第12話 懐かしい人(3)ノア
ノアにとって、
図書館は特別な場所ではなかった。
子どもの頃から、
よく足を運んでいた。
読書も、
調べものも、
日常の一部だったからだ。
今日も、
その延長だった。
アストレア王国の歴史書を開く。
建国から六百年。
小さな領地が並び立つ土地を、
初代の王が統一した国。
それ以来、
王家は一度も断絶していない。
内乱も、
政争もあった。
それでも、
王統だけは守られ続けてきた。
記録は整っている。
在位年数。
崩御の年。
代替わり。
必要な情報は、
過不足なく並んでいる。
崩御の理由も、
一行ずつ添えられている。
病没。
老衰。
急逝。
それ自体は、
珍しくない。
だが――
読み進めるほど、
触れられていない部分がある気がした。
何も欠けてはいない。
それでも、
何かが伏せられているような、
そんな感覚だけが残る。
ノアは、
そこで指を止めた。
どこか、
引っかかる。
言葉にはならない。
ただ、
視線が止まる箇所が、
いくつかある。
理由までは、
まだ分からない。
小さく息を吐き、
本を閉じる。
少し、
目を休めようと思った。
別の書架へ歩く。
静かな空気。
紙の匂い。
高い棚の影。
その奥に、
ひとり、立っている少女がいた。
灰色の髪。
見覚えはない。
だが、
どこかで聞いたことのある特徴だった。
そして、
手にしている本が目に入る。
――それ。
思わず視線が止まる。
『境界を渡る旅人』
何度も読み返している本だった。
有名でもない。
読みやすくもない。
人に薦めるような類いの本でもない。
それを、
その少女が持っている。
少女は、
わずかに驚いたようにこちらを見て、
すぐに姿勢を正した。
「……ノア殿下」
小さく名を呼び、
礼を取る。
続けて、
余計な言葉を挟まず名乗った。
「――リリアナ・クラリス・バルディエと申します」
――バルディエ。
思い出そうとして、
すぐに形になる。
――馬小屋。
兄の遠乗りのあと。
自分の馬を見に行ったとき。
馬医が、
別の者に低い声で話していた。
「バルディエ家のご令嬢がな、
エリオス殿下の馬の様子がおかしいって言ってきたんだ。ほら、あの灰色の髪の方だ。」
「言われて念のため診てみたら、
確かに違和感があった」
「気づくのは、
相当見慣れてないと無理だ」
あのまま遠乗りに出ていたら、
エリオス殿下は――
灰色の髪の少女。
その言葉だけが、
妙に残っていた。
それからだ。
薬。
武具。
流通。
何かにつけて、
バルディエの名を耳にするようになった。
そして今。
その少女が、
自分の好きな本を持って立っている。
偶然。
それで片付けるには、
少しだけ重なる。
ノアは、
無意識に足を止めていた。
「……それ」
本を指す。
少女の口元が、
ほんのわずかに緩む。
「ええ」
静かな返事。
そして――
「……お好きでしたよね」
時間が、
ほんの一瞬だけ止まる。
初対面のはずだった。
本を知っているのは分かる。
読む者がいても不思議ではない。
だが。
言い方が、断言だった。
「……居場所がなくても、
歩き続けていい物語だと⋯⋯」
言い切る前に、
本人が言葉を切る。
ノアは黙る。
この本のどこに惹かれるかは、人によって違う。
それを、当たり前のように言い当てられた。
「……なぜ、それを」
問いは短い。
少女は一瞬だけ言葉を失い、
視線を落とした。
「……なんとなく」
曖昧な答え。
それ以上を言わせる場でもない。
「……そうか」
ノアは視線を外し、
本棚へ戻した。
会話は、そこで終わる。
歩き出しても、
意識のどこかに残っていた。
灰色の髪。
静かな声。
そして、
自分の好みを当然のように言い当てた言葉。
偶然。
そう言い切るには、
少しだけ重なりすぎていた。
――――
王宮へ戻る廊下。
用件を終え、
戻る方向が同じだっただけで、
自然とエリオスと並んで歩いていた。
ノアが、
ふと思い出したように口を開く。
「……エリオス」
「ん?」
「今日、図書館に寄った」
「そうか」
短い返事。
特に珍しいことでもない。
少しだけ間を置く。
「バルディエ家の令嬢を見かけた」
エリオスの歩みが、
わずかに緩む。
「……会ったこと、あるか。令嬢に」
エリオスは少し考える。
「……ないな」
「確か屋敷には一度、
名授けのあとに訪問したことがある」
「だが、その時は体調を崩しているとかで、
顔は合わせていない」
「それがどうかしたのか」
ノアは、すぐには答えない。
少しだけ視線を落とし、
「最近、商会の名をよく聞く」
「薬も、武具も、流通も」
「やけに関わりが多い」
エリオスはあっさり頷く。
「大きい商会だ」
「王都にも、
物資をいろいろ卸している」
「影響力があるのは確かだろうな」
そこまで言って、
興味が途切れる。
「それで?」
ノアは、
少しだけ迷ってから、
「……不思議な雰囲気のある人だった」
とだけ言う。
エリオスは一瞬だけ目を細め、
それから軽く笑った。
「お前がそう言うなら、
そうなんだろうな」
それ以上は聞かない。
深く掘らない。
いつもの調子で歩き続ける。
会話は、
そこで自然に終わった。




