。
「早すぎる……」
入彦の呟きも無理はない。
──二十日後、大王はこの地へとやってくる。
まだ冬がやってきたばかりで、行幸をするのにはあまり適さない季節だった。