第3話─ 母の見た事実
「──…リア、エルリアったら!」
「へっ? なに? お母さん」
エルリアの名を呼ぶ声に顔を上げてみれば、母オルナが腰に手をあててため息をついている。
「なに? …じゃないわよ! いつまでテーブルの端っこ拭いてるの!」
「あ……」
視線を下げてみれば、食卓の端だけが不自然なほどピカピカに輝いている。いつまでもぼんやりと同じところで台布巾を往復させる娘に、オルナはついに声を上げたようだった。
「もーっ。あんまり磨き上げられても、食器が無駄に滑っちゃうじゃないの」
「ご、ごめんなさい……」
「何をぼんやりしていたのよ?」
考えていたのはもちろん、ノーマのことだった。あれから数日経つが、未だに彼の言葉を反芻しては胸の奥にじわりと滲む幸福を味わっている。
そしてそれと同時に、どうすればカミラを彼に近付けずにいられるだろうかと考えてしまっていた。
いや、それよりもまずはやるべきことがある。
「あ、あの……お母さん…」
「なぁに?」
「あの、実は……その……。今度、会ってもらいたい人がいて……。お父さんも一緒に……」
エルリアはノーマにプロポーズされたことを両親にもまだ話していなかった。それどころか、恋人がいることさえ打ち明けてはいなかったのだ。
「えっ……? ぇええええ!? あ、あんたまさかそれって……!」
「ちょっ……声大きいよ! 外まで聞こえちゃう!」
今まで言わなかった理由はもちろん、カミラだった。幼馴染であるカミラの母親とエルリアの両親は顔馴染みだ。恋人の存在を明かせば、親を通じてカミラにまで話が届くことは明白だった。
しかし今──二十五歳にもなった娘が両親に会ってもらいたい人がいるという。それだけで、母はそれがどういうことなのかを察して目を輝かせた。
「おめでとう、エルリア!」
「あ、ありがとう……」
オルナは飛び上がって喜び、エルリアを強く抱きしめた。あまりの喜びようにエルリアの頬が熱くなる。
母がここまで喜びを露わにするのは初めてのことではないか。三年前に妊娠を伝えたときは戸惑いの方が大きいように見えたというのに。
「一時はどうなることかと思ったけど……。本当に良かった…。……あのことは、お相手の方には伝えたの?」
身体を離したオルナがエルリアの顔を両手で包み、不安げに尋ねる。
"あのこと"とは当然、過去の流産とそれによる不妊のことだろう。
結婚してもエルリアは子を授かることができない。もしも相手の家が跡継ぎなどを重んじる家なのであれば、エルリアが歓迎されないことは目に見えていた。
「伝えたよ。……それでも、結婚してほしいって言ってくれた」
「そう……。いい人なんだねぇ。うん、良かった……本当に良かった…。お父さんが帰ったらすぐに報告しないとねぇ」
オルナが再びエルリアを強く抱きしめた。
三年前のことがあって以来、両親は結婚の話をエルリアにしてこなかったが、内心では娘の身の振りを案じていたのだろう。
涙を浮かべた母の目にエルリアの胸が痛んだ。
「……そういえばあんた、カミラちゃんのことはまだ恨んでいるのかい?」
「えっ……?」
涙を拭ったオルナがポットにお湯を注ぎ始めた。お茶でも飲みながらゆっくり話そうと思っているのだろう。
「恨んでるって……」
「だってあんた、あのときひどくカミラちゃんを責めていたじゃないか。覚えてないの?」
「何の話……?」
確かに、責めたい気持ちはあった。彼が遅くまで帰ってこなくなって、流産にまで至ったのは彼女のせいだと。子供も伴侶になるはずだった人も失ったのは、カミラのせいだと。
しかし、それを口にした記憶はエルリアにはなかった。
困惑するエルリアにオルナがため息をつく。
「やっぱり、覚えてないんだね……。あんた、病院で流産のことを知って、目の前にいたカミラちゃんをひどく責めたんだよ……」
「私が……?」
全く記憶にない。あのとき、医者の言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
そのあとの記憶は母に強く抱きしめられたことだったとエルリアは認識している。
カミラはあのとき、あの場にいただろうか。
エルリアがそのまま疑問を口にすると、オルナは眉間に皺を寄せた。エルリアに座るよう促し、お茶を淹れたカップを差し出す。
エルリアが椅子に腰を下ろすと、オルナはその向かいに腰を下ろした。
「それも覚えてないんだね……。むしろ、倒れたあんたを真っ先に助けてくれたのは、カミラちゃんだったんだよ?」
「カミラが……?」
思いもしなかった言葉に、息が詰まった。本人からそんな話を聞いたことは一度もない。病院に運んでくれたのは近所に住んでいた夫婦だったはずだが──。
体が回復してお礼の挨拶に訪ねたときも、何も言っていなかった。流産のことは知っている様子だったから、色々気を遣ってくれたのだろうか。
「そのときのあんたの恋人とカミラちゃんのそのあとの噂は私も知ってるよ。……けど、あの男はあんたが倒れる前から怪しい行動を取っていたんでしょう?」
母の声がわずかに低くなる。
エルリアは当時なぜ倒れたのかを誰にも話していなかった。先日ノーマに告白したときが初めてだ。
しかしオルナは、エルリアの当時の恋人のことを”あの男”と言った。その呼び方一つで、母が彼をどう思っているかが分かる。
オルナにとっては、流産して二度と子を授かれなくなった娘をあっさり棄てた男だ。憎らしく思ってしまうのは当然かもしれないが──。
「カミラちゃんを恨みたくなる気持ちは分かるんだけどねぇ……。あの子は昔からモテていたでしょう? あの男の方がしつこく言い寄っていただけかもしれないじゃない」
「そうかもしれないけど……」
オルナは知らない。カミラが悉くエルリアの恋人を奪い、関係を持っていたことを。
しかし母の言い分ももっともではあった。カミラが彼らに取る行動は全て、彼女が日頃から老若男女問わず取っている行動でもあったのだ。分かりやすくエルリアの恋人を誘惑するようなことをしたことは、一度もない。
ただ彼らがカミラに心を奪われ、カミラはそれを拒まなかっただけだ。
「それにねぇ……。私とお父さんが病室に着いたとき、眠るあんたを見るカミラちゃんの目は、本当に心配そうにしていたんだよ……。あの男なんかより、ずっとね」
「か、彼も赤ちゃんを亡くしてショックで……」
「弔うこともしなかった男が?」
カップを握るオルナの手にわずかに力が込められる。その声音には、娘を傷付けた男への怒りがまだ消えていなかった。
倒れたエルリアへ真っ先に駆け寄り、病院でも心配そうにずっと傍についていたカミラ。子を失ったというのに、心配する素振りもなく、それどころかすぐに別れを告げた元恋人の男。
母の目に映る事実はそういうことだったのだろう。その心証を思えば、カミラを庇いたくなるのも当然のことだ。
「カミラが私を……? じゃあ、なんであの子はいつも……」
エルリアは混乱していた。自分がカミラを誤解していただけなのか、それとも両親にまで彼女の毒が回っているのか──。
病院に運んでくれた夫婦はとうに引っ越してしまい、今はどこにいるか分からない。
当時の出来事を確認する術は、エルリアにはなかった。




