第7話─ カミラの素顔
「そうだ。この間試食してもらったお茶とクッキーだけど……」
「あぁ。あれ、どうしたの?」
カミラが尋ねると、ノーマはポットから新しい茶を淹れ始めた。
「お茶の方を少し改良してみたんだ。飲んでみてくれないかい?」
湯気の立つティーカップを差し出したノーマは、つい期待の色を浮かべた目をしてしまった。改良した茶を彼女はどう評価するだろう。緊張とともに鼓動がわずかに高鳴るのを抑えられない。
カミラはカップを受け取ると、わずかにまつ毛を伏せて香りを嗅いだ。
「いい香りね……。ディンバルを強めただけではなさそうだけど……」
以前カミラが飲んだときには、香りがクッキーに負けるからディンバルを強めた方が良いのではないかと指摘していた。今彼女が手にしている茶は、確かにディンバルの香りもわずかに強めてはいたが、それだけではなかった。
そこに気がつくとは、やはりカミラは茶に対する造詣が深い。
「本当にさすがだね。うん。ディンバルは少しだけ。でも、それだけが突出しないように、他の茶葉の配合も変えてみたんだ」
指摘されたことをただ実行するのでは足りないと思っていた。それをヒントにより良いものを作らなければ、店を営む身としては立つ瀬がない。
カミラはたおやかに茶を口にすると、ふっと笑みを浮かべた。
「すごいわね、ノーマ。さすがプロだわ。趣味で飲んでるだけの私では及ばないわね」
「ははっ。そう褒めないでくれよ。きみほど造詣の深い人に飲んでもらえたことがなかったから、認めてもらいたくて必死に考えたんだ」
「そんな大袈裟よ」
カミラは手を振って笑ったが、ノーマにとっては大袈裟なことではなかった。
茶の改良を考えている間、どうすれば彼女を納得させられるだろうかと考えていた。
ノーマの茶を飲んだ客が「美味しい」「いい香り」と褒めてくれるのは嬉しい。だが、カミラのように忌憚のない意見をくれる客は貴重だ。
既存の客たちのニーズからも逸れないようにしつつ、彼女のような人にも手放しで「美味しい」と言わせたいと思ったのだ。
「クッキーの方は、子供にも食べやすいようにしたいから変えない方がいいかと思ってるんだ。さっきみたいに、お土産に買っていってくれることもあるから」
「ノーマは本当に子供が好きなのね。いいパパになりそうだわ」
不意の言葉に、指先がピクッと反応してしまう。視線が一瞬揺らぎ、唇が震えてそうになるのを噛み締めた。
エルリアの言葉が蘇る。彼女と結婚したいのは本心だ。だが、だからこそ、子供を授かれない事実はそう簡単に割り切れるものではなかった。
その気持ちを悟られないよう、ノーマはすぐに笑みを浮かべた。しかし、返す言葉に迷ってしまう。
(カミラは知らないのか……? エルリアはそうは言ってなかったけど……)
訊くに訊けない。カミラがもし知らなかったのなら、エルリアが勇気を出して打ち明けてくれた秘密を勝手に漏らしてしまうことになる。
「そう……かな? どうだろうね……」
「そうよ。さっきの子に対しても優しかったし、子供好きって言ってたじゃないの。あなたが小さな子供と手を繋いで歩いている姿が目に浮かぶわ」
穏やかな口調で言われ、ノーマはつい、想像してしまった。小さな子供と触れ合ったばかりだからというのもあるのだろう。ほんの一瞬ではあったが、小さな手の体温が肌に蘇る。
「……まぁ、子供が好きなのと、いい父親になれるかは別だしね。それに僕は、絶対に子供が欲しいわけじゃない……」
「あら、そうなの?」
カミラの言葉は、以前のノーマなら素直に喜べたであろうものだった。幸せな未来を想像してニヤけていたかもしれない。
だが今は、どう反応していいか分からない。
子供が欲しい気持ちを出して、もしそれがカミラの口からエルリアに知られてしまったら──。
きっと彼女は傷つくだろう。「やっぱり結婚はやめよう」と言い出してしまうかもしれない。
「私は欲しいなー、子供」
カミラがしみじみと呟いた。
「……きみも、子供が好きだと言っていたね」
「えぇ。子供は好きよ。泣いても笑っても可愛いもの」
先ほどの少年に対して向けられた、カミラの瞳を思い出す。あの瞬間の彼女の瞳は、紛うことなき慈愛に満ちていた。
「いつか、好きな人との赤ちゃんを腕に抱きたい。それで、『目元はあなたに似てるね』なんて言って、笑い合ったりしたいわね」
「きみならきっと、いい母親になれると思うよ……」
ノーマは無意識のうちに、その光景を想像していた。
彼女が腕に小さな赤ん坊を抱き、愛情に満ちた目で我が子をあやすその姿を。
その幻想が胸に広がった瞬間、ノーマはなぜか胸の奥に鈍い痛みを覚えた。
「ふふっ。ありがとう。私の結婚相手も、ノーマのように子供が好きな人だといいのだけど」
「えっ……」
──それは、ほんの一瞬だった。
ノーマは赤ん坊を抱くカミラの横に、自分が立つ姿を想像してしまった。
「──っ!」
胸の奥に、焦がれるような幸せと、泥のようにうずまく罪悪感が湧き上がる。
「ま、そんな予定ないんだけどね! ふふっ。結婚相手の前に、恋人を見つけなくっちゃね!」
何ということもない顔でカミラが笑う。
きっと彼女の言葉に深い意味などない。ただ身近にいた子供好きの男性がノーマだったから、例えとして出しただけなのだろう。そう思えば思うほど、刹那の妄想にノーマの胸は痛んだ。
「ノーマ? 大丈夫? 随分顔色が悪いわ」
ハッと顔を上げると、カミラが大きな目に困惑の色を浮かべていた。
「あぁ……いや、大丈夫だよ。気にしないでくれ」
その目を見ていられず、ノーマは思わず顔を逸らす。
(しまった……返答を間違えた……)
これでは気にしてくれと言っているようなものだ。
案の定、カミラは椅子から立ち上がり、カウンター内へと入ってきた。
「大丈夫なわけないじゃない。真っ青よ?」
しなやかな指先がノーマの背中をさすった。何ということもない。労るための仕草だ。
──そのはずなのに、ノーマの鼓動が激しく揺れた。
「気分でも悪いの? 今日はもう、お店閉めて休んだら?」
顔を覗き込むように見上げてくるカミラの大きな瞳。その瞳を見た瞬間、ノーマは理解した。
(あぁ……こういうことか……)
彼女の何気ない仕草が、言葉が、そしてこの真っ直ぐに見つめてくる大きな瞳が、心をかき乱す。蜂蜜のように甘いその毒に心を侵されたとき、男は彼女に手を伸ばすのだろう。
「カミラ……」
ノーマは自分の背を撫でるカミラの手首を掴み、その瞳を見据え返した。
「ノーマ?」
「カミラ、本当にすまない。申し訳ないし、勝手だとは思うんだけど──ここにはもう、来ないでくれないか?」
大きな瞳を更に見開くカミラに、ノーマは手を放してバッと頭を下げた。
「僕は、エルリアと結婚したいと思ってる。実はこの間、プロポーズしたんだ。だから彼女を不安にさせたくない。きみにそんなつもりはないことは分かっている。自惚れだって笑ってくれていい。それでも僕は、エルリアを不安にさせずにきみといい友人でいる自信がないんだ」
「……エルリアに聞いたのね?私があの子の恋人を奪った、って」
ノーマは顔を上げることができなかった。カミラの目を見ることができない。彼女を傷付けてしまうかもしれないことに胸が痛む。それでも、エルリアを不安にさせないためにはこうするしかないと思った。
「……あぁ、聞いた」
「あなたもそう思ってるのね? ……私、彼らにはちゃんと言ったのよ? 『あなたはエルリアの恋人なのだから、私と浮気なんてだめよ』って。でもね、彼らは次に私の前に現れたときにはこう言ったの。『エルリアとは別れた。だからもう浮気じゃない』って……」
意外、ではなかった。きっと、カミラにそんなつもりはなかったのだろうとノーマは思う。
だが、彼女の言葉は男たちにとって、エルリアに別れを告げる引き金になってしまったのだろう、と。
そしてそれは結果として、エルリアの心を深く傷付けた。
「私、責任感じちゃって……。私のせいでそこまでさせてしまったのなら、受け入れるべきなのかなって。だから、彼らと付き合ったのよ?」
「分かってる。きみに悪気がなかったことは。ただ──」
悲し気な声にノーマは思わず顔を上げた。こちらを見つめてくる大きな瞳と視線がぶつかる。
その瞳は──ゾッとするほど美しい笑みを浮かべていた。
「……カミラ?」
その瞳と笑みに気圧され、ノーマは反射的に一歩後ずさった。しかしその腰に、カミラの両腕が回される。
「ちょっ……カミラ……っ!」
「プロポーズしたのなら、もう知ってるんでしょう? エルリアが子供を産めないこと……。プロポーズしてくれた相手に、あの子が言わないはずないもの」
互いの腰が重ねられ、カミラのしなやかな腕がノーマの胸元を滑った。
「な、何のつもりだ……!僕は──」
「私なら、産めるわよ? あなたの子供……さっき想像したんでしょう? エルリアには内緒で、産んであげる」
ノーマの鼓動が激しく揺れ動き、背すじに冷たい汗が伝った。
(わざと……想像させたのか?)
些細な、それでいて具体的な未来への展望を語るカミラの言葉に、確かにノーマはその光景を想像した。そしてそこに自分の名前を出されることで、自分もそこに混ざる光景を思い浮かべてしまった。
それが全て計算だったと気付き、全身の肌が粟立つ。
どこまでが計算で、どこまでが彼女の素だったのか分からない。分からないように、巧妙に仕掛けられていた。
「……僕は、エルリアを騙すようなことはしないよ。子供については養子をもらう手だってあるだろ? 自分の子供をもうけることができないのは残念だけど、それでもエルリアと生きていきたいって思ったんだ……」
ノーマはカミラの細い肩を掴み、強引に身体を引き剥がした。こんなところを誰かに見られるわけにはいかない。先程までのカミラに対する遠慮も、もはや必要ないと思った。
「だからカミラ、きみとはもう会わない。色々な意味できみを誤解していたのは僕の落ち度だ。でも今きみが言ったことは──」
「ふっ、ふふっ。……あははははっ」
突如カミラが笑い声を上げ、ノーマは言葉を失った。
拒んでいるはずなのに、彼女に動揺の色はない。それどころか、実に楽しそうに笑っている。
「何がおかしい……? なぜ笑うんだ?」
「そりゃあ、笑うわよ。ひょっとしたらあなたがそうなんじゃないかと思っていたけど……ふふっ」
カミラは右手で顔を覆うようにしながら腹を抱えて笑い続けている。
「そう、って……何が?」
「あなたが、"運命の人"だって話。これを使う必要はないんじゃないかと思っていたんだけど、きっと今がそのときね」
カミラが顔を上げ、ノーマの目を見つめた。右目を覆い隠し、左目だけで見据えてくるその表情からは笑みが消えている。
初めて見る彼女の真顔にノーマがゾッとする間もなく、その瞳に何かの陣が浮かんだ。
「──っ!?」
思わず身体を引こうとするも、意識がカミラの瞳の陣に引きずられる。目を逸らせない。抗えない何かに精神を拘束され、思考の奥が掴まれるような感覚がして、ノーマの呼吸は荒く浅くなっていった。
(なんだ……これ。思考の隅々まで、カミラの意識が入り込んでくるような……)
脳の髄まで侵されるような気分だった。吐き気さえ覚えてくる。
それでも、瞳の陣に抗えない。
「……ん。もういいわ、満足よ」
カミラが目を伏せると、ノーマの精神を覆っていた感覚も一気に解けていった。
「──ぜはっ、はぁっ……! な、何を……」
大きく息を吐き、同時に嘔吐しそうになるのをノーマは懸命に飲み込んだ。カウンターに手をつき、膝を折りそうになるのを堪える。大量の汗が噴き出し、全身に流れていった。
何らかの術を行使されたのは明白だった。ノーマは魔術の類を見たことがなかったが、カミラの瞳に浮かんだ陣──あれは明らかに異質の力だ。
「苦しい? ……ごめんね。そんな副作用があることは知らなかったの。魔導士さまも、ちゃんと教えといてくれたら良かったのに」
「魔導士? 今のは魔導士の力なのか? ……僕に何をした!?」
荒い呼吸のままノーマはカミラに掴みかかった。
「──っ!」
細い肩を掴む手に思わず力を込めてしまい、カミラの眉根が痛みを堪えるように歪む。
「……あ」
これではただの暴力だ。ハッとしたノーマは慌てて彼女の肩を放した。
「すまない……」
深く息を吸い、己を落ち着かせようと試みる。恐る恐る視線を向けると、カミラは別人のように凛とした表情をしていた。
そこには、あの艶やかな笑みも、ノーマを案じるような憂いもない。ただ、強い意志を湛えた真っ直ぐな瞳をした女性が、そこにいた。
(……これが、カミラの素顔だ)
なぜそう思ったのかはノーマ自身にも分からない。だが、確信があった。
今までの人懐っこい笑顔も、妖艶さを含んだ表情も、茶や菓子に対する博識さも、そのどれもが今の彼女の印象からは程遠い。それらはおそらく、彼女が己の武器として身につけたもので、本質ではないのだろう。
「私の願いは叶った。お望み通り、ここには二度と来ないわ。……もう、必要ないから」
「……え?」
カミラは踵を返し、カウンターから出て行こうとした。そのとき、彼女の左肩が茶葉をしまっている棚へとぶつかる。
「ま、待て! さっき、僕に何をしたんだ!?」
先程のカミラの瞳は異質の力を放っていた。間違いなくノーマの精神を掴み、思考に侵入してきた感覚があったのだ。あれがもし、ノーマの精神を操るようなものなのだとしたら、放置するわけにはいかない。
ノーマは咄嗟に、遠ざかろうとするカミラの腕を掴んで振り向かせた。
「…………え?」
振り向いたカミラの瞳には何の表情もなく、それどころか、ノーマを見てさえいなかった。
──いや、正確に言えば、視線はぶつかっている。ただし、右目だけ。先程まで陣が浮かんでいた彼女の左目は虚ろで、どこにも焦点が合っていなかった。
「カミラ……その目、まさか見えていないのか?」
「あなたには関係ないわ」
カミラの声はこれまでからは考えられないほど冷たく、何の感情も込められてはいなかった。見えているはずの右目さえ、もうノーマの目を見ようともしていない。
「関係ないなんてことはないだろう!? その目、さっき妙な力を使ったからか!? あれは何か──魔導士にもらった力なのか!?」
「さっきのは、ただの確認。一回しか使えないものだし、あなたには何もしていないから安心して」
カミラはすっかり心の扉を閉ざしてしまっているようだった。
──いや、最初から開かれてなどいなかったのかもしれない。緻密に計算された上での言葉、行動、その表情。先程までのカミラはおそらく、本気でノーマを堕とそうとしていたのだろう。
だがノーマは、カミラの真意は「エルリアの恋人を奪うこと」ではないような気がしていた。
「何もしていないって、じゃあなんで……」
「別に信じる必要はないわよ。あなたはただ、今まで通りでいるだけでいい」
カミラはノーマの手を振り払うと、再び背を向けた。ノーマの問いには答えているようで何も答えていない。左目の力が何だったのか、今彼女の左目がどういう状態なのか、彼女に答える気はなさそうだった。
あれほど巧みにノーマの心に入り込み、かき乱してみせた彼女の心を揺らす術が、ノーマには分からなかった。
「カミラ……」
カウンターを出ていき、無言のまま鞄を手に扉へと向かうその後ろ姿に、ノーマは手を伸ばせずにいた。
「私はずっと、あなたを待っていた。願いは叶ったわ。だから、一つだけ覚えておいて」
扉に手をかけたカミラはわずかに振り向き、ノーマと視線を合わせた。
「エルリアは子供を産める。あなたとの子供を、産めるわ。だから養子の件は、後回しにしてね」
「──っ」
ノーマは言葉を失った。彼女の告げた言葉に対してもそうだが、最もノーマの思考を奪ったのは、カミラの浮かべた笑みだった。
彼女の浮かべた淡い笑みは、あの少年に向けたものと同じ、慈愛と優しさに満ちたものだったのだ。
「カミラ……!」
「さよなら、ノーマ。エルリアのこと、頼んだわよ」
笑顔のまま、カミラは去っていった。
彼女に手を伸ばさなかったことを後に深く後悔することになるとは、このときのノーマには知る由もなかった。




