第10話 守るための力(3)
守ると決めた、あの時から。
近づかない。
でも、目を離さない。
そのために、
足りないものがあると、
分かり始めていた。
言葉。
数。
流れ。
知らなければ、
守れない。
帳簿の写しを続けるうちに、
分かることは増えた。
けれど同時に、
分からないことも、
はっきりしていく。
どうして値が動くのか。
誰が決めているのか。
どこで流れが変わるのか。
拾えるのは、兆しだけ。
その先へは届かない。
――足りない。
ある日。
リリアナは、
父の前に立った。
「お願いがあります」
父は、
書類から目を上げる。
「……なんだ」
短い声だった。
けれど、
目は逸らさなかった。
「家庭教師を、
付けてください」
父の視線が、
わずかに揺れる。
初めてだった。
リリアナが、
自分から何かを望んだのは。
「なぜだ」
問いは短い。
責める響きはない。
「足りません」
「このままでは、
分からないことが多すぎます」
父は、
すぐには返さなかった。
その場には、
叔父もいた。
商会の件で、
屋敷に滞在する時間が
以前より増えていた頃だった。
王都に拠点を移す準備が進み、
実務を引き継がせる人間の教育も
同時に始まっていた。
領地と王都を行き来しながら、
流れの中心を固めている最中だった。
叔父が、口を開く。
「……まだ付けていなかったのか」
父の眉が、
わずかに動く。
「必要ないと判断していた」
一拍。
「付けろ」
とだけ言った。
命令でも、
説得でもない。
現実を置いただけの声だった。
父は、
長く息を吐く。
「……分かった」
それだけで、
決まった。
*
最初に来た教師は、
読み書きと計算を教える者だった。
けれど、
数日で終わった。
「……理解が早すぎる」
計算は、
途中式を追う前に答えに辿り着く。
歴史は、
出来事ではなく流れで覚える。
政治は、
人物ではなく構造で捉える。
教える側が、
追いつかない。
その報告を聞いた叔父は、
間を置かず言った。
「もう一人呼べ」
次に来たのは、
専門の教師だった。
領地経営。
外交史。
貨幣。
法。
医学の基礎。
教わるというより、
確認に近かった。
分からないことだけを、
順番に潰していく。
必要だと思ったものは、
端から端まで学んだ。
薬学。
人体。
毒。
治療法。
薬師のところへ通う回数も、
自然と増えた。
怪我のためではない。
知るためだった。
「……何を覚えようとしている」
薬師が、
低く言う。
リリアナは、
少しだけ考えて答えた。
守るために必要なもの。
近づかず、
それでも手を伸ばすための手段。
そして。
――あの人を、生かすための知識。
「……全部です」
薬師は、
それ以上聞かなかった。
ただ、
一度だけ頷いた。
家庭教師は驚き、
父は何も言わない。
叔父もまた、
評価を口にしない。
ただ、
さらに専門の教師が増えた。
学ぶことが増える。
覚える速度も、
それに追いつく。
身体が、
思い出しているようだった。
王宮での日々。
王太子教育。
隣に立つために、
必死に掴んだ時間。
今は、
隣に立つためじゃない。
守るために、
使う。
*
叔父が屋敷にいる時間は、
さらに増えていた。
商会の拠点は、
すでに王都へ移り始めている。
物の流れも、
人の流れも、
以前より大きくなっていた。
その中心に、
一人の少年がいた。
名は、レオンハルト。
リリアナより五つ年上。
叔父の実子。
後にバルディエ家の跡継ぎとして迎えられ、
父の養子となる人物だった。
レオンと呼ばれる少年は、
すでに家の内情を理解している顔をしていた。
実務を覚えさせるため、
叔父は頻繁に屋敷へ戻る。
帳簿を開き、
指示を出し、
流れを組み替える。
リリアナも、
その場にいることが増えた。
帳簿の前に座り、
数字を追う。
違いを拾い、
流れを読む。
それはもう、
特別なことではなかった。
役目として、
当たり前に置かれていた。
レオンは、
よく笑う人だった。
言葉は軽い。
けれど、
目だけが流れを追っている。
人が困る場所。
物が滞る場所。
話が止まる場所。
気づけば、
そこに立っていた。
――叔父と同じ位置に。




