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時折、山の麓に来る


 村では、霊峰に住む蒼竜ウロボロスの話が昔から語られていた。

 だが、もうひとつの話を知る者は少ない。


 ウロボロスは、ときどき山を下りてくる。

 本当に、ごく稀に。

 吹雪が始まる前や、季節が変わる境目の静かな夜に。


◆目撃者の話


 酒場で、ごく小さな声で囁かれる。


「夕暮れ時に川のほとりを歩いていてな……黒髪の美しい男を見たんだ。背が高くて、影が揺らめいてて……」

「普通の旅人じゃないのか?」

「いや……あれは人じゃない。俺が声をかけようとしたら、目が蒼く光ったんだ。気づいたらいなくなってた」


 別の老人がぼそりと付け加える。


「わしは朝方、鍬を直してくれてたのを見たぞ。家の前に置いておいたら、翌朝には新品みたいになっていた」

「……ウロボロス様じゃろう」

「さあな。ただの善い旅人かもしれん」


 皆が笑うが、誰も確信はしていない。ただ、そういう噂は静かに広がっていく。



痕跡(こんせき)


 旅人――霊峰から帰ってきた本人だけは、ウロボロスだと確信していた。


 ある晩、村の外れの道でふと見た影。


 月に照らされた黒髪。

 ひるがえった長い外套。竜の影がほんの一瞬だけ、地面に現れた。


 声をかけようとしたが、彼 は旅人に気づくより早く姿を消した。

 翌朝、村の鍛治場に置かれていた壊れた鍬が、霊峰で見た光景と同じで蒼い紋様で補強されていた。

 ウロボロスの鍛冶だ。


 彼がここに来ている。

 だが、姿を見せる気はないらしい。


 旅人は思った。

(……人間と竜の世界の境界に、彼はまだ立っているのだ)



◆独白


 村から少し離れた森の中。

 月明かりの下で、ウロボロスは片膝をつき、鍛冶で汚れた手を川で洗っていた。

「……下界は、相変わらず賑やかだな」

 小さく呟く。

 

「人間は短命だが……。良くも悪く変わっていく」


 彼は川面に映った自分の顔を見つめる。

 竜の気配を帯びた、美しい人の顔。

 人の世界に混ざるには、あまりに異質。


「……あいつは、元気にしているだろうか」

 旅人の顔が脳裏に浮かび、ウロボロスは微かに目を細めた。

「達者でな、と言ったのに……。また会えば、きっと話したくなるだろうな。」

 声には、竜としてではなくひとりの者としての寂しさが滲んでいた。



◆村人に知られないまま


 夜風が吹く。


 ウロボロスは立ち上がり、外套を翻して霊峰の方へ歩き出した。

 人間の灯りのある場所へは近寄らず。ただ、村の生活を遠くから見守るだけ。


「……もう争いは起きない。ナハトムジークも、しばらくは静かだ」

 蒼い瞳が一度だけ村を振り返る。

「今日は引き上げるか」


 冷えた気配とともに、ウロボロスは白景へ溶けていった。


 村人は姿に気づかない。

 旅人さえも、確信を持てずにいる。


 伝承と噂だけが、村にしんしんと積もってゆく。

“霊峰に棲むウロボロスは、ときどき麓に降りてくる。争いを望まず、人を助けるためだけに。”



◆夜の道で出会った子ども


 夜。村は霧が濃く、灯りの火がいつもより小さかった。


 外へ出る者はほとんどいない。

 ただひとり、小さな影が村の外れへ走っていた。

 少年は、片腕に抱えた壊れた木製の玩具の剣を握りしめ、暗い道を涙目で急いでいた。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 友達と喧嘩して壊してしまい、どうにか直そうと鍛治場へ向かう途中だった。

 だが、夜道は冷たく、心細い。


 霧の向こうで青い光が揺れた。

 少年は足を止める。


 月明かりの代わりに、淡く蒼い光が霧を透かして近づいてくる。

(……なんだろう……?)


 怖さよりも好奇心が勝り、少年は一歩踏み出した。

 目の前に現れた樹氷を見て、言葉を失う。


 黒髪に深雪を宿した長身の男。肩や首元には鱗の光がちらりと覗く。

 風に揺れる影は、竜の形に変わる。

 蒼く輝く瞳が少年を見た。


 ウロボロスだった。

 彼もまた驚き、まばたきをする。

「……こんな時間に、子供が外を歩くべきではないぞ」


 声は穏やかだが、凛としている。

 少年は震える声で答えた。

「……あ、あの……壊れちゃって……直しに……鍛治屋さんに……」

 手にした木の剣を差し出す。

 

 ウロボロスは剣を見て、小さくため息をついた。

「ふむ。戦うための剣ではないな。――遊ぶための剣か」


 少年はこくりと頷く。

「ともだちが……これ、すごく大事にしてて……ぼくが折っちゃって……どうしようって……」


 ウロボロスは膝をつき、少年の目の高さに視線を合わせた。

 蒼い瞳は、竜としての冷たさではなく、懐かしむ優しさを帯びていた。

「直してやればいい。謝る勇気と、直す心があるなら……十分だ」

 そう言って、ウロボロスは手を伸ばした。


 鱗の入った指先が折れた木剣を軽くなぞると淡い蒼光が走り、ひび割れた部分がすっと繋がった。

「……わあっ……!」

 新しい玩具のみたいに綺麗になった剣を、少年は抱きしめる。

 ウロボロスは立ち上がり、少年に背を向けようとした。


 だが、少年が小さく声をかける。

「あ、あの……あなた、竜さま……?」

 ウロボロスは一瞬だけ動きを止めた。しかし振り向かず、静かに笑う。

「……さあ、どうだろうな。ただの鍛治士だと思っておけ」

 霧の向こうへ歩き出す。蒼い光が遠ざかる。


 少年は直った剣を抱いたまま、いつまでも背中を見つめていた。

「……ありがとう……竜さま……」

 小さな声は、誰にも聞かれず静かに夜に溶けた。


 ウロボロスは、霊峰へ戻る途中、ふっと呟く。

「……子供は、正直だな」

 ど嬉しそうで、少しだけ寂しい声だった。


◆灯火の外で


 霊峰の裾野にある村では、年に一度だけ、冬の終わりを告げる祭りが開かれる。

 色とりどりの灯籠が風に揺れ、焚き火の匂いが夜空に昇り、子どもたちの笑い声が遠くまで響いた。

 にぎやかな光景から離れた、山道の上の黒い岩の影。

 ひっそりと腰掛ける影があった。

 蒼い瞳を持つ竜人――ウロボロスである。


 祭りの音を、遠くから静かに聞いていた。

 彼は村までほとんど降りない。

 人間の前に姿を見せれば、驚かれるだろうし、無用な噂を増やしてしまう。

 ――せめて、この夜だけは。


 ウロボロスは、祭りの花火を眺めるのが好きだった。

「……また賑やかだな」

 雪に座りながら、誰に向けるでもなく呟く。

 村の中央では、子どもたちが舞を披露し、大人たちは酒を酌み交わし娘が恋の占い札を手にして笑っている。

 ほんの少しだけ、ウロボロスは人間の温度が羨ましく思える。

(……あの子供も、来ているのだろうな)

 以前、夜道で出会った少年が、直してやった木剣を振り回して友達と遊んでいる姿が見える。


 少年は誰にともなく「竜さまに直してもらったんだ!」と言い、大人たちは笑って聞き流しているようだった。


 ウロボロスは、口元を緩めた。

「……まだ言ってるのか。――まあ、いい」

 尾を噛む竜の循環する想い。

 人間を恐れず、しかし近づきすぎもしない。距離感が、ウロボロスには心地よかった。


 ふと、足元に気配が寄る。

 薄い氷を踏んだ影が、彼の横に現れた。

 天井影――ウロボロスの半身の、漆黒の竜影である。


 影竜は声なき声で問いかける。

『……行かぬのか?人間の輪の中に』


 ウロボロスは首を横に振る。

「俺があの中へ入ると……まあ、祭りが台無しになる。」

 遠い祭りの光を見つめ、少し間を置いて続ける。

「……ああして楽しそうにしているのを見るだけで、満足だ。」


『本当に、よいのか』


「よい」


 迷いはなかった。


 ウロボロスはずっと長い時を生きてきた。

 何度、村が移り変わり、人が生まれ、巣立ち、消えていったか知れない。

 だが今の村は、争いもなく、平穏で、静かに灯火を囲んでいる。

 そっと見守るだけで、心が温かくなるのだ。


 祭りの中心の焚き火が、ひときわ高く燃え上がった。

 蒼い火花が夜空に舞い、星と溶け合う。


 ウロボロスの瞳も同じ蒼でわずかに揺れた。


「……さて。もう少し見ていくか」


 風が霊峰を抜け、彼の黒髪と長い耳を揺らしていく。

 村の子どもたちが笑い、笛の音が鳴り響き、白い雨粒は静かに舞い落ちる。

 ウロボロスはすべてを遠くから見守り続けた。

 心が満ちていくようだった。


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