第6話─ 魔女との邂逅
扉の小窓から店の中を覗いたエルリアは、咄嗟に身を隠してしまった。
笑い合うノーマとカミラの様子に、心臓が嫌な音を立て続ける。
(カミラのあんな顔見たの、何年ぶり……?)
子供の頃はあんなふうに笑うこともあった。二人して川でずぶ濡れになったり、泥んこ遊びでお互いの親に叱られたときも、カミラはこっそり舌を出して笑っていた。
一緒にクッキーを作ったときも、お互いに小麦粉で白くなった顔を見合わせて吹き出していたのを、今でも覚えている。
年が経つに従い、カミラは品の良い女性に成長していった。ごく平凡な家に育ったとは思えないほど優美な所作を身につけ、大口を開けて笑う姿を見なくなっていった気がする。
それが今、ノーマの前では心から楽しそうに笑っている。そしてそれを見ているノーマもまた、楽しそうにしていた。
(なんで……カミラと楽しそうにしてるの……?)
エルリアの話を聞いて、不安にさせないためにプロポーズしてくれたのではなかったのか。
今エルリアが店内に飛び込んだとしても、二人は気まずそうな顔などしないだろう。「あぁ、来たのか」ぐらいの調子でまた二人で話し始めるのではないか。
(二人の話の輪に入れる気がしないわ……)
気が付いたときには、エルリアは駆け出していた。
これ以上二人が楽しそうにしている様子を見ていたくなかった。
思考が嫌な想像で支配され、不安で胸が圧し潰されそうになる。前の恋人だって、妊娠して婚約までしたというのに、結局はカミラに奪われた。プロポーズしてくれたからといって安心できる材料にはならない。
心を奪われるということは、理屈でどうにかなるものではないのだから──。
「──きゃっ!」
道の角を曲がったところで、誰かにぶつかってしまった。
反動で転びそうになったところを抱きとめられ、腰を支えられる。
「大丈夫? ごめんなさいね」
凛とした声が降ってくる。
驚いたエルリアが顔を上げると、栗色の長い髪を揺らめかせた翠玉の瞳と目が合った。宝石のように輝き、吸い込まれるように深いその瞳に思わず息を呑む。
一瞬、世界が止まったように感じた。風の音も、通りのざわめきも遠のいていく。
(うわぁ……すごい美人……。彫刻みたいだわ……)
エルリアが知る人生最高の美女はカミラだった。しかし今、目の間で笑みを浮かべている女性はカミラよりもいっそう蠱惑的で、近付きがたい神秘的な美しさを持っていた。
「す、すみません……私が前を見ていなくて……」
「お互い様よ。転ばなくて良かったわ」
その言葉にエルリアはハッとした。まだ腰には彼女のしなやかな手が添えられている。その手の感触と顔の距離の近さに、思わず心臓が跳ねた。
「ところであなた……」
翠玉の麗人がふわりと顔を寄せてくる。カミラといい彼女といい、美人というものは他人との距離が近い生き物なのだろうか。
「顔色が悪いわよ? 具合いでも悪いの?」
「えっ? そ、そうですか? 特に具合いが悪いというわけでは……」
確かに、良くないことを考え過ぎていたせいか、胃がわずかに気持ち悪い気がした。血の気も引いている気がする。
「すぐそこに私が泊まってる宿があるわ。休んでいきなさい」
「え? い、いえそんな……大丈夫ですから!」
固辞するエルリアの言葉を聞いているのかいないのか──翠玉の麗人は背を向けてスタスタと歩き始めてしまった。
(あぁっ……私の方がぶつかってしまったのに、このまま立ち去るわけにもいかないわ……)
おろおろと困惑しながらも、結局エルリアは彼女の背を追う。
無言のまま後ろをついていき、二度ほど角を曲がると、簡素な宿があった。
特に華美なところもなく、旅の行商人などが短期間だけ宿泊するようなところだ。目の前を優雅に歩く超美女には似つかわしくないような気さえする。
「ここよ」
「あ、はいっ。あの……」
「あぁ。自己紹介がまだだったわね。私はセリヴァル。旅の魔導士よ」
「魔導士さま……?」
彼女の泊まる部屋に案内され、言われるがままにベッドに腰を下ろす。翠玉の麗人──セリヴァルはエルリアの額や首に手をあて、瞳や舌の様子を観察した。
「あなた、名前は?」
「エルリアといいます」
「そう、エルリア……うん。熱はなさそうね。疲れでも溜まっているのかしら?」
艶やかな笑みを浮かべたセリヴァルは栗色の髪をふわりとたなびかせ、ポットに茶を用意し始めた。こんなささやかな所作でさえ美しい。カミラの仕草を更に洗練させたような、そんな美しさが彼女にはあった。
(カミラはするりと人の心に入り込むけど、この人は……なんだか近づくのさえ畏れ多い気がするわ……)
セリヴァルが茶を淹れてくれたので、エルリアも小さなテーブルへと移動する。ティーカップから昇る湯気からは、嗅ぎ慣れない薬草のような香りが漂った。
「疲労回復効果のあるハーブティーよ。本来なら対価をいただくのだけど、今回はぶつかってしまったお詫びにね」
「そんな……ぶつかってしまったのは私の方なのに……」
彼女は旅の魔導士だと言っていた。昔話に聞いた話では、魔導士は旅先で人々の困りごとを解決してやることで路銀や食料、寝床などを得ているのだという。医者にも治せないような病を治してくれることもあると。
彼女もそうやって旅をしているのだろうか。
一口茶を口にしてみると、独特の香りと柑橘のような酸味が舌に広がった。このような茶にはどんな菓子が合うのだろうかと考えてみるが、エルリアはすぐに首を振った。
ノーマの店ではこのような茶は置いていない。ティータイムを楽しむようなものではなく、薬湯に近いものなのかもしれない。
(味の癖は強いけど……確かに心が落ち着く気がするわ……)
ほぅっと息をつくと、セリヴァルがくすりと笑みを浮かべた。
「肉体的な疲労というよりは、精神的な疲労の方だったかしら?」
「あ、えっと……」
(相談……してみようかな)
ふと、そう思ってしまう。
身近な人にカミラの相談なんてできない。両親でさえカミラの虜なのだ。それに、見知らぬ他人の方が話しやすい気もする。旅の魔導士ならば、何か良い助言をくれたりしないだろうか。
セリヴァルはエルリアの言葉を待っているようにも見えた。
「私の幼馴染なんですけど……いつも私の恋人を奪ってしまうんです……」
「奪う?」
「はい……」
エルリアはぽつぽつとこれまでにあったことを話した。セリヴァルはただ黙って聞いていた。けれど、その瞳の奥で何かを静かに量っているようにも見えた。
そして全てを話し終えると、彼女は静かにティーカップに口をつけた。
「つまり、あなたは今まで自分が恋人のことで傷付いてきたのは、その幼馴染のせいだと思っているのね?」
「……分かっては、いるんです。彼らがカミラを選んだのは、私に引き止めるだけの魅力がなかったせいだ……って。私に魅力がなくて、カミラは魅力だらけの女性だから……」
「というか、あなたを裏切ったのはあなたの元恋人たちの方でしょう? あなたが傷付くのを分かった上で幼馴染の方を選んだのは、あなたの元恋人たち」
「だってそれは……仕方ないですよ……。あんな魅力的な子にアプローチされたら、きっと誰だって……」
エルリアが反論すると、セリヴァルは静かにティーカップを置いた。翠玉の双眸が真っ直ぐにエルリアを捉え、心の内まで射貫いてくる。
「そう……。だから、思ってしまうのね? 『あの子さえいなければ』って……」
その言葉に、心臓がドクンと大きく跳ねた。
セリヴァルは顔色一つ変えない。残酷な言葉を発しているはずなのに、その声色も穏やかなまま。
エルリアの指先が震えた。血の気が引いて、口の中がカラカラに乾いていく。喉が掠れて、うまく声が出せない。
「そん……な、ふうには……」
「あら。違うの?」
エルリアは頷けなかった。違わない。そんなふうに思ったことなど一度もないだなんて、嘘だと思った。
蓋をしてきた己の醜い感情を突き付けられたようで、眩暈がしそうだった。
「私……、ノーマだけは……失いたくないんです……」
「プロポーズしてくれたっていう婚約者ね?」
小さく頷く。先程見た光景が頭を離れない。
ノーマはエルリアの過去に寄り添ってくれたのに、カミラと楽しそうに笑い合っていた。彼にもまた、カミラの毒が回ってしまった。
そんな思いが思考を支配して、逃れられないでいる。
「なんとか……ならないのでしょうか?」
「あなたが相応の対価を払えるなら、願いを叶えてあげる」
縋るようなエルリアの目に、セリヴァルは静かに答えた。
「対価……?」
「えぇ。私に願うなら、その願いに見合うだけの対価が必要なの」
魔導士にできることは病を治したり、日常の困りごとを解決するだけではないのかとエルリアは目を見開いた。
かつては多く存在したという魔導士は、今や世界的にも珍しい存在となった。魔術師ですらなかなか出会う機会などない。
(これも何かの巡り合わせなのかしら……。こんな機会、きっと二度と訪れないわ……)
迷いながらも、エルリアは小さく喉を震わせた。
「ノーマが……カミラに心を奪われないようにすることはできますか……?」
「できるわ」
セリヴァルが即答する。それなら、とエルリアが言葉を続けようとすると、セリヴァルは「ただし」と付け加えた。
「人の気持ちを縛ったり操作したりすることの対価は重いわ。それこそ、あなたが自分の心の一部を差し出すくらいのものでないとね」
「心の一部……」
それがもし、彼を愛する心になってしまうのだとしたら、差し出すわけにはいかないと思った。
「昔は惚れ薬なんてものもあったけど、本物は対価が重かったのよ? それを理解せずに叶えてしまった魔導士や魔術師は、相応の返しを受けたの。一時的に欲情させたり、感情を揺らす程度のものなら、まだ対価も軽いんだけどねぇ……」
「それでは……意味がありません……」
淡々と説明するセリヴァルに、エルリアは思わず沈んだ声を返してしまう。
心を操作することの対価が重いなら、カミラの方の感情を操作することも難しいのだろう。
「カミラとノーマの距離が近付かないようにするのはどうですか……?」
「それは人と人との縁に関わるわね。あなたが大切な人との縁を切れるなら、叶えられるわよ?」
懸命に代替案を考えたつもりだったが、それもだめなようだ。大切な人というと、ノーマ以外では家族だろうか。大好きな家族との縁を切るなど、エルリアには考えられなかった。
「あなた、"いい人"って言われるでしょう?」
「へ?」
セリヴァルの不意の言葉に、エルリアは目を丸くした。カミラさえいなければ、などと考えてしまう醜い自分が、"いい人"であるはずがないと思った。
「今自分の手の中にあるものを、とても大切にしているわね。己の願いのために、割り切って切り捨てることもできない。ある意味では欲張りとも言えるけれど……。そういう人はね、私のような存在に願うには向かない人だわ」
「私には無理……ってことですか?」
「何かを捨ててでも己の望む道を選ぶ。その覚悟のある人だけが、己の欲しいものを手に入れるの」
セリヴァルの声は厳しくも、穏やかだった。
彼女の言う通りだ。ノーマだけは失いたくないと思うのに、そのために何かを差し出して捨てることもできない。結局はその程度の気持ちなのだろうかと自己嫌悪してしまう。
「対価が重くない願いにしたらいいじゃない」
「重くないって……」
人の心や縁を操作するのでなく、対価を支払える程度の願いということか。
要は、カミラがノーマに近付かないようにすればいいのだ。あわよくば、「もうこんなことすべきではない」と思ってくれれば尚良い。
「……じゃあ、もしカミラがノーマに近付いたら──ううん、ノーマに"アプローチするつもり"で近付いたら、何か悪いことが起こるとか……」
「しっぺ返しをしたいってわけね」
エルリアは小さく頷いた。ノーマに近付くことで少し痛い目に遭えば、カミラも「もうやめよう」と思ってくれるのではないか。
「悪いことというと、ちょっと抽象的ね。己の視力をなくしても、『どうってことない』って言ってのける人間だっているわけだし」
「えぇっと……それは……」
難しい、とエルリアは思った。自分にとっては"悪いこと"でも、他者にとってはどうということでもないということもあるのだと初めて考える。
「じゃあ……しばらく動けなくなるような、怪我を。物理的にノーマに近付けなければ……」
捻挫でもすれば、村からノーマの店があるこの街まで訪ねてくることも難しいだろう。物理的に距離を置くことができれば、ノーマを奪われる可能性も低くなるのではないか。エルリアはそう考えていた。
「じゃあ、"カミラがノーマにアプローチするつもりで近づいたら、しばらく動けなくなるような怪我を負う"で、いいわね?」
「は、はいっ」
そうは答えたものの、エルリアの心はまだ迷っていた。アプローチするつもりで近づいたら、という条件はつけたものの、このままではカミラは十中八九怪我を負うことになる。そんな酷いことを願ってもいいものだろうか。
だが、魔女は「覚悟のあるものだけが己の欲しいものを手に入れる」と言った。
(これっきり……、これっきりよ。もう二度と、こんなふうに願ったりしないから、ノーマだけは……)
「では、対価は──あなたが友人との間で得られるはずだった幸福を」
「え……?」
セリヴァルの言葉に、エルリアは目を丸くした。言われている意味がよく分からなかった。
「友人の不幸を願うようなものですもの。あなたはあなたの幸福を差し出さないとね」
「それが……"友人との間で得られるはずだった幸福"ですか?」
いまいちピンと来ない気がした。エルリアには友人が少ない。子供の頃の友人たちも、カミラの手によって距離を置かれてしまった。今では普通に接してくれる人は多くても、深い付き合いのある友人はほとんどいない。
だが、それなら逆に、対価として重いもののようには感じられなかった。
「分かり……ました」
頷いたエルリアに、翠玉の魔女はゆっくりと唇に弧を描いた。




