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太陽と月が沈む頃に

作者: しぐれ

 ―――まず、知っておいてほしいことは、僕は何故こうなったのか自分でも解っていない、ということ。


 産まれたときからこんなだったから、自分が普通だと思っていた。違うと知ったのは、確か中学校に入った頃。マセガキだった馨は、いきなりしゃしゃり出るのはいろんな意味で危険だと判断し、周りをそっと観察して、ああ、自分みたいな奴は一人もいないって解って。気味悪がられるのなんて目に見えてたから、わざと独りを選んだ。


 ――――はずだった。


「ねぇ、また学校なんて行くのかい?」

「そんなんつまんないって。どーせ、授業で起きてんの、ひとつもねえんだろ」

「……………」

かおるぅ〜〜! りもこん押してもてれびがつかないよぅ〜〜」

「えぇい、喧しい!」


 はずなのに、冷静沈着を売りにしている馨が怒鳴るくらい、馨の周りは騒がしかったりする。


 たちばな馨は両親と死別している。小さい頃だった。もう、はっきり覚えてもいない。兄弟もいないから家でも独りのはずの馨は、ある日を境に独りとは程遠い人間になってしまった。

 それは何故か。端的に言えば、四人の居候が馨の家に居座っているからだ。喜ばしくないことに、そいつらが非常に喧しい。一人例外がいなくはないが、単体でいれば静かなそいつも、結局四人集まってしまえば喧しいのだ。


「……馨、時間、のんびりしてると、遅刻」

「ああ、悪ぃ。サンキューなハク」


 居候が一人。名を白太はくた。通称、ハク。苗字は知らない。居候たちの中で唯一馨より背が低い。なんとも無口な奴で、普段滅多に喋らず、喋ったと思ったらとぎれとぎれで聞き取りにくいったらありゃしない。でも、自分たち相手に一生懸命喋ってくれてることを知っているから、嫌だと思ったことはない。静かな子だ。


「てれびがつかないーー! 馨、馨馨馨ぅー!」

「うっさい。邪魔だ、退け」

「いっだぁ!」


 馨はリビングから廊下に続くドアの前でグダッていたそいつを軽く蹴飛ばした。


 居候が一人。名を美紅みく。やはり苗字は知らない。正確なところは知らないが、外見的に歳は馨と同じくらいか少し上というところ。でも絶対精神年齢で負けてない自信が馨にはある。女なのに何故か馨より背が高い。少し複雑。ハクとは正反対でよく喋る少女だ。かしましい。


 大袈裟に痛がる美紅。そんなに力を込めていないから痛いはずはない。よって、無視。


「ギャハハハ! バッカじゃねーの、美紅! 登校準備中の馨に声かけたって、悪声罵倒が返ってくるだけだぜ?」

「むうぅーー」


 美紅がむすっと膨れてそいつを睨む。


 居候が一人。名を晴也せいや。こいつも苗字は不明。とりあえず短気で喧嘩っ早い。馨が知っている限りで、こいつが一人で外を出歩いて普通に帰ってきたことはない。必ず馨たちの誰かが交番に迎えに行く羽目になる。そして、いつだってこいつは無傷だ。うるさい。


「美紅、元電が入ってない。先にテレビ自体の電源入れなきゃいくらリモコンで電源ボタン押したってつきゃしないよ」

「あ、そっかぁ」

「おい、僕のコーヒーだぞ。それ」

「あ、ごめん。飲んじった」


 居候が一人。名を武蔵。言わずもがな、苗字は知らない。お調子者だが、何と言うか、油断ならない奴だ。簡単に言えば、ちゃっかりしてる。晴也も、こいつと出かけた場合、ほぼ百パーセントの確率で無事に家に帰ってくる。意外に面倒見が良い。五月蝿うるさい。


 美紅に原因を教えながら、テーブルに置いておいた馨のコーヒーをズズズ……と飲む武蔵。声に反応して振り返った顔にはいつもの笑顔。どうせ確信犯だ。追及するだけ無駄、もう一杯作ろう、と思って台所を振り返ると、ちょうどカップを持ったハクが出て来るところで。

 あ、と思ったときにはもう遅い。ハクはものの見事にすっ転び、コーヒーを床にぶちまけた。


「……………」

「あちゃー」


 馨は無言で頭を抱えた。横を椅子から立ち上がった武蔵が通り抜ける。

 ハクは気が利く良い子なのだが、いかんせん超がつく不器用である。何もない所で転ぶなんて日常茶飯事。この子にだけは料理をさせてはいけない。砂糖と塩を間違えるなんてまだかわいい方だ。何と言うか、カオスになる。馨も、まだ両親が残してくれたこの家を失いたくはないのだ。


 ぶちまけられたコーヒーとそれを頭から被ってしまったハクは武蔵に任せて、制服を着た馨は寝癖だらけの髪を掻きながら玄関に向かった。スニーカーに足を突っ込み、扉を開ける。太陽は雲の陰に隠れていた。今日もまた、面倒な一日が始まる。






 大半の生徒たちは、登校してすぐに自分の机に荷物を置き友達のところに直行する。或いは友達の方が寄ってくるんじゃないかと思う。少なくとも、一人で淋しく席につく奴なんて馨以外にはいないだろう。

 馨は挨拶を好まない。大体誰かに会うたびに何故僕がいちいち声を発したりお辞儀をしたりせねばならんのだ。面倒臭い。とは言うのが持論だが、無視するのは流石にまずいのも理解の内である。だから、されたらちゃんと返す。馨なりの最大限の敬意だ。


「おはよう、橘君」

「おはよ」


 隣の席の女子生徒が声をかけてくる。名前は確か、新宮にいみや揚羽あげは。艶やかな黒髪に濡れたような黒瞳、身長は馨と同じくらい。誤解がないように言っておくが、馨はまだ成長期が来ていない。彼女はなかなかかわいく、明るい性格なので、男女共から人気のある生徒だ。

 そんな彼女が何故馨に絡んでくるのか、馨自身にも解っていない。


「今日もすごい隈だね。寝てないの?」


「寝た。二時間くらい」

「二時間くらいって、ほとんど寝てないじゃん」

「いつもよりは寝た」

「そうだけど。橘君、ほんと夜何してるの?」

「勉強」

「嘘でしょ」

「嘘」


 もう、と頬を膨らませる新宮。その様子が今朝の美紅と被って心の中でそっと笑う。

 この三年二組で僕に声をかけてくるのは担任と新宮だけだ。担任も馨に苦手意識を持っているため、必要最低限のことしか言ってこない。それを嫌だと思ったことは一度だってない。寧ろその方が有り難いとさえ思っていた。なぜなら、馨は普通とは違うのだから。


「席につけーー今いないやつは遅刻だからな」


 チャイムが鳴り、担任が教室に入ってくる。それを"視"て、馨はうげ、と心の中でつぶやいた。本当に面倒臭い一日になりそうである。


「え〜、今日は特に何もない普通授業だ。阿部、漫画は禁止だぞ。しまえ。あと、最近不審者が出没するらしいから、下校時は気をつけろよ。特に女子。長谷川、後ろ向くな。前を向け、前を。あと、橘。おまえ後で職員室来い。以上。日直!」

「きりーつ。礼」


 反論する暇を与えない。流石岩ちゃん、鮮やかな手腕である。

 礼のあと座らずに馨は椅子を机にしまった。無論職員室に行くためである。いくら馨でも先生の命令を無視することは出来ない。ふと、顔をあげると教室全体が目に入った。窓側の一番後ろの席が馨の席であり、そこからは平凡な教室が一望出来るのだが。

 馨の前で生徒たちは各々が別々の目的をもって歩き回る。或いは一時間目の準備を、或いは友達と中断した会話の続きを、或いは時間割の確認を、或いは昼休みどのようにしてサッカーボールを確保するかの相談を。普通のひとにはそう見える光景が、馨の瞳には全く違って映っていた。


 流れ、というものがある。風の流れ、水の流れ、電気の流れ、地脈の流れ。万物において、流れを持たぬものはない。それは、無機物も有機物もそうであり、生物も例外ではない。ものは必ず流れに沿って存在している。生まれ、存在し、いずれ腐敗、朽ち、消える。そして、また別のものが生まれる。


 馨はその流れを"視"ることが出来た。もの心ついたときからそうだったから、自分が見ているもので混乱したりはしない。先程岩ちゃんが入ってきたとき、彼の意識の流れは馨に向いていた。それは無意識に彼が馨を気にしていたということで。今までにも幾度かこういうことがあったので、また呼び出しかよ、と思ったのが実際のところだ。


 教室を横切りドアを開ける。クラスの大半の感心が馨に向いているのが嫌でも目につき、馨はわざと廊下の脇に置いてある消火器だけを見ながら歩いた。いくら無関心を装っていても、みんな"大人しい問題児"である馨が今度は何をしでかしたのか、興味津々なのである。

 無性に腹が立ち、チッ、と舌打ちをすると、馨は職員室へと向かった。






「橘、この高校はどうだ?」


 馨が職員室の岩ちゃんの席に到着して、第一声はそれだった。


「俺が調べてみたところ、此処からなら自転車で行ける距離だし、公立だから学費も安い。おまえの家庭状況をお話ししたところ、特別待遇で迎えることも考えてくださるそうだ。偏差値的にも」

「遠慮します」


 パンフレットを広げながら一生懸命話す岩ちゃんの言葉を、馨は簡潔に一言で遮った。岩ちゃんの顔に落胆の色が広がるのが見ていなくても手にとるように解る。窓の外の小鳥を目で追いながら、馨は岩ちゃんの説得を聞き流していた。


「でも、でもな橘。決して悪くないんだ、この学校。一般的にみたら高い学校だが、おまえの頭なら簡単に入れる。部活も盛んだし、ほら、おまえ確かピアノが弾けたろう? あそこは音楽部も」

「いいですって。僕は進路志望を変える気はありませんと、何度も言ったはずっスよ」


 取り付く島もない馨の態度に、岩ちゃんはとうとうなにも言えなくなってしまう。そのまま黙ってしまった岩ちゃんなどそっちのけで、馨はあと二分で一時間目が始まっちゃうな、などと考えていた。


「こらこら、橘。岩村田先生が可哀相じゃないか。資料くらい見なって」

「佐々木サン」

「佐々木先生だろ」


 見兼ねてフォローを入れてきたのは数学教諭の佐々木先生。学年主任の佐々木先生は馨に物怖じせず話しかけてくる数少ない一人だ。サバサバした性格の彼は、自分に正直だから話していても嫌なものを視なくてすむ。


「必要ないっスよ。僕は進路を変えるつもりはないし、ただ岩ちゃんが僕にしてくれることに関しては感謝していますて」

「だからって断るにも態度ってもんがあるだろが」

「態度、ね。本気で言ってます?」

「おまえにそれ求めたって無駄だってことくらい承知の上だ」

「解ってるじゃないっすか」


 会話が途切れるのを狙っていたかのように、チャイムが響き渡った。馨は岩ちゃんと佐々木さんにさりげなく視線を送った。岩ちゃんは机に肘をつき頭を抱えていたが、馨と目が合うと、行け、というように手を振る。佐々木サンもそれに頷いた。いくら学年主任でも、学生を授業に遅刻させるわけにはいかないらしい。


「んじゃ、しつれーしました」


 馨が職員室を出ていくと、佐々木サンは、机に寄り掛かり大きくため息をつく岩ちゃんに視線を向けた。


「ところで、今までずっと気になっていたんですが、橘のやつ一体どんな高校いくっていってるんです?」

「ここです」


 渡されたパンフレットを見て、思わず呻いた。


「定時制、か………」






 放課後。


 今日も答えてくれなかった……。

 新宮揚羽は田んぼの畦道あぜみちを歩きながら人知れずため息をついた。


 揚羽の隣の席の橘馨とは三年生になって初めて同じクラスになった。それまで噂では聞いていたものの実際に見たことはなかった。"大人しい問題児"。学校では物静かで何の害もないが、授業で起きていたことはないし、遅刻、無断欠席はいつものこと。数日サボって、やっと来たと思ったら顔に大きな痣を作っていたこともあったという。先生たちもすでに指導を諦めているとか。

 それらを知っていたみんなは、係わり合いになるのを避けようとしていたし、当初は揚羽もそうしようと思っていた。今年は高校受験だし、リスクは少ないほうがいい。


 けれど、何度か席替えをしたあと馨と隣同士の席になり、そのすぐ後に起きたある出来事により馨に対する評価がからりと変わった。


 それは席替えをした次の日。四時間目の理科の授業だった。

 残りあと五分。次は給食だな〜、などと考えていた揚羽は、いきなり先生に呼ばれ、慌てて返事をしてしまった。どうしようもなく迂闊だった。理科の矢嶋先生は何故か揚羽を目の敵にしていて、いつも難しい問題ばかり当ててくる。理由は知らない。いつもなら先に問題を解いておくのだが、あと五分という時間が、揚羽の心に油断を生んでいた。


 黒板に書かれていたのは応用だという入試問題。今日の授業で基礎をやったばかりだ、こんなもの解けるはずがない。黙ってしまった揚羽を、矢嶋はここぞとばかりに馬鹿にする。しまいには「後で理科室に来い。僕が直々に答えを教えてやろう」などと言い出して。ハゲ、デブの親父と教室に二人きり。考えただけで鳥肌が立つ。クラスのみんなは、どうやって揚羽を助けるべきか思案しているようで、みんなしきりに視線を交わしあっている。しかし、授業の残り時間はあとわずか。絶望的なその状況で、声をあげたのは、揚羽の友達でも、正義感溢れるクラスの男子でもなく、隣の席の問題児だった。


 ―――矢嶋サン、僕もそれ解んないっス。新宮と一緒に聞きに行ってもいっスか?


 教室が沈黙という名のベールに包まれる。クラスのみんなも、矢嶋先生も、もちろん揚羽も耳を疑った。あの馨が授業中に起きていただけでなく、言葉まで発したのだ。もしかしたらクラスの大半がこの時初めて彼の声を聞いたのではないかと思う。

 数秒後、「嘘」「え、今の誰?」「橘? 橘が起きてるよ!」などのざわめきが広がった。

 豆鉄砲に撃たれた鳩のような顔をしていた矢嶋先生は、「いや、これは、その」などとわけのわからないことを言っている。馨に背を押され、揚羽の前に座っていた女子が「私も解りません。新宮さんたちと一緒に行っても?」と言ったのを引き金に、クラスのみんなが同じように声をあげた。その勢いに呑まれた矢嶋は、次の授業で全員に解説すると言い、逃げるように教室を去っていったのである。


 授業終了後、揚羽は馨に礼を言おうとしたのだが、それより先にこう言われてしまった。


 ―――貸しイチな。あと、もう授業中僕を起こすな。貴重な睡眠なんだ。君の目覚まし時計っぷりにはうんざりなんだよ。


 正直じゃないなあ。

 揚羽は寝癖だらけの髪を掻きながら机に伏せる馨を見て、クスッと笑った。揚羽はちゃんと気がついていた。馨があの問題を本当は解けていたということを。机に広げられていたノートにはちゃんと答えが書いてあったし、詳しい途中式も書いてあった。おそらく、あれで矢嶋が引かなかったら答えを言ってしまうつもりだったのだろう。貴重な睡眠時間……あくまで彼いわくだが……を削ってまで彼は揚羽を助けてくれたのだ。


 その日から、揚羽は毎日馨と会話をしている。ただの挨拶から、他愛ない会話、最近ではたまに勉強も教えてくれる。

 理不尽だと思うが、馨は頭が良い。いつも寝ているくせに、馨が訊かれたことに答えられなかったところを揚羽は見たことがない。塾に通っている揚羽。実は少し悔しい。


 そうじゃなくて。

 最近揚羽が気になっていることは、馨の目の下の隈がひどいということだ。ちゃんと寝ているの、と訊くと大体、一時間くらいと答える。質問すれば絶対答えてくれる馨も、夜何をしているのかだけは答えてくれない。いつも「勉強」の一言ではぐらかす。馨の頭を考えれば、無きにしもあらずのはずなのだが、どうも納得がいかない。案の定、嘘でしょ、と言えば、嘘、と答えてくる。それは少し悲しい気もする揚羽である。

 そんなことを考えていたので、目の前の曲がり角から複数の不良が曲がってきたのに気がつかなかった。


「ゎきゃっ」

「いってえな!」


 先頭を歩いていた背の高い男子にぶつかってしまった。揚羽はがなり声に引かれるように顔をあげ、その端正な顔を恐怖に引き攣らせた。






「…………」

「どうした、ハク?」


 今、馨はハクと買い物に来ている。

 橘家は、居候、主に武蔵のアルバイト代で成り立っている。なんだかんだで器用な武蔵は、いくつもの店を梯子はしごしていて、馨が学校に行っているあいだ、休む間もなく働いているらしい。あの家は貸家ではないし、土地の所有権も馨にあるため土地代は取られないものの、税金はかかる。そのほか光熱費、水道代など、因みに食費も馬鹿にならない。何せ五人だ。武蔵がどれだけ頑張っても、間に合うはずはない。本当は、馨を除いた居候全員、一週間くらい絶食したってぴんぴんしているはずなんだが。


 つまり、橘家の家計は常に火の車。安いスーパーを梯子して、どれだけコストを抑えられるかは、買い物を担当するものの手腕にかかっている。馨とハクは、その梯子の途中、次のスーパーに向かっているところだった。


「ハク?」


 耳を澄ますように目を閉じていたハクは馨の声に反応し、顔をあげた。数歩先で待っている馨を見て、てててっとその傍らに走り寄る。

 この子を見ると、本当に和む。何と言ってもその仕種は小学生の子供そのもの。あのいろいろと濃い居候たちの中で唯一見ていて癒されるのが、ハクなのだ。同じくらい、手もかかるのだが。


 並んで歩きながら、じっと馨の顔を見上げるハク。愛らしい少年が電信柱と正面衝突する前に、馨はその腕を引っ張り軌道を逸らした。


「あ」


 そこでようやく自分が事故の危機にあったことに気づき 、目を丸くするハク。頭を抱えそうになるのを堪え、馨はさりげなく話題を振った。


「そんなボーッとして、どうかしたか?」

「なんでも、ない」

「なんでもないわけないだろ。電信柱と正面衝突だぞ? 僕に言いたいこと、あるんじゃないの?」

「…………」


 ハクは眉間にシワを寄せ、黙り込んだ。悩んでいるらしい。馨はハクの邪魔をしないように、じっと待った。


「ともだち」

「友達?」


 予想外の単語に、馨は思わず聞き返した。馨たちが出掛けている間に近所に友人関係を築いたのだろうか?

 ハクは前を向いたまま、こくんと頷くと言った。


「馨の」

「僕の?」


 さっきより驚き、無意識に口調が強くなる。ハクはびくっと身体をすくませると、叱られた子供のように自分の服の裾を両手で掴み俯いた。


「悪い、びっくりさせちゃったか」


 馨は慌ててハクの頭に手を置いた。今や完全に幼い弟を持った兄の心境である。


「そんな顔するなって。僕は怒っちゃいない」

「だって」

「平気だって。ハクは聴いたままを言っただけだろ。で? その僕の友達とやらがどうしたんだ?」


 再び並んで歩き出す。安心させるように微笑んでやれば、不安そうに眉をハの字にしていたハクは、ぼそぼそと話し出した。因みに馨がこんな風に笑うのはハクの前だけである。


「黒髪の子、不良に絡まれて、表の通りに、連れてかれちゃった」

「ふぅん………」


 黒髪。そう言われて頭に浮かんだのは隣の席の目覚まし時計娘のことだった。と言っても、高校じゃあるまいし、九割の生徒が黒髪なので、ハクが言っている黒髪の子が彼女かどうかは解らない。そういえば、と思う。馨は他の生徒の名前を知らない。新宮の名も最近やっと覚えたのだ。

 ふと視線を感じて振り向くとハクがまた歩きながらこちらを見上げていた。延長線上には道路標識。腕を引いて事故を回避。


「まだ何かあるのか?」


 ふるふると首を横に振る。


「そっか……。まあ、あいつも運がなかったってことだな」


 馨はくあっと欠伸をすると、そのままスーパーへの道を黙々と歩く。またしばらく馨の顔を見上げていたハクはどこか安心したように口元を緩めると、目の前に迫った電信柱をひょいっと避けた。






「来いよ、揚羽!」

孝明たかあき、女の扱いがなってねえよ! こういうときはなぁ!」

「テメェは黙ってろ、健二!」


 どうしよう。

 揚羽は不良たちのど真ん中にいた。


 ―――今日一日付き合ってくれたら許してやるよ。


 言いたいことは言う方だと自負していた。けど、どうやらそれは学校という安全地帯はこにわの中だけだったらしい。

 恐怖で喉が凍り付いてしまった揚羽は、ただ頷くことしか出来なかった。情けない。


 どうやらこのひとたちは高校生らしい。制服じゃないから確かではないけれど、おそらくこの辺では有名な不良高校の生徒じゃないかと思う。そして、運が悪いことに塾へ行く途中だった揚羽も私服だった。周りから見れば揚羽も高校生に見えてしまうだろう。制服ならまだしも、周りからの救助は望めなさそうだと揚羽は判断した。


 もうすぐ塾が終わる時間だ。

 揚羽の通っている塾は最後に出欠をとる。揚羽の無断欠席に気づいた先生が家に連絡をとるかも知れない。家族に心配がかかるのは嫌だった。


 高校生たちをまく方法を模索する。

 コンビニに逃げ込もうか。斜め前にあるコンビニをちらりと見る。

 無理だ。悔しいが揚羽の運動能力はかなり低い。これでは人込みを抜ける前に捕まってしまう。

 ならば交番は? それは最終手段。家族に心配をかけたくないし、いくらこのひとたちだって警察の目があるところに行くとは思えない。

 と、誰かが不良たちの前に立った。


「おい」


 揚羽がそれに気づいたのは、周りの不良たちが一気に殺気立ち、同じくらい一気にボルテージが下がったからだ。

 やばい、と。理解する。このひとは危険だ、と。


 スーツを着た男だった。それだけを聞けば、害のないように聞こえるが、違う。歳はおそらく三十代前半。髪を後ろに撫で付け、ワイシャツは第一ボタンしか開けていない。ネクタイはしていないものの、見た目は紳士そのものだ。けれど、彼の纏う空気がそのすべてを否定していた。


 おそらく、いや、確実に堅気ではない。


「坊主ら、こんなところで何してんだ」

「あ、俺ら、その」

「何でもいいが、帰れ。もうこんな時間だぞ」


 動揺してつっかえまくっている不良に、男はにべもなく言い放つ。恐ろしいくらいの無表情が一瞬、揚羽に向けられ、「ん?」というように顰められる。


「で、でも、まだ、十時ッスよ。今時小学生だって寝ちゃいませ……」

「俺に口答えするたぁたいしたもんじゃねえか。よほどその舌いらねえと見える」

「ひっ……」


 静かな声音で言い放たれたにも関わらず、それは背筋を凍らせる何かがあった。

 後ずさる不良たち。数瞬の間のあと、彼らは男に向かって頭を下げた。

 あのプライドの高い不良たちが頭を下げたことに一瞬驚いたけど、それも当たり前のこと。どんなに強がったって犬は狼には勝てない。


「すっ、すみませんでした!」

「ごめんですんだら警察はいらねえよ」


 現実でこの台詞を聞く日が来るとは。揚羽は地味に感動していたが、周りの不良たちはそんな余裕がないらしい。完全に震え上がっていた。指を隠すように両手を後ろにやるものまでいる。そんなことをしても、意味はないと思うのだが。

 そんな不良たちを上から見下すように、わざわざちょっと顎を上げて、見ていた男は不意に右手を持ち上げる。殴られるとでも思ったのか、ビクリと身体をすくませた不良たちは、しかしすぐに全身の力を抜くことになる。


「その子、ちょいと貸せ」

「は?」

「へ?」


 なんとも間の抜けた声をあげたのは不良たちだけではない。指された指の先にいた揚羽も、同様、否、同様以上の声をあげた。

 キョロキョロを周りを見回し、自分以外に該当者がいないことを確認する。それでも信じ切れないので、ためしに自分で自分を指差してみる。男が頷いたのを見て、揚羽の全身は緊張をはらんだ。

 不良たちは揚羽を貸せと言われて少し戸惑っているようだった。それもそうだろう。指定された子は自分たちの知り合いでもなんでもない、むしろ無理やり巻き込んでしまった子だったのだから。


「あ、あの、こいつをどうするんスか……?」


 恐る恐るといった体で口を開いたのは、道の角で揚羽とぶつかったあの青年だった。たしか、名前は孝明。


「別にどうもしやしねえよ。ちょいと聞きてえことがあるだけだ。坊主らはもう帰れ」


 男がさっさと行けと言わんばかりに、手をひらひらと振る。助かったという顔、未だに不安そうな顔、皆それぞれの顔で踵を返した中、孝明だけがその場に残った。


「本当っすか」

「おい、孝明……!」

「口答えするのかい」


 慌てて戻って来たやつが孝明の腕を引き連れていこうとする。しかし、責任を感じているのだろうか、孝明は引き下がらなかった。


「本当に、話を訊くだけっスよね」

「しつこいぜ。そうだっつてんだろ。なんなら、お前も来るか?」

「え?」

「場所を変える。ついてきな」


 男が踵を返す。

 ―――揚羽の腕を掴んで。


「あっ……」


 引っ張られてバランスを崩す揚羽。孝明は数秒悩むように唇を噛みしめる。しかし、振り返った揚羽と目が合った瞬間、ぐっと拳をにぎりしめると、彼は足を踏み出した。


 月は夜空を明るく照らす。






「馨」

「ん?」


 馨はソファーから身を起こすと、外したエプロンを片手にそばの椅子に腰掛けた武蔵を見上げた。

 夕食後である。橘家の食事はハクを抜かした当番制だ。今日の当番は武蔵だった。


「変な顔」

「考え事しているところにいきなり呼びかけておいて、それか。お前僕を怒らせるの好きだな」


 ひとの顔を見た瞬間、ぷ、と吹き出した武蔵に、馨は頬が引きつるのを自覚する。しかしすぐに平静に戻る。いつものことだ。もう慣れた。

 武蔵はきれいに片付けたテーブルの上にエプロンを放り投げると、前髪を掻きあげている馨に笑顔で言った。


「何を考えてた?」

「……別に」

「今の間は?」

「…………」

「あのさ、馨。お前はもう少し嘘が下手なのを自覚したほうがいいよ。俺だけじゃない。白太も晴也も、美紅だって気がついてる」


 流し目で武蔵を見る。いつものちゃらけた笑顔は消えていた。一応、隠していたつもりなんだが。

 馨はもう一度ため息をつく。


「僕、そんなに解りやすいか?」

「そりゃ俺たちから見りゃな。他の人間がどうかは知らないけど」

「そっか……」


 そっと苦笑する。彼らと馨との関係は他人とは言い難い。居候と家主というだけではないのである。


「こっそり行くのは無しだから。解ってるよね」

「……これは仕事じゃない」

「だーめ。仕事じゃなくてもおいてったら、美紅怒るよ」

「美紅……」

「僕も、行く」


 テレビを見ていた美紅、その隣でうとうとしていたはずのハクが、いつの間にかこっちを見ていた。

 その真っすぐな瞳に、わずかな息苦しさと嬉しさを感じる。次の瞬間、馨は頭に衝撃を感じて前のめりになった。ちょっと、痛い。


「つーか、勝手に行ったら、ぶっ殺す。その不良を」

「僕じゃないんだ」

「俺はまだ死にたくないからな」


 がしがしと、掴むという表現のほうが正しいような荒々しさで馨の頭を撫でる晴也。正確な年齢は知らないけど、晴也の外見は大学生くらいだ。どうしようもない乱暴者に見えるけれど、道端に捨てられている子猫を見捨てられずに持って帰ってくるのもいつも晴也だった。

 心を温かい何かが満たし、口元に笑みが浮かぶ。天涯孤独の馨には、嬉しい温もりだった。


「……じゃあ、ついてこい、四神」






 景色が回転する。頬が熱い。衝撃が脳を貫き、一瞬何もわからなくなる。頬をぶん殴られたと気がついたのは、地面に倒れて数秒してからだ。


「痛ぅ……」

「悪ィな、坊主」


 人気のない公園だった。どうやらこの辺はもともとひとが少ないらしい。住宅街の穴なのだそうだ。こんなところまでついて来てしまった自分に嫌気がさす。

 公園についた瞬間、何も言わずに男は孝明を殴った。一メートルくらいは宙を飛んだ自信がある。それでも昏倒していないのは、ガキの頃からやっていた空手のおかげか、或いは純粋に打たれ強さだろう。脳震盪を起こしかけているのか、上半身を起こした孝明の視界がぐにゃりと歪んだ。


「うぉ……」

「ダメだよ、お嬢さんはここでじっとしてな」

「あっ……!」


 揚羽が孝明の元に駆け寄ろうとして、男に腕を引かれた痛みに声をあげる。

 それを見た孝明は身体の奥が沸騰するような感覚に襲われ、気がつけば男に殴りかかっていた。


「っらぁ!」


 自分で自分を鼓舞するように声をあげる。しかし、喧嘩だけは無敗を誇っていた孝明の拳は男に届く前に弾かれた。

 男の右足が孝明の左腕を捉える。力の方向が九十度変えられ、肘に灼熱の痛みが走った。

 やばい、関節やっちまったかも。

 冷静に状況分析をしながらも、孝明の身体は動くのを止めない。それは今まで喧嘩で培ってきた勘であり、もともと彼の備えているセンスだった。動きを止めたらやられる。漠然とした確信だった。


「がっ……!」

「お前じゃ相手にならん」


 鳩尾に拳が叩き込まれ、肺の空気がすべて押し出される。吐き気が込み上げ、口の中に広がった苦みを、歯を食いしばり無理やり飲み下した。

 耐え切れずに膝をついた孝明を男が見下す。


「ほう? 今度こそは気絶すると思ったんだがな」

「ごほっ……うっせ」

「なんで? なんでこんなことするの!?」


 揚羽は双方に問うた。何故、揚羽を必要とし孝明に暴力をふるうのか。何故、男に立ち向かうのか。

 答えたのは男だった。


「ちょいと若い女が必要でね。組長が調度いいの連れてこいって言うからよ。お嬢さん、親類いないんだって? 俺ら、警察とも仲が良くてね。て、今いる家は血も繋がっていないと。一日帰ってこなくても、そんな気にゃしねえ」

「…………ざけんな」


 唸るような声。男が振り向くときにはすでに孝明は動いていた。


「ふっ……ざけんなぁああああ!」


 まさか動けるとは思っていなかったのだろう。孝明渾身の一撃は、男の頬を捉えた。

 のけ反る男。揚羽を捕まえる手が、離れた。

 無理をして動いたせいか、男を殴った反動に耐え切れず、孝明の膝が砕ける。傾いだ孝明の身体を、走り寄った揚羽が受け止めた。


「きゃっ……」

「……っ。おい、平気か?」


 受け止めきれずに一緒にしりもちをついた揚羽を心配するように声をかけてくる孝明。その唇の端が切れ、血が伝っているのが見えた。


「どうして……」


 心中の言葉が零れる。

 どうして。どうして他人のはずの私を助けてくれるの。


「やるじゃねえか」


 逃げ道を塞ぐように、男が立っていた。怒りの表情だ。背筋を氷塊が滑り落ちる。揚羽は震える拳をにぎりしめ、キッと男を睨んだ。

 男の顔が狂気に歪む。その双眸から理性が失せたのを揚羽は見た。


「なんだぁ、その目はよぉ……。どうやらこいつは調教が必要みてぇだな?」


 男が一歩踏み出す。咄嗟に孝明を背後に庇った。そんなことしたからって何が変わるわけでもない。でも、独りじゃない。孝明の存在、それが揚羽に少しの力を与えた。


 たじろぎそうになる身体を奮い立たせ、揚羽は叫ぶ。


「あんたなんかに負けるもんか!」

「調子にのるな!」


 激昂した男が拳を振り上げる。揚羽はきつく目をつぶった。肩を掴まれ、後ろに引っ張られる。慌てて開いた目に映ったのは孝明の後ろ姿。だめ。その背に手を伸ばす。次の瞬間。


 風が吹く。


「僕が思うに――――」


 雲が流れ、月を覆い隠す。


 その声は、まるで一時停止ボタンを押したかのように、すべての動きを止めた。


「―――まだこの世界に存在したいと願うならばそいつに手を出さない方がいい」


 颯爽と現れた彼は、まるで世間話でもするかの如く気楽な口調で、その場にいた全員の背筋を凍らせた。

 Tシャツから伸びる腕は細い。身長は低いし、まるで喧嘩が強いようには見えない。どこにでもいそうな普通の少年。毎日、顔を合わせているはずの彼の登場は、揚羽の動揺を誘うのに十分過ぎるほどだった。


「たち―――」

「ツッコミ所満載だけどな。見て見ぬ振りしとけ。おまえは関わるべきじゃない」


 揚羽が余計なことを言う前に遮る。馨は、何もおかしいことなどないと言わんばかりの、何とも場違いな態度で堂々とあくびを漏らした。


「……誰だ?」


 男が馨を見る。その声に満ちた恐怖を嗅ぎ取ってか、馨の口角が上がった。


「僕? 聞かない方がいいと思う。聞いたらきっと居られなくなっちゃうぜ」

「は?」

「晴也」

「おうよ」


 軽い返事と共に、暗闇の中からもう一人現れる。大学生くらいの青年だった。つんつんと跳ねた金髪は上のほうは短いが、襟足は長い。背は高く、精悍な面立ちをしていた。


 誰? そう思うが口にはしない。答えてもらえないことくらい、すでに承知の上だからだ。

 しかし、隣の孝明が「あいつ……」とつぶやいたのを聞いて、好奇心を抑え切れずに揚羽は問いかけた。


「あのひと知ってるの?」

「お前こそ、あのガキ知ってんのか?」


 逆に聞き返されて揚羽は反射的に頷いた。


「ガキって私と同い年だよ? 橘馨君っていって、うちの中学じゃ"大人しい問題児"って有名な子」

「"大人しい問題児"? また変なネーミングだな、おい。訳解んねえし」

「そうだけど」


 苦笑する。それをちらりと横目で確認した孝明は、自らも口を開いた。


「晴也っつってな、あいつ、不良おれたちの中じゃ有名なんだよ。化け物級に強ぇって。喧嘩じゃ無敗を誇るらしい。その分サツの世話になる回数も俺たちの中じゃずば抜けてんだけどな」


 揚羽は納得すると、晴也と馨に視線を向けた。そんなすごいひとが何故馨と一緒にいるのだろう?

 揚羽たちの視線の前で、晴也が男の前に立つ。不敵に笑う彼の後ろで、馨は指を二本立てた。


「今すぐ踵を返して逃げるか、ここで死ぬか、好きなほうを選べ」

「なん……」

「僕は寛大とは言い難い性格をしてるからな。三秒以内に決めろ。さん、に、いち、ぜろ。はい、お前ここで死ね」

「いつも思うけど、お前数えんの早ぇよ」


 そう文句をのたまいながら、晴也はすでに動いていた。揚羽が気付いた頃にはすでに、男は地面にのびていた。


 ―――え?


 さっきまで、両手をポケットに突っ込みだらっと立っていたはずだ。いつ殴ったのか、揚羽には全く見えなかった。


「嘘だろ………?」


 孝明が呟くのが聞こえる。どうやら不良たかあきから見ても今のは普通じゃないようだ。揚羽は改めて晴也を見た。手首にはミサンガや腕輪をつけ、首には牙を模したネックレス。耳にはピアスもつけている。適当に見える髪型も実は手が加えてあるみたいで、ウザったくは感じない。思ったよりお洒落みたいだ。

 馨が晴也を呼んだ。


「お前はその二人を家まで送ってやれ」

「馨はどーすんだよ」


 間髪入れずそう返した晴也に、馨はすでに答えを用意していたようだった。


「僕はもう少し見回ってから帰る」

「一人じゃ危険だ」

「平気だよ」


 上空を仰ぐ。


「上からはハクが見てるし、十人程度なら一人でやれる」

「そう言って前に、カツアゲされそうになった親父庇って怪我したじゃねえか」

「あれは五人かと思ったら、他に仲間がいて、十五人まで膨れ上がったから……。それに、人間相手に本気になったら、怪我させちゃうだろ。僕は怪我をしても痛くないから」


 そこで、揚羽たちがじっと見ているのに気がつき、顔をしかめると馨は早くしろと言うように手を振った。晴也が仕方がないという風に揚羽たちに近づく。その瞬間、あらぬ方向を見ていた孝明が声をあげた。


「おいっ、あのおっさん……!」


 揚羽も慌てて倒れた男のほうに目を向ける。そこで目に入ったのは。


「橘君……!」


 地面に倒れた男が拳銃を馨に向けていた。懐にでも隠してあったのだろう。鼻血まみれの顔を笑みの形に歪ませ、男は言った。


「ふざけやがって……。まさか本当にいるとは思わなかったぜ。暗闇の支配者。裏の世界で表に出て来たやつをこっそり始末するんだってな。お前のことだろ?」

「だったら?」


 拳銃を向けられているというのに、馨は全く動じていなかった。それどころか、余裕の笑みまで浮かべて見せる。


「僕が暗闇の支配者だったらどうするっていうんだ?」


 男はあまりに堂々とした馨の態度に怯んだようだったが、銃が有る限り敗北はないとでも思ったのか、邪悪な笑みでその顔を飾る。揚羽は吐き気を感じた。


「ここでお前を殺せば、もう俺たちを邪魔するやつはいない!」


 馨はしばらく男の顔を見つめていたが、次の瞬間には額に手を当て、大きくため息をついていた。

 男を見て、一言。


「お前、馬鹿だな」

「なん―――」

「だってそうだろ。まさかお前、支配者が僕一人だと思ってるんじゃないだろうな?」


 自信たっぷりだった男の顔から、さあっと血の気が引く。

 揚羽はふらっとよろめき、隣の孝明に寄り掛かった。何故だろう。体が重い。内臓を手で鷲づかみにされているような、そんな息苦しさがあった。揚羽は気がついていなかったが、揚羽を受け止めた孝明も、額に脂汗を浮かべ苦しそうに肩で息をしていた。


「たしかに今現在は僕が支配者だけど、もし僕が死んだら一日とたたずに新しい支配者が現れるはずだ。僕たちは替えがきく存在なんだよ。この国の政治と一緒。内閣総理大臣は、その個人だけじゃない」


 それに、と続ける。


「もし万が一お前が撃った弾が僕に当たり、僕が絶命したとしよう。お前はその瞬間、この世界から欠片も残さず消えるだろうな。………晴也、抑えろ。この馬鹿は感じていないみたいだけど、そいつらにはキツすぎる。大丈夫だ。こんなやつが僕をどうこうできるはずがないだろ」


 その瞬間、揚羽は、ふっと身体が軽くなるのを感じた。荒い息を吐きながら、顔をあげる。そこには気遣うような晴也の顔があった。少し驚く。気遣わしげに細められた黒い瞳にちらりと別の色が混ざった気がして、揚羽は思わず目をしばたいた。

 次の瞬間、ドサリという音がして振り向くと、孝明が倒れていた。身体を揺すっても、ぴくりともしない。


「どっ、どうしたの!?」

「気ィ失っただけだ。こいつはあんたより敏感みてぇだから必死に堪えてたんだろ。悪ィな。ちょっとイラついて我を忘れちまった。俺の殺気は人間には毒だっつーのに………」


 心底申し訳なさそうな顔をして晴也が揚羽の頭を撫でた。すると、揚羽の瞼が落ち、孝明の身体に折り重なるようにして倒れる。


「あんたらにはキツすぎんだ。俺の殺気も、馨の力も」


 晴也はゆっくりと振り返る。馨と対峙した男は震える腕で拳銃を馨に突き付けている。対する馨は実に飄々としていた。笑みさえ浮かべている。

 今にも失禁してしまいそうな男を見下して、馨はふっと鼻で笑った。


「諦めたらどうだ。お前だって手遅れだって気付いてるだろ? 僕に銃を向けた瞬間からお前は死刑決定だし、万が一に僕らから逃げられてもお前に帰るところはない」

「あ……あんだと……?」

「お前の所属する組、邑楽組おうらぐみだったか。前組長はまだ弁えている男だったのに、新しい奴はハズレだったな。派手なことしなけりゃ見逃してやるつもりだったのに。まあ、僕の目についてしまった時点で、お前たちの運命は決まってたってことだ」






 ―――同時刻。ビルの三階、邑楽組の組長室。


 床に這うのは組員の男たち。散らばるのは折れたドスや砕けた拳銃ハジキ。壁を染めるのは真っ赤な鮮血。

 そんな中、壁に背中を貼り付けて、組長は銃をそいつに向け叫んだ。


「な……なんなんだお前は……! どこの組の回しもんだ!」

「どこの組、ね」


 冷酷な笑みがその秀麗な顔を彩る。そいつは冷笑を含む声で言った。


「強いていうなら三年二組。俺らは違うけど」

「ふ、ふざけたことを!」


 組長はがむしゃらに引き金を引いた。ドンッドンッと重い音が響き渡る。弾が無くなり、拳銃がカチッという音しかしなくなるまで、組長はとりあえず撃った。少しでもこの悪魔のような男から離れたかった。


 しかし。


「無駄だって何度いったら解るかな? 俺にそんなものは通じないって」

「ひっ」


 そいつは無傷だった。避けたそぶりはなかったのに。

 信じられないと言わんばかりの男の目の前まで近寄った武蔵は凍えそうなほど冷たい緑色の瞳で彼を見下ろした。


「大丈夫。別の事務所の奴らも今頃美紅が送ってるはずだ。冥界へ、な。安心して逝くといい」

「たっ、頼む……、助けてくれ……」


 組長の視界が涙でぼやける。そのせいか、その声は鮮明に彼の耳に響いた。


「我らが主の命令でね。悪く思うなよ」


 パッと、紅が壁を染めた。






 男は目を見開いた。愕然とした表情で馨を見つめる。


「嘘だ……」

「嘘だと思うんなら、そう思っててくれて構わない。お前が信じようと信じまいと事実は変わらないし」


 男が息を呑んだ。血走った目から理性が吹き飛ぶ。


「う、うおぉぉおおおおおおおおお!」


 男は組長と同じように一気に引き金を引いた。銃弾が雨霰あめあられのように馨に降り注ぐ。

 一方、馨は動かなかった。ただ突っ立っているだけ。

 そして銃弾は。

 馨を傷つける事なく地面に突き刺さった。

 男が外したわけではない。標準は馨に定まっていた。馨に当たる寸前、まるでなにかに弾かれたように弾が向きを変えたのだ。


「なんでっ………」

「知りたい? 簡単なことだ。上空で待機してたハクが、風読かぜよみでここで起きていることを聞いていて、お前が銃を撃った瞬間に風を送って弾を弾いた。それだけ」


 男は血走った目を見開き、狂ったように叫んだ。


「ばっ……化け物っ!」

「違いない」


 馨はクスッと笑った。もう、とうに聞き慣れた言葉だ。


「暗闇の支配者、橘馨。闇の名において秩序を乱すものをここに排除する」


 男の顔に恐怖が浮かぶ。涙を流し、男は言った。


「嫌だ………死にたくないっ………!」

「もう、聞き飽きたよ。その台詞」


 月は完全に雲に隠れ、辺りは暗闇に包まれた。






 ………来ない。

 揚羽はちらりと誰も座っていない隣の席を見た。


 朝起きたら自分の部屋にいた。もちろん昨日のことはすべて覚えている。死ぬほど怖い思いをしたのも、その恐怖の中から救い出してくれた人物のことも。

 今朝のニュースは揚羽にとっては衝撃だった。なんでも、邑楽組とかいう暴力団が一夜にして潰されたらしい。あるところはドアも窓も鍵がかかっていたのに全員が室内で殺害され、あるところはその一室だけが燃え、中から数人の焼死体が発見された。そして極めつきは、ある空き地で発見された男の遺体。画面に映し出されたその顔写真を見た揚羽は、思わずテレビに飛び付いた。

 間違いなく、揚羽をさらおうとした男だった。


 それからというもの、とりあえず登校した揚羽は、馨が来るのをずっと待っている状態である。


 でも馨が来たら、一体どうしたいのか、自分でも解っていない。昨日のことを問い糾すのか? いや、馨を責めるような真似はしたくない。馨は揚羽を助けてくれたのだ。感謝こそすれど、責めるのは筋違いだと思う。

 それに、あの孝明という青年がどうなったのか、揚羽は知らない。結構な怪我だったし、大分無理をしていたように見えた。何故彼が自分を護ってくれたのかよく解らないが、とりあえず彼がどうなったか馨に聞いて、お礼を言いに行かなければ。


 もう何度目になるか、隣の席に目を向ける。そこで、揚羽はあることに気がついた。慌てて馨の机を覗き込む。周りの生徒が不思議そうに揚羽を見た。


「………ない……」


 いつも置き勉しているせいでいっぱいだったはずの机の中。

 そこには何もなかった。






 街外れにあるマンションの屋上。そこからは街全体を見ることが出来た。

 癖のない髪が風に遊ばれる。


「本当にいいの?」

「あぁ……。いつかはこうなると思ってたし」

「でもっ、でもあそこは馨が生まれた家だしっ! おとーさんとおかーさんがいた家なんでしょ!?」


 必死に言い募る美紅にゆっくり首を振る。馨は泣きそうな顔をした美紅の、自分よりほんの少し高い位置にある頭を優しく撫でた。


「優しいな、美紅は。僕なんかのために泣くなよ」

「だってぇ……」


 馨がどれだけあの家を大切にしていたか、美紅はよく知っていた。両親が遺してくれた、唯一の財産。僕みたいなやつにも、ちゃんと親がいたっていうしるしなんだ、と。哀しそうに、嬉しそうに語っていたのを知っている。

 その時、ずっと黙っていたハクがぽつりと言った。


「ボクが、あんなこと言ったから」

「いいや、ハクが教えてくれなかったらあいつを助けらんなかった。僕はむしろハクに頭を下げたいくらいだ」


 馨がハクに微笑みかける。しかし、ハクの曇った表情は晴れない。武蔵は、しゃがみ込みハクを抱き寄せると、困ったように眉根を寄せた馨に言った。


「白太は俺たちの中で一番お前を慕ってるんだ。いくら馨の大事なひとを救えても、お前が損をする結果になったら白太にとっちゃバッドエンドってわけ」

「僕は損なんて……」

「してるだろ。住み慣れた家を捨てて、学校は転校ってことにするんだっけか? 仕事で何日休んでも、後処理のせいで遅刻してっても、夜中起きてる分の睡眠をとっていても、怒らんなかったんだろ。そんないい学校捨てて。……あの娘にだって何にも言ってないんだろう」


 最後の言葉に、馨は空を仰いだ。手の届かぬ高みに、まばゆい太陽が輝いている。

 新宮には結局何も言わずに来てしまった。あの娘に纏わり付く"悪い流れ"は全部断ち切ったから、馨絡みの事件に巻き込まれることはまずないだろう。

 馨自身気づいていなかったのだが、揚羽が危険な状況にあると知って、ひどく動揺したのだ。ただのうるさいやつだと思っていたはずなのに。もう一度だけでいいから逢いたかったな、と思う。


 しかしすぐに、でも。と思い返した。

 あの孝明という青年を"視"たときのことを思い出す。揚羽に向いた、あの流れ。純粋な好意というのはあんなにも綺麗な流れなのだと感動し、あいつなら、と思う。

 揚羽に孝明が検査入院している病院を教えなかったのは、馨の最初で最後の悪戯だ。


「……いいよ。僕にはお前らがいてくれるんだろ?」


 雑念を追い払い、ハク、武蔵、美紅、晴也の順に顔を見る。

 晴也はニヤリと笑うと、すっと膝をつき、礼のかたちをとる。それに倣い、美紅、武蔵、ハクも膝をついた。


「我ら四神、名を頂いたその時から、橘馨様を主と定めますれば―――」

「うん」


 馨は目を細めた。


「ずっと僕の側にいてくれ」

「らしくねえ」

「全くだ」

「ほんとーに」

「うん」

「お前らだって似合ってねえって」


 むっとしながらも馨は笑った。美紅が声をたてて笑い、晴也が豪快に声をあげ、武蔵はくくっと噛み殺し、ハクですら無表情を微笑で彩った。


「じゃあ行こう。まずは家探しだ」


 街に背を向け歩き出す。街が見えなくなるその時まで、馨は一度も振り返らなかった。




 ―――ねえ、知ってる?


 ―――太陽も月も隠れた暗闇に


 ―――闇より深い、漆黒が蠢くんですって




「だっ、誰だ、お前!」


「僕?」










「とおりすがりの、支配者だよ」










 



 えー、この作品はいつもと違う感じで書いてみようと思って挑戦してみました。

 何だかごちゃごちゃしちゃってますけど……。


 感想など頂けたら作者は泣いて喜びます。

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[一言] ……えー、どうも。話そのものは構成としてとてもユニークだとは思うのですが、その分問題点が多々見受けられるので、述べさせて頂きます。 まず、あちらこちらでまだ視点のズレが残っています。一人称…
2010/07/13 20:30 退会済み
管理
[一言] 編集前に一度拝読しまして、編集後も流しながらですが再読しましたので、感想を残したいと思います。 視点移動のことについては、既に他の方からもご指摘があるようですので、そこに関しては私は控えさせ…
2010/07/12 01:50 退会済み
管理
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