第13話 協働(2)
声には出さなかった。
胸の奥で、言葉だけが落ちる。
リリアナは、気づいていない。
書架の前で、
背をまっすぐに伸ばしたまま、
資料に視線を落としている。
特別資料閲覧室の空気は、
一般書架よりもさらに静かだった。
紙の擦れる音すら、
遠くで鳴っているように感じる。
ここに入れる人間は限られている。
古い系譜の写本、
古語・古代語の注解書、
薬草と医術の記録、
年代記や地方編年史。
研究のために保管された
原本や写しが並んでいる。
主流の歴史書だけではない。
検証途中の研究記録、
余白に書き込みの残る草稿、
正式な書籍として整えられる前の資料。
長く読み継がれるためではなく、
調べる者の手に渡るための本。
そして――
王家の記録。
リリアナの手元に開かれているのも、
その一冊だった。
王の代替わりの記録。
年代と出来事だけが、
簡潔に並ぶ頁。
ノアは、
その背中から視線を外さなかった。
一般書架で、
王国史や年代記の棚にいる姿を何度も見かけていた。
気づけば同じ棚にいることが多かった。
同じ本に手が伸びたこともあった。
そして、
この場所で、
王家の資料に触れている。
理由のない閲覧は、あり得ない。
それだけで、
近づく理由としては十分だった。
近づく。
同じ棚の前に立つ。
王の代替わりの記録。
事故年表。
病の記述。
棚の見出しと、
彼女の手元の頁が一致する。
――同じ領域を追っている。
そこで初めて、
確信が落ちる。
ページをめくる指が、
わずかに止まった。
気配に気づいたのか。
リリアナの視線が、
静かにこちらへ向く。
一拍。
「あ」
声にはならない認識。
――ノア殿下。
そう分かった目だった。
ノアは、
会釈しなかった。
視線を外さない。
低く、
はっきりと。
「……何を調べている」
王家の領域に踏み込む者へ向ける、
本来の声音。
柔らかくはない。
だが、
責めてもいない。
確認する声。
リリアナは、
一瞬だけ言葉を止めた。
逃げない。
視線を落とさない。
ただ、
慎重に選ぶ。
「……違和感がありました」
一拍。
「史料として読むと、
繋がらない箇所が多くて」
リリアナの言葉は、
同じ違和感を辿ってきた人間のものだった。
ノアは、
そこで初めて息を抜く。
資料へ視線を落としたまま言う。
「王の代替わりの記録」
「崩御の直前期に、
側近の事故や重い病が
重なる例がある」
断定ではない。
事実を並べただけの言い方。
沈黙。
リリアナは、
否定しない。
「……はい」
短く、肯定する。
「俺も同じだ」
はっきりと。
隠さない。
その言葉で、
空気が変わる。
警戒は消えない。
だが、
向いている方向が同じだと分かる距離。
リリアナが、
棚から一冊だけ抜き取る。
王家の年代記の一冊だった。
革装の、重い本。
何度も人の手に取られてきた跡があり、
角がすり減っている。
一般書架にある整った本とは違う、
研究用に置かれている古い資料だった。
リリアナは、
机へ向かう。
ノアも、
棚から関連する一冊を抜き取り、
少し遅れて歩き出す。
向かいではなく、
斜め横へ座る。
距離を残す位置。
本を開く。
沈黙。
だが、
先ほどとは違う沈黙だった。
互いが、
同じものを追っていると分かっている。
それから、
しばらく言葉はなかった。
机の上には、
年代ごとの資料が幾冊も積まれ、
照合のために開いた頁が重なっている。
窓の光が傾く頃まで、
二人は黙ったまま、
文字と年号を追い続けた。
指先の動きを止め
ノアが言う。
「……一人でやるには、
手間が多い」
一拍。
「共同で進めるか」
命令ではない。
合理だった。
リリアナは、
すぐには頷かなかった。
ほんのわずかに、
呼吸が浅くなる。
王家の記録。
王族の隣。
踏み込めば、
戻れない場所。
一瞬だけ――
エリオスの顔が、よぎる。
近づかないと、
決めたはずの人。
それでも、
この先に繋がってしまうかもしれない線。
指先が、
本の縁で止まる。
それでも――
「……はい」
小さく、答える。
ページをめくる速度が揃う。
照合する年号が重なる。
資料を置く順が自然に噛み合う。
言葉はない。
だが、
作業の線は一本に繋がる。
――協働。
静かに、
始まった。




