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 魔法が息づく世界では、鍛治(かじ)の作業にもまた不思議な力が宿っていた。

 ウロボロスの振るう(つち)は、鉄を叩くだけではない。魔力の律動に合わせて、かてん、かてんと()んだ音を響かせる。


 山に住まう精霊たちが耳をそばだてるほど清らかで、鉄の塊が勢いづいて歌っているかのようだった。

 赤熱した金属に魔法の気が通るたび、表面が淡く脈打ち、青い光の粒子が舞い上がる。


 ウロボロスは静かに目を細め、(つち)を振り下ろす。

 火花と魔力とが交じり合い、鍛治場(かじば)はひときわ強い輝きに包まれる。


 彼が鋳つのは、ありきたりの剣ではない。

 魔法と金属、水晶を組み込んだ刃は、内側から輝きながら生きているかのようだった。

 ウロボロスの屋敷は、霊峰の(けわ)しい地形に寄り添い建てられていた。

 屋敷には、自然の営みそのままに残された洞窟と、冬の気配を閉じ込めた凍りついた池がある。

 小高い山では常に粉雪が舞い、風は肌を刺すほど冷たい。

 屋敷の(かたわ)らには、小さな畑。葉は瑞々(みずみず)しく、穏やかな生命感に満ちていた。

 しんしんと積もる雪を避けるカタチ(魔法)で整え(うね)は、驚くほど丁寧に手入れされており、過酷な場所に似つかわしくないほど穏やかだった。


 屋敷の2階には、広々とした書斎がある。

 壁いっぱいにぎっしりと並ぶ書物は、いずれも人間の言葉では記されていない。

 古竜の文字、精霊語、あるいは世界のどこにも存在しない記号ですら混じっている。

 外の文明から隔絶(かくぜつ)された生活でありながら、知の香りだけは満ちていた。


 そんな静閑(せいかん)な住処にも、ときおり異物が訪れる。

 禁足地(きんそくち)と知らずに迷い込んだ旅人か、あるいは雪の気まぐれに囚われた遭難者たちだ。

 彼らはふらりと屋敷へたどり着き、氷の青年の姿を目にして目を見張る。

 ウロボロスにとっても、ごく短い、しかし確かに日常を揺らす出来事だった。



 屋敷の前に、キュッキュッと澱粉(でんぷん)を踏み分けるかすかな気配があった。

 ウロボロスは鍛治場(かじば)の火を落とし、音もなく扉を開く。


 そこには、(うな)った風に打たれた若い旅人が立っていた。

 顔は白く染まり、疲労と寒気で膝が震えている。


「……た、助けを……」


 震え、途切れる声に、ウロボロスは眉をひそめた。

「お前さん、こんな所まで何の用だ」


 声音(こわね)は冷たくない。長く孤独に暮らしてきた者の、淡々とした響きがあった。

 青年は柔らかい声に安堵したのか、がくんと崩れて前へ倒れ込んだ。


 ウロボロスは軽々と旅人を抱き上げ、屋敷の中へ運ぶ。

 冷たい竜とは思えぬほど温かな手だった。


 暖炉(だんろ)のそばに旅人を横たえ、彼は短く息をつく。


禁足地(きんそくち)だと知らずに、よくもまあここへ来たもんだ。……運はいい方だ」


 旅人がかすかに目を開くと、ウロボロスの横顔が見えた。

 黒の髪が()の光を受けて揺れ、瞳は深い雪の青をたたえていた。


「俺は|鍛治士(かじし)だが……武器の扱いは、まぁ得意でな。山でお前さんを食おうとする魔物ぐらい、片手で追い返せる」

 やわらかく笑ったのか、口元がわずかに緩んだ。


「安心しろ。お前さんが回復するまで、ここで面倒を見てやろう」

 旅人は口ぶりに安心し、意識をゆっくりと手放した。


 ウロボロスは立ち上がり、窓の外の白い嵐を見つめる。

 武力では山の誰にも負けず、冷たい魔力を宿しながら、彼は静かに、訪れた者を保護する。


 孤独な竜人に残された、ささやかな人との縁だった。


 旅人が目を覚ましたとき、まず目に映ったのは青だった。

 壁も天蓋も、調度品の縁取りに至るまで、深雪(しんせつ)の青で統一されている。

 だが冷たく厳しい印象に反して、空気はほのかに温かく、凍えた体を静かに包み込む。


(……ここは……?)


 旅人はゆっくりと腰を上げ、ふかふかのベッドから体を持ち上げた――

 天井の青い影がなめらかに揺らいだ。


 水面のさざめきを思わせる静かな()らぎが生まれた。

 天井の模様(もよう)が変化し、巨大な竜の目がひとつ、ゆっくりと開く。


「……ようやく目を覚ましたか、人間」


 低く、深い声だった。

 部屋に響くのではなく、影が静かに語りかけてくるかの感覚があった。

 影こそが、先ほど自分を救った青年の真の姿なのだと直感する。


 影の竜は、青色の瞳を細めて続けた。


「人間の温度の感覚は、どうにもよく分からん。だが……凍えて死ぬ現象くらいは理解している。」


 不器用な思いが滲んだ口ぶりだった。


 影は、静かに天井を流れ形を変える。

 爪、翼、尾……どれも青い影のまま淡く揺れ、時折、ウロボロスの人間の姿へと重なり歪む。


「1階に降りるなら、右へ向かえ。食事を用意している。……火は苦手だが、腹を満たす程度は用意できる」


 旅人が戸惑いながら立ち上がると、青い影はふっと静寂へ溶けていった。

 誰も最初から何もなかったかのように振る舞っている。


 ひとつ残ったのは、屋敷の主は、人の姿をした青年だけではない感覚が確かにあった。


 旅人は胸の鼓動(こどう)を押さえながら扉へと向かう。

 向こうに、人型の姿へと戻ったウロボロスが待っている――。



 旅人は青い部屋をそっと出て、階段を降りた。

 1階に足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは奇妙な光景だった。


 廊下のあちこちに、尾を自らの口で噛んだ竜──

 輪のような夜が終わりも始まりもない空を巡るかのような象徴(シンボル)具現化(ぐげんか)した彫像。

 掌に乗る大きさから、腰の高さに届く大きさまで、多彩に並び様々な(レプリカ)が静かに佇んでいた。


 どれも透明度の高い水晶で削り出され、宝石を()め込まれた()んだ瞳がかすかに光っている。


(……見られている……?)


 旅人は背筋(せすじ)を正しながら食卓のある部屋に入った。

 大きなテーブルには、さまざまな料理が並べられているがしかし席には誰もいない。


 生暖かい湯気(ゆげ)が残っている。

 ついさっきまで誰かがここにいたかのような気配が漂う。

 空気を震わせ、声が響いた。


 「腹が減っているだろう。食え」

 方向が分からない。遠くから聞こえたようでもあり、耳元で(ささや)かれたようでもある。


 旅人は思わず振り返るが誰もいない。

 彫像(レプリカ)たちの光る瞳がゆらゆらと静かに()らめいているだけ。


(……影の声……?それとも、本人……?)


 胸の鼓動(こどう)が早くなる。

 屋敷の奥から、低く()んだ金属音が静かに波紋みたいに広がった。


 ――かてん、かてん。

 静謐(せいひつ)な青の空間に、規則正しいリズムの(つち)の音が規則正しく響き渡る。

 旅人は音に導かれ廊下へと足を向けた。


 奥の部屋の扉の隙間から、炉の赤い光が漏れている。


 ウロボロスが剣を打っていた。


 彼の背に揺れる藍色めいた黒の髪。

 剣に宿る魔力が青くきらめき、鉄が金属が歌いながら鳴る。


 人型の姿をしていても、あれが竜である現実を旅人は改めて悟った。


 声がまた、どこからともなく響いた。

「食わねば倒れるぞ、お前さん」

 旅人はふと振り返り、誰もいない空間を見つめる。

 映るのは、近くの彫像の光だけが淡く揺らめく気配だった。

 彼はゆっくりと食卓へ戻る。背後に竜の気配を感じながら、一歩一歩を踏みしめる。


 旅人は温かい食事を終えると、しばし椅子に座ったまま考え込んだ。

 山は禁足地(きんそくち)

 外は猛吹雪。

 屋敷の主は(ドラゴン)


(……このあと、どうすれば……?)


 ふと、背後から気配がした。


 振り向くと、鍛治場(かじば)から出てきたウロボロスが静かにこちらへ歩いてきていた。

 炉の光の残滓を引きずり、彼の肩に淡い熱が揺らめく。

 旅人はようやく目の前の存在に真正面から向き合い、近づいてくる姿に目を奪われ、身体が硬直する。


 ウロボロスは人間の青年としての姿を取っている。

 こうして真正面に立たれると、樹氷のごとく高くそびえる背の高さ。

 旅人より頭ひとつ、いやふたつは高い。


 彼の髪は藍色ではなく、炉の赤い光を受けて黒く艶めき、冷たい光を帯びているかのようだった。

 長く伸びた髪を結わえており、横顔のラインは中性的で、女性的な柔らかさも持ち合わせている。


(……美しい……)


 言葉が旅人の胸に浮かぶのは、自然な成り行きだった。

 ウロボロスはしばらく旅人を見つめ、ふっと眉を和らげた。


「どうやら胃に入ったようだな。顔色が戻ってきた」


 低く穏やかな声。

 怒りも苛立ちもなく、事実だけを確かめる言い方だった。


 旅人が思わず姿勢を正すと、ウロボロスは少し首を傾げる。

「……落ち着け。別に喰ったりはしない」


 彼は軽く笑った。

 先ほどまで影の竜の声として響いていた音は、いつの間にか人の声と入り混じり。確かに同じ存在なのだ、と旅人は思う。


 ウロボロスは歩み寄り、自身よりずっと小柄な旅人を見下ろして言った。

「さて……お前さんは、これからどうしたい?」

 旅人の心の奥底を探りながら、問いは静かに迫ってきた。


 旅人は答えに詰まり、視線を泳がせる。

 するとウロボロスは、ゆっくりと手を前に差し出した。


「焦らずともいい。ここにいる限り、お前さんの身は安全だ。……加護と呼ばれる。」


 面立ちは、竜らしい威圧ではなく、人間よりも人間らしい、柔らかな優しさだった。

 旅人はようやく、胸の奥にあった恐れがほどけていくのを感じた。

 

 ウロボロスは旅人の前に立ち、炉の名残を帯びた黒髪を揺らしながら言った。


「外はあいにく吹雪だ。出るにも……出られんだろうな」


 声音は淡々としているそして気遣いが滲んでいる。

 旅人はうつむき、小さく頷いた。


 ウロボロスは続ける。

「よほど国が傾く大事でも起きんかぎり、好きに屋敷で過ごすといい。お前さん1人が居座ったところで、俺の暮らしは何も変わらん」


 旅人が驚き顔を上げると、ウロボロスはかすかに口角を上げた。

「それとな……魔力を持たぬ人間が書斎に入ったとて、何も起きん。呪いもしなければ、爆ぜたりもしない。……死ぬことはないだろう。」


「……死ぬことは、ない……?」


「ふふ、冗談だ。だが好奇心はほどほどにな。部屋には封印された古い言語の本もある。読むだけなら害はない。触るなとは言わんが……触りすぎるな。」

 軽い調子で忠告の響きは確かだ。


 ウロボロスは歩みを転じ、窓の外に目を向ける。

「屋敷の外には凍った池がある。表面の氷は厚いが、無理に歩くな。舟でなら渡れる。池の真ん中に、小さな遺跡の場所があってな……」


 彼は思い出しながら目を細めた。

「そこは見てもいい。お前さんの好奇心を満たすには、ちょうどよいだろう」


 旅人は緊張を忘れ、少し興味を覚えた。ウロボロスは続ける。

「だが洞窟には行くな」


 声に、さきほどよりも強い調子が混ざった。

「迷いやすい上に、足場が凍っている。モンスターと遭遇はしないが……油断すれば落ちて骨を折る。どうしても行くのなら、ランタンと皮袋くらいは持っていけ」


 微笑が口角に浮かび、

「……宝石には興味があるか?洞窟の奥にはいくつか転がっている。拾う程度なら構わん」


 旅人は思わず目を輝かせる。

 ウロボロスは視線の先の様子に、くすりとした笑いがこぼれ楽しそうにしていた。

 旅人を見届けると、思いつき指を軽く弾くと、乾いた音が小さく響いた。

「ああ、そうだ。屋敷の裏手に畑がある」


 旅人は首をかしげる。

 凍てつく白の息をもつ霊峰で畑だけでも不思議とはいえ、ウロボロスは気にした様子もなく続けた。

「動物も飼っている。……もっとも、刺激が少ないせいか、やたら懐いていてな」


 少し呆れ、楽しげな口調だった。


「裏に行けば、牛や山羊にべろべろ舐めまわされるだろう。嫌なら少し距離を置け。特に白い大山羊はしつこいぞ」


 旅人は思わず吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。

 竜人が言う危険とは別の意味での注意らしい。


 ウロボロスは肩をすくめる。

「さて……汚れた服だがな。」

 旅人が着ている衣は、遭難の最中に白い結晶にまみれ、泥も凍りついている。

 ウロボロスはその服を指差して、あっけらかんと言った。


「風呂がどこかにある。好きに使え。俺は必要ない。しかし、お前さんは人間だからな」


 言い方は雑とはいえ不思議と嫌味がない。

 長く孤独に暮らしてきた者の、本気で気にしていない素の態度だった。


 旅人が「どこかにある」曖昧さに思わず不安に駆られると、ウロボロスは軽く笑う。

「探せばすぐ見つかる。俺の屋敷は広いが……迷っても死にはしないさ」

 最後に、ひと呼吸置いて言う。

「――と、大雑把だが、屋敷の説明は以上だ。」


 ウロボロスは腰に下げた布で手を拭きながら、ふっと眼差しを和らげた。

「しばらくは吹雪も止まん。好きに過ごすといい、お前さん」


 旅人は胸の奥で、安堵と不思議な温かさが混ざり合うのを感じていた。

 竜の庇護とは、もっと厳しく冷たいと思っていたのに。

 屋敷の主は、想像以上に人間くさく、しかも温かみのある優しさを持っていた。


 旅人が食卓から離れ、屋敷の中を慎重に歩き始めた頃──

 ウロボロスは鍛治場(かじば)へ戻るため、廊下をゆっくりと歩き出していた。

 背後に、ふっと影が寄り添う。


 壁に映るウロボロスの影が独立した意志を宿し、尾を揺らす竜の形へと静かに変わる。


「……ニィルファ」

 竜が低くささやく声は、人型の姿には届くが旅人には聞こえない。


「人間だが、あのような者なら武器を持ち出そうとはしないだろう。せいぜい、ちょっとした観光に興じる程度」

 ウロボロスは歩きながら、軽く片眉を上げた。


「観光、ね。よく言うわ……」

 竜は続ける。

「今朝の吹雪は、東と西の両面から吹きつけている。あと二日は続くだろう。

 雪の質は――水分が多く、重い。人間の軽装備では山を降りるのは不可能だ」


 ウロボロスは「ふむ」と短く返し、鍛治場(かじば)の扉に手をかけた。

「……そうか。目を光らせるに越したことはない。」


 竜の瞳に薄い膜が滑り、視線が柔らかくなった。

 光は、屋敷の彫像の瞳と同じ、淡い青の揺らめき。

「ああ、わかった。お前さんが鍛治(かじ)に集中できるよう、屋敷全体を見ている」


 ウロボロスは、わずかに笑みの気配を見せた。

「頼んだ。……俺は仕事に戻る」


 影が静かに揺れて応える。

「ごゆっくり。人間の相手は、しばらく俺がしておく」


 ウロボロスが鍛治場(かじば)へと入ると、扉の向こうから、再びかてん、かてんとの音が響き始めた。


 竜は音に合わせ、静かに廊下へ溶け出す――

 屋敷全体が別の生き物の体みたいに息づいている。


 旅人はウロボロスの姿が鍛治場(かじば)に消えていくのを見送ると、なんとなく屋敷の裏手へ足を向けた。


 外に出ると、吹き荒ぶ白の風はまだ止まない。

 だが屋敷の周囲には魔力の結界があるのか、冷たい綿が薄く積もる程度で、柵付きの畑が静かに広がっていた。


 視界の果てにある場所、簡素な小屋の近くで――


「……ん?」


 もこもことした影が3つ、旅人のほうへゆっくりと近づいてくる。


 大きな山羊。

 のんびりした牛。

 子山羊らしき小さな影。


「うわっ……!」


 気づけば、鼻先を寄せられ、頬をぺろりと舐めてきた。


「……あ、あっ……ちょ、ちょっと……!」


 ウロボロスの言った通りだ。

 どの動物も久しぶりの客に興奮していて、旅人の身体をべろべろと舐めてくる。


(……刺激が少ないって、こういう意味か……!)


 旅人は半ば押し返して小屋の脇まで避難した。

 動物たちは嬉しそうに足音を揃えついてくる。


 和む光景だった。


 ふと視線を上げると、屋敷の奥――凍った池へ向かう小道の周囲だけ、雪が穏やかに舞い降りていた。

 旅人は動物たちをなだめながら、池の縁まで歩いた。


 ウロボロスが言っていた通り、池は完全に冷えている。

 中央にある小島――


 確かに遺跡めいた影が見えた。


 白い石柱がマーブル模様を描きながら、円を囲むように冷えた池から突き出ていた。

 表面は滑らかすぎて、まるで喉仏が静かに呼吸しているかのように見える。

 円の中心には、屋敷にあった氷像の目の輝きを思わせる祭壇が立つ。

 巨大な生き物の瞳をかたどった祭壇は、朽ちて自然の景観に溶け込む過程を経て、今ここに存在していた。

 青白い結晶が淡く光を繰り返し、広がる光は空気に波紋を描かせる。

 その揺らぎは、立つ者の影を不安定に震わせた。


 祭壇の縁の部分に手を触れようと、足が沈み込む予感が胸に迫る。

 慎重に近づく者を、空間が試しているようだった。


(……あれは、明らかに自然で出来たモノじゃない……)


 旅人は、舟が岸に繋がれているのを見つける。

 古びているしかし管理は行き届いている。


 そのとき──

 背後から、影の竜の声がふっと耳を撫でた。


「興味が湧いたようだな、人間」


 旅人は振り向きながら何もいない。

 雪の乱れ風が吹き抜けるだけだ。


「遺跡には危険はない。

 ──触れて許されるものと、触れてはいけぬものがある。」


 声は近くも遠くもなく、寒気が積み重なって震わせ響いた。


「好奇心を満たすのは構わぬ。ただし、深入りはするな。ニィルファがお前さんを助けた努力を無駄にするな」

 忠告とも、やさしい叱咤が喉をつっかえさせる。

 足は無意識のまま冷えた池へ向かいかけ、思わず立ち止まった。

 屋敷のほうから、微かな気配がした。


 旅人は振り返り、屋敷へと戻った。屋敷へ先ほどから気になっていた書斎へ向かうためだ。


 2階へ上がると、廊下の先に重厚な扉がある。

 手を伸ばし、ゆっくり開ける。


 青白い光を帯びた、広大な書斎。

 部屋の壁を埋め尽くす書棚に、見たこともない文字が並ぶ。


 ウロボロスは「魔力を持たぬお前さんには何も起きん」と言ったが言葉は、半分だけ正しかった。

 旅人は慎重に歩みを進め、静かに中へ入った、棚の隅で、そっと揺れが起きた。


 ──ぱさっ。


 1冊の本が棚から落ちて床へ落ちたのだ。


 旅人は慌てて近づき、しゃがみこんで手を伸ばす。

 本の装丁は青と銀。見覚えのない文様が浮き彫りになっている。

 (……呼んでいる……?)

 触れようと指を伸ばした。


 ──ひゅっ


 本が勝手にページをめくり始めた。


 風は吹いていない。

 魔力など使っていない。


 何かが反応したのだ。


 竜の声がまた耳に届く。

「……本は、お前さんを選んだらしいな」

 旅人は返答が見つからず、胸の奥がざわついた。


「恐れる必要はない。読めはしないだろうが……見ているだけなら害はない。ただし──」

 影の声音が少し低くなる。


「本を開いたことは、ニィルファには言うな。必要以上に心配する。」


 旅人は驚きと好奇心を抱えたまま、ゆっくり本を拾い上げた。

 ページから漂う青い光が、かすかに手を温める。

 凍った池の遺跡と同じ何かが宿っている。


 

◆本の内容が“見える”――遠すぎる記憶


 旅人は、青い光を帯びた本をそっと開いた。


 目に飛び込んできたのは見慣れない文字。

 しかし旅人はなぜか、意味として理解していた。


(……読める? いや、読んでいるのは……)

 見せられている。

 ページから青白い光が溢れ、旅人の視界は霞み揺らぎ始めた。



 気がつけば、旅人は知らない戦場の上空にいた。


 冷えきった大地。裂けた岩肌。

 人間の軍勢が盾を構え、槍を突き立て、震えながら前線を維持している。


 こちらを見据える反対側、巨大な影が無数に蠢いた。


 (ドラゴン)


 ウロボロスと同じ鱗を持つ者たち。

 しかし表情は彼とは似ても似つかない。残酷で、誇り高く、絶対的な優位に酔っている。


 血と埃に包まれた戦場で、1人だけが踏み出し、視線を独り占めするかのようだった。

 長い黒髪を束ね、1本の細い剣を携えた男。瞳はひやりと凍りつく。

 ウロボロスにとてもよく似ていた。


 旅人の胸に、理解しづらい恐怖が湧く。


(……まさか……)

 竜たちの軍が進むたび、空気が凍り、音が凍り、人間たちの悲鳴が凍る。

 竜人たちの動きは刹那、対して人間たちの動きは永遠に止まったままだった。


 勝負にならない。


 人間の軍は、蹂躙されるばかりだ。


 つららの槍が大地から噴き出し、人間たちを串刺しにする。

 風も、雪の渦も、走り過ぎる霜の尾が兵士の肌や鎧を瞬時に凍りつかせ、砕いていく。

 遊戯(おあそび)のようだった。


 旅人は震え立つ。

(ウロボロス……じゃないよな……でも、似すぎてる……) やがて、彼は空へ舞い上がった。

 黒髪の竜人が周囲の竜たちよりも遥かに高く。

 巨大な竜へと姿を変えた。


 空の半分を覆い尽くす、蒼い瞳の竜。

 顎が開くや否や、冷えの暴流が暗闇を裂いて吹き荒れた──


 山を削り、大地を覆い、人間たちを問答無用で凍死させていく。

 光景はあまりにも冷酷で反撃の余地すらない。まさに、虐殺と呼ぶほかない光景だった。

(信じられない……あの生き物が竜……?)

 旅人の心臓が冷えきる。身が(すく)みうまく吸えない。


 そのとき。


 ──ひゅっ。


 人間の1人が竜の懐に飛び込み走り出した。


 全身血だらけの青年。

 手には、輝かしい光を放つ剣。

 竜は気づかない。

 圧倒的な存在ゆえに、近づく者など想定していない。


 青年は叫びもせず、跳び上がり──


 剣を、竜の胸部へ突き立てた。

 竜の巨体が大きくのけぞり、ぶ厚い鱗を砕きながら剣は深く入る。


 白い閃光が炸裂し、辺りを呑み込んだ。


 旅人は書斎で、はっと息を吸った。膝がぶるぶると震えている。

 天井も床も回転しながら見える。

 本は静かに閉じ、旅人の膝の上に、存在を主張し居座った。


 手は凍りつくほど冷たかった。


 書斎の静寂を裂き、どこからともなく竜の声が聞こえた。

「過ぎた昔話だ。忘れられた戦争の記憶。ニィルファかどうか……お前さんには判断できまい。」

 影の竜はひと呼吸おき、低く囁く。


「だが忠告する。本は、お前さんにだけ見せたのだ。……無闇に開くな。記憶は、深く、重い傷を持つ」

 旅人の胸はまだ冷えていた。

 ウロボロスの姿が脳裏に浮かぶ。穏やかな鍛治士(かじし)は、あの竜と同じ存在なのか。


 心に芽生えた問いが、書斎の静寂に溶けていった。


 旅人が震える手で本を閉じたとき、──ぱちり、と音がした。

 意志を持ち、本がまた勝手に開く。


「ま、待っ……!」

 だが声は届かず、青白い光が再び旅人の視界を覆う。

 気がついたとき、旅人はまた遠い世界に立っていた。


 しかし、さきほどの戦場とは違う。


 ここは巨大な都市だった。

 氷柱(つらら)が林立し、空にいくつかの橋がかかっている。

 建物は竜の鱗の青い光沢を帯び、炎の香りは遠く、魔力と凍てつく空気が文明の核を守っていた。


 だが──破壊されていた。


 崩れ落ちた塔。

 裂けた橋。

 凍りつく死体。


 銀雪に閉ざされた戦場の中心で、戦いが続いている。


 竜と、人間。


 まただ──

 旅人は目を見開く。


 今回、竜たちは氷ではなく、雷や風、炎を操る者も混ざっていた。


 しかし、先頭を率いるのはひとり。

 黒髪を束ねた長身の竜人。

 そびえる姿は、またしてもウロボロスに、よく似ていた。

(……嘘だろ……? 目の前の光景は、時代を超えている……?)

 

 竜人は軍勢の前で、冷静さを失わぬまま手をかざした。

 魔力が溢れ、空が震える。

 上空から凍結した針が雨の勢いで降り注ぐと、人間の軍は瞬く間に貫かれた。


 悲鳴よりも早く、命が散る。


 光景は変わる。


 今度は荒野。

 吹き荒れる砂の大地。


 竜人たちは空を飛び、人間たちは地を走り、巨大な戦車を引いている。

 しかし結果は同じだった。


 竜が先に動けば、戦は終わる。

 戦いの熱が最も高まる場所にはいつも、黒髪の竜人がいる。

 剣を振るい、魔力を操り、淡々と敵を排除していく。


 永遠(とわ)とも思える針の中で戦い続けてきた者のように。

 

 さらに時代が進む。

 城壁が変わり、武器が変わり、服装も文化も、風景も変わる。


 だが──

 竜と人間の争いだけは、変わらない。


 何度も、繰り返し。

 いつの時代にも、竜は人間の脅威となり、人間は竜を恐れ、剣を取る。


 戦場の最前線にはウロボロスによく似た竜人がいた。


 どの時代でも。

 どの世界でも。


 戦い続ける黒髪の竜人。

 人間から見れば、天災の存在。


 旅人の胸が苦しくなる。


(……本当にウロボロスなのか?それとも……同じ種族の別人?……わからない。でも――)

 不意に暗い響きを帯びた声が耳に飛び込んできた。

「忘れるな。お前さんが体験したのは歴史の残滓――誰の記憶とも限らん」

 影の竜だ。


「ひとつ確かなのは、竜と人間は、昔から相容れなかったことだ。何度、世界が変わってもな」

 頭の中が整理できず、目の前がぐらつく。

「……ウロボロスが……戦いに関係しているのか?」

 問いはかすれた声になって漏れた。

 影の竜は静かに言う。

「答えを急ぐな。見せられる記憶が、すべて真実とは限らん。」


 光がひときわ強く輝き、ページが閉じられる。

 旅人は書斎に戻っていた。呼吸が速く、胸が苦しい。


 (……ウロボロスは……)

 静かな鍛治士(かじし)と、戦場の竜とは、あまりにも姿が重なる。


 しかし──

 旅人にはまだ、確かめる勇気がない。

 本は机の上で、青い光を揺らし、『まだ終わりではない』余韻だけがそっと残っていた。



◆問い――凍りつく沈黙



 冷たさを叩きつける風は弱まっただけで、外界ではいまだ白い嵐が途切れず続いていた。


 旅人は迷った末に、鍛治場(かじば)へ向かった。胸の奥がざわつく。

 書物が見せた数々の戦場──

 ウロボロスに酷似した竜人が率いた戦いの記憶が離れない。


 鍛治場(かじば)の扉を開くと、熱気と鉄の匂いが旅人を包んだ。

 ウロボロスは炉の赤光に照らされ、1本の剣を柔らかそうな布で拭っている。

 研ぎまされた動作は、祈りを思わせるほどに静かで、美しかった。


「……ウロボロス」

 旅人の声は震えていた。


「聞きたいことが……あるんだ。」

 ウロボロスは顔だけ少し向け、手は止めない。


「なんだ、お前さん」

 旅人は空気を呑み、ためらいを振り切り、足を踏み出した。

「君は……昔……竜と人間の戦いに、関わっていたのか?」

 

 直後、ウロボロスはぴたりと止まり、心臓の鼓動がの凍るほど静寂が訪れた。


 布がするりと指から落ちる。

 赤い炉の光に照らされた横顔は水晶の彫像のようで美しく、冷たかった。

 まばたきすら、忘れていて動かない。


「本に……見たんだ。君にそっくりな竜人が戦いの先頭に立って……。たくさんの人間が、氷で……。」

 驚きと戸惑いで言葉が固まってしまった。


 ウロボロスは、ゆっくりと旅人へ視線だけを向け、瞳の色は、濃く深い蒼を湛えていた。

 底知れず、ひどく静かで、氷海(ひょうかい)を思わせる冷えが漂っていた。


 しかし── 何も言わない。


 肯定も否定も。怒りも悲しみも、表情に出ない。

 沈黙だけが鍛治場(かじば)に降りてくる。


 旅人の喉が渇く。


「……違うって、言ってほしいわけじゃない。知りたいんだ。君が……どんな存在なのか」

 ウロボロスは視線を落とし、手元の剣を見つめた。


 刃には、彼の蒼い瞳が映り込む。透明で、触れればすぐに崩れてしまいそうなほど脆く見えた。

 口元がわずかに動き、心の声にはならなかった。


「…………」

 

 代わりに、ふっと息を吐き、剣を壁にかける。

 壁には、彼が作った数々の剣が梯子(はしご)みたいに連なって並んでいた。

 殺すためではなく、祈り願うための造形を持つ美術刀だった。


 柔らかな曲線、氷晶の紋様。

 鋼でありながら、悲しげな美しさがある。


 旅人は気づいた。


 並んでいる剣は、戦いから離れた者が作る剣だ。もう振るわぬために作る剣だ。

 だからこそ、問いは重い。


 暗く黙った末、ウロボロスはやっと声を落とした。

 低く、遠く、凍った記憶の奥から響く声で。

「…………過去を、冷たく閉ざしたはずだった。」

 旅人は息を呑む。


 ウロボロスは、何も言わない。


 否定ではない。

 肯定でもない。


 苦痛で重い沈黙だけが彼を包んでいた。

 炉の火が弾ける音だけが響く。


 旅人は唇を固く閉じ、口をつぐむしかなかった。


 ウロボロスは、美しい彫像のように動かず、深く目を閉じた。

 仕草の端々(はしばし)に、深いひだをつくって幾重(いくえ)にも畳み込んだ姿のようだった。



◆消える気配――追うべき背中



 ウロボロスの固く閉じた唇が、鍛治場(かじば)の空気を凍らせていた。

 旅人は何も言えず、彼の横顔を見つめる。


 やがてウロボロスは目を開けた。

 瞳の奥は深く冷えていて追いつくには遠い。


「……悪い。少し、外の空気を吸ってくる」

 声の響きだけを残して、ウロボロスはゆっくりと鍛治場(かじば)を出ていった。


 旅人は呼び止められなかった。

 扉の閉まる音が胸の奥を重く響かせる。


 戻ってこないかもしれないと感じた重い黒ずんだ不安が胸の奥でじっと淀んでいる。


 旅人は急いで扉へ向かう。


「……ウロボロス!」

 廊下に出た けれど、彼の気配は薄く、消えかけていた。

 青い屋敷の中に、静寂だけが残る。


 旅人は焦りに駆られ、階段を駆け降りた。

 冷気が玄関のほうへ流れていく。


(……外に出た? 吹きつける吹雪の中を?)


 あり得ない。

 しかしウロボロスならば、白い嵐も意に介さないかもしれない──

 そんな考えが胸を冷たく締めつける。


 旅人は玄関扉を開いた。

 外は白の静寂に満たされて、視界はほとんど利かない。


 銀の粉の上に黒い足跡があった。

 深く、しっかりと刻まれた歩幅。

 冬に閉ざされた地の上でも歩ける爪の引っ掻き傷が残っている。


「……どこへ行くんだよ……」

 旅人は震える声でつぶやき、足跡を追って歩き出した。


 霜風のうねりが肌を刺し、靴底が氷の紗に沈む。


 足跡は屋敷の裏手へ続いている。

 畑の横を抜け、動物小屋の影をすり抜けながら、凍てついた池に近づいていった。


 遠くに、すくと立った長身の影が見えた。間違いなくウロボロスだ。

 彼は池の中央にある小島。遺跡の前に立っていた。


 山肌をえぐる冷たい乱風の中、姿ははっきり見えない。

 だが背は高く、長い黒髪の束が風に揺れている。


 旅人は声を張った。


「ウロボロス!どうして……!」


 声は霜風のうねりに飲まれた。


 ウロボロスを振り返りながら見た。

 横顔は、水が凍り静かで、寂しい。


 旅人が白く固まった地面へ踏み出そうとしたとき、背後から影が揺らめいた。

「行くのか?その道の先は……思っているより、ずっと寒いぞ」

 低くひびく声が耳に届き、竜が自分を引き止めていると感じさせた。


 旅人は振り向かず、答えた。


「……あの人を、1人にしたくないんだ」

 寒気の渦が空を裂き、地の固まりが低く唸った。


 竜は小さくため息を漏らした。

「ならば歩け。割れないうちに。俺が見ていよう」

 旅人は足を前へと運び、凍った池へ踏み入った。ウロボロスが待つ、小島へ向かって。


 

◆ウロボロス──過去の影


 

 旅人が凍った池を渡りきる頃、空の白が薄く透けてゆく。

 遠くから見ていたウロボロスの背中は、人間離れした静けさを帯びていた。


 旅人が近づくと──

 ウロボロスの身体に、(かす)かな揺らぎが起きた。

 黒髪がふわりと逆立ち、背中の影がうねる。


 右目のまわりに、花弁が開き軌跡(きせき)で鱗が広がり始めた。

 顔の半分はまだ人の皮膚のままなのに、もう片側は革の質感を帯び、こぼれる吐息は白く凍りつく冷気をまとっている。

 同時に、左腕の皮膚が細かく裂け、下から黒く硬質な鱗が芽吹き浮かび上がる。

 指先はゆるやかに反り返り、鋭い鉤爪(かぎづめ)の形を取り始めていた。


 恐怖よりもむしろ、神秘の静けさをまとった変化だった。

 美しく、ひそやかに、世界の境界が次々と組み替わっていくのを感じた。


(……ウロボロス……)

 彼は背を向けたまま、小さく吐気をこぼす。

「……もうすぐ、吹雪は止む」

 硬く冷えた表面をなぞり、低い声で呟いた。


「お前さんを……帰さねばならない。」

 ゆっくりと振り返る。


 瞳孔(どうこう)の色は、深い蒼。

 竜の魔力の光を湛え、人間の心には触れる術がないほど冷たく、美しい。

「もういいだろう?好奇心は満たしたはずだ」

 旅人は言葉を失う。

 ウロボロスの姿は、畏怖(いふ)と悲しみを混ぜた存在だった。


 腕の鱗は微かに光り、足先が冷たい落下物をかき分けるたび、硬く凍った地面が小さく軋む。

「遠い過去の話だ。お前さんが見たのは……ただの記憶にすぎない」

 ひとつ息を吐く。

「もう誰も、傷つけはしない。俺は……そういう生き方を選んだ」

 竜の耳が揺れ、尾の影だけが背後の雪上に伸びている。

 旅人は、胸が締めつけられる感覚に襲われた。

「でも……ウロボロス。本当は……」

 彼は静かに首を振る。

「もういいんだ」


 短い言い回しの裏に人間の尺度では計り知れず、竜が幾度か古い殻を脱ぎ捨て新しい己として過ぎた時間が静かに流れていた。

「お前さんは帰れ。ここは、人間が長くいる場所ではない」

 ウロボロスは半竜の姿のまま、旅人から視線をそらす。

 剣を振るうたびに(きた)えられ、力強く隆起(りゅうき)する背中には、宿命を断とうとした者の静かな痛みがあった。


 風が止み、空に薄明かりが差し始める。


 帰れる。

 冬の嵐は終わりを迎えていた。


◆――ナハトムジーク


 ウロボロスが旅人に背を向けた途端、背筋(せすじ)に異様な感覚が走った。

 冷気が震え、雪面に裂けた黒がじわ、と広がった。


 旅人は思わず足を止める。

「……え?」


 影がずしんと重く膨らんでいく。

 夜の深みが地に染み出し、真っ黒な闇が広がっていった。


 ウロボロスの動きが瞬く間に変化した。

 竜化した身体が旅人の前に飛び込み、鋭い爪が風を切って氷霧(ひょうむ)の欠片を抉る。


「──さっさと帰れ!」

 鋭い、獣じみた怒声。

「ナハトムジークがお前を喰うぞ!!

 旅人の目の前で、黒い巨大な竜の影が口を裂き、ゆっくりとこちらに向けて伸びてくる。


 物質ではない。

 だが確かに喰らうための口だった。


 (う、うそだ……影なのに……!)

 実体のない影は旅人の足元に黒い爪を落とし、空気を凍てつく圧力が襲う。

 ウロボロスが片腕で旅人を突き飛ばし、もう片腕の鱗に覆われた掌で影の顎を押さえ込んだ。


「停戦協定はとうの昔に結んだ!俺はもう……自ら進んで人間と戦う理由はない!」

 じわっと広がった影はウロボロスの腕に噛みつこうとた途端、竜化した彼はぐっと押し返す。

 旅人の方へ視線を投げる。

 蒼い瞳が鋭く光り、命令を突きつけるようだった。

「死にはしない!真実を知っただけだ……なら忘れろ!」


「ゴォオオオ……」

 黒い竜ナハトムジークが咆哮した。

 轟きは空には響かず、()()に沈み、濁る。

 旅人は震えながら後ずさる。

 

「空を飛んで帰るぞ!!」

 ウロボロスの背から竜の翼の影が広がり、実体を持ちながら冷気を噴き出す。

 腕に抱えられ、旅人は大気を震わせる翼の衝撃とともに、凍る光の屑の山中から空高く舞い上がった。


 下では、取り残されたナハトムジークの黒いじっとりした影が悔しげに雪上を這い、空を睨む。

 思考が追いつくや否や、旅人は理解した。

 ウロボロスは戦う意志を捨てた竜であり、良しとしない影が昔の戦場へ引き戻そうとしているのだと。

 骨まで染みる冷風が顔を打ち、景色はあまりにも早く遠ざかっていく。


 ウロボロスの腕は冷たく、しかし力強かった。

「……帰れと言っただろう。ここは……お前さんがいていい場所じゃない」

 先ほどとは違う深い哀しみが滲んでいた。



◆――墜落の予兆


 雲を割って飛び出すと、冷たい風が全身を打ち付けた。

 ウロボロスの背に広がる竜翼に、ぱきっと嫌な音が響く。


「……っ――!」

 旅人が身をすくませるより早く、ウロボロスの身体が勢いよく傾いた。


「くそっ!!!」

 氷を吐く声が風に散る。


「飛ぶのは元々得意じゃないんだ……長距離なんざ、もっと苦手だ!!」

 竜化した身体が急速に重くなり、風の流れに押されて失速していく。

 空が、地面が、ぐるりと回った。


「落ちるぞ!!掴まれ!!

 旅人は本能でウロボロスの首元の衣にしがみついた。

 腕の鱗は冷たいのに、どくんと心臓の鼓動の熱が伝わってくる。


 しかし、空気が震えた。


 後ろから黒い竜が飛んできた。

 ナハトムジーク。

 空にあるはずのない影だけでできた竜。


 影の口が旅人へとまっすぐ伸び、声もなく噛みつこうと襲いかかる。


 ウロボロスが振り返りざまに吠える。


「来るな──ナハトムジーク!!こいつは関係ない!!」

 黒い影の竜の咆哮は無音。

 色すら奪う圧が空気を押しつぶした。


 旅人の目の前が白く弾け飛び、霞んだ。

 影が頭に触れた。記憶が引き抜かれようとしている。

「……ぁ……っ!」

 思考が滑る。

 名前、形、屋敷、剣、書斎。すべてが霞んでいく。


 ウロボロスが必死に片腕で黒の顎を掴み、殴り払う。

 


「おいッ!!意識を保て!!まだ落ちてはいない!!」

 空を裂く風が吹き荒れた。雪山がどんどん近づく。


 ウロボロスが翼影を必死に広げ、地面に沿って滑ることで衝撃を吸収する。

 雪の斜面を転げ落ちながら冷たい岩をかろうじて避け、霜をまとった枝を折り散らしながら、勢いのまま山道の(はし)へ滑り込んだ。

 凍てついた塵と枝のざわめきが耳を刺し、胸が激しく跳ねる。


 旅人は強く咳き込む。

 ウロボロスは息を荒くして膝をついた。


 竜の腕が震えている。

 鱗がところどころ剥がれ、次々と再生しようとしている。


「……はぁ……っ。無茶をする……ナハトムジークめ……」

 旅人の目にはまだ黒い竜がちらつく。

 記憶をこそぎ落とす暴力の痕跡(こんせき)


 ウロボロスは旅人の顔をのぞき込み、眉をひそめる。


「……記憶は……全部は奪われてはいないな。よかった……。」

 目の(はし)に、何かが映った。


 山のふもと──

 人間の村へ戻る分岐の手前。


 冬の降りものに覆われる形で、1本の古い剣が地面に突き刺さっていた。


 柄には蒼い竜紋。

 ウロボロスが鍛えたのと同じ、繊細(せんさい)な紋様。

 旅人は思わず手を伸ばす。


(……これは……ウロボロスの……?)

 剣を手にした途端、紋章が微かに青く光った。氷がほろげた粉の冷たさの中で、確かな熱を持って。

 ウロボロスは険しい顔で見つめた。


「……ずいぶん古いものが残っていたな。置いていった剣だ」


 旅人が振り向く。

「ウロボロス……いつの話なんだ?」

 彼は答えず、背を向けた。

 長い黒髪が揺れ、鱗が淡く光り、人と竜の狭間(はざま)(たたず)む姿は、何も語らず静止していた。


「……帰れ。今度こそ。ここから先は……もう人間の世界だ」

 旅人の手に、青く光る剣がまだ握られている。

 その刃先は、旅人に選ぶべき道を静かに問いかけているようだった。


◆別れ――


 旅人の手にあった蒼い剣を、ウロボロスはゆっくりと視線で追った。

 (つか)の紋が氷点(ひょうてん)のひとしずくの光を受け、微か(かす)かに青く揺れる。


 ウロボロスは歩み寄り、竜化した鱗が冬の粉末を鳴らしながら手を伸ばす。


「……はぁ。――この剣、ここにあったのか」

 呆れた表情で、懐かしむ気持ちを混ぜながら息をつく。


「返してもらおう」

 旅人は素直に頷き、剣をウロボロスの手に返した。

 鱗に(おお)われた(てのひら)が剣を(つか)むと、刃がきらめいて、光がほっとして柔らかく広がった。


 ウロボロスは剣を(たずさ)え、旅人へと向き直る。

「……さっさと行け」

 声は荒くはない。しかし、照れ隠しのようでもあった。

「お前さん……吹雪に遭って、散々な目にあったようだしな。禁足地(きんそくち)に立ち入るなよ」

 

 旅人は苦笑する。

「……うん。もう十分だよ」

 ウロボロスは、風と雪の匂いをまとったまま、少しだけ視線を逸らして続けた。


「達者でな……。」

 声には、人でも竜でもない彼なりの温かさが宿っていた。

 旅人は深く頭を下げ、山道をゆっくりと下り始める。

 振り返れば、ウロボロスの竜化した姿が凍りつく光のざらめと空の境目(さかいめ)境目に薄く溶けていく。


 やがて旅人は山を降り、白銀の霊峰の輪郭(りんかく)が遠ざかる。


 人間の世界の空気が胸に戻ったときようやく、旅人は無事帰還したのだと実感した。


 ウロボロスの屋敷も、黒い竜の脅威も、剣の輝きも。

 霊峰を越えれば、魔法と竜の世界は、遠い夢で薄れていく。


 旅人の胸に残ったのは、ひとつだけ。


 白き霊風の激しさに揺れる蒼い瞳の奥に、不器用な別れのせりふが、今も旅人を呼びかけていた。

 物語はここで、ひっそりと閉じられる。

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