第2話─ エルリアの思い
「エルリア? どうかしたの?」
心ここにあらずでぼんやりしたエルリアに、ノーマが心配そうに問いかけた。
「うん……」
先程まで肌を重ねて熱い時間を過ごしていたというのに、エルリアの心はひどく冷えた気持ちでいっぱいだった。
ノーマは何度もエルリアの名を呼びながら果ててくれたはずだったのに、どうしても昼間のことが頭をよぎってしまう。
ノーマが新作のお茶とクッキーを試食させてくれて、二人で笑い合って、そんなささやかで幸せな時間。
──それが、カミラが現れてからは一変してしまった。
そもそも彼女は、今までそんなにお茶を好んで飲んでいただろうか。
本当は店に来る前からノーマのことを知っていて、お茶について調べていたのではないだろうか。
そんなふうにしか考えられない自分にも嫌気がさす。
「何かあるなら言ってくれないか? なんだかずっと元気がないように思えるけど……。ひょっとして、今日はするの嫌だった?」
「そ、そんなことない! ノーマが抱いてくれるのは嬉しいのよ?」
ノーマは沈んだ様子のエルリアを見て、自分のせいではないかと心配までしてくれている。「何でもない」なんて言葉で済ませれば、かえって気を遣わせてしまうだろう。
「今日は……カミラが来たから……」
意を決して口を開くと、ノーマは「あぁ」と小さく呟いた。
「幼馴染なんだろう? 恋人だって紹介してもらえなかったのは、少し寂しかったな……。僕を紹介するのは恥ずかしかった?」
「違うわ! あれは本当に誤解なの!」
やはりノーマは誤解している。エルリアが彼を堂々と恋人だと言わなかったばかりか、大したことない人だと貶めたかのように思われてしまっている。
エルリアの元気がないのも、"幼馴染に恥ずかしい恋人を知られてしまったから"とでも思っているのかもしれない。
「紹介したくなかったのは本当……。でも、ノーマが恥ずかしいなんてことは絶対にないわ! そうではなくて……」
「でもエルリア、僕たちのこと誰にも話してないよね? 二人で出かけるときも、いつもきみの住んでる街から離れてるところを選んでないかい?」
──気付かれてた。
反射的にそう思ってしまったのを、ノーマは見抜いたようだった。その目に痛みの色が宿る。
「やっぱり、僕との関係を誰にも知られたくなかった?」
「違うのよ、ノーマ。お願いだから聞いて……」
もう誤魔化せそうにない。このままではノーマの心をいっそう傷つけてしまう。
(あぁ……どうして私はカミラのように上手く振る舞えないのかしら……)
ノーマはカミラに好印象を持っていた。伝え方を間違えれば、エルリアの方が悪者であるかのように思われてしまうだろう。
エルリアは薄い掛け布団で胸元を覆いながら身体を起こした。
「……私、ノーマと知り合う前に三人の人と付き合っていたの」
慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「……でもね、三人ともカミラのことを好きになってしまって……それで別れたのよ」
「……カミラと関係を持った、ってこと?」
ノーマの問いかけにエルリアは小さく頷いた。彼にどう思われるのかが不安で、顔を見ることができない。
「一時の気の迷いかと思ったのよ。でも違った。みんな、『カミラと付き合いたいからきみとは別れる』って……」
「そうだったのか……。つらかったね。でも、過去のことなんだろう?」
ノーマは膝を抱え込むエルリアを後ろから優しく抱きしめた。
彼は自分が心変わりするかもしれないと不安がられていることには気付いていない。自分もそうなるかもしれないなどという想像は、微塵もしていないのだろう。
──三人目の男もそうだった。「あの子には気をつけてほしい」と伝えたのに、「あんないい子を悪く言うなんて」と返されて。そして結局、彼もカミラを選んだのだ。
「あの子がとても魅力的な子だってことは私が誰より知ってる。……でも、だからこそ、怖いの……」
「……もしかして、カミラがわざときみの恋人を奪ったと思っているのかい?」
エルリアは答えられなかった。そう思っていたからだ。
カミラはいつも、とても自然にエルリアの元恋人たちと距離を縮め、そして心を奪っていった。
二人目の恋人なんてエルリアと別れた二日後には、裏小屋で壁に手をつくカミラの腰を後ろから突き上げていた。
いくら別れた後とはいえ、エルリアに対する遠慮がカミラにあったなら、あんな光景を目にすることなどなかっただろう。
エルリアの沈黙をノーマは肯定と受け取った。
「まさか僕のことも、疑ってる?」
「疑ってるとかじゃ……」
本音を言えばそうだ。だからカミラにノーマを恋人だと紹介などしたくなかったし、ノーマにはカミラの存在を知らないままでいてほしかった。
ノーマが悪いのではない。彼が信用できない人間だとは思っていない。
(ただ、カミラがとても魅力的な女性で、私があまりに地味なだけ。あの子の隣では私の存在なんて、とても霞んでしまう……)
口をつぐむエルリアを抱きしめたまま、ノーマの唇が首筋へと落とされた。
「へっ? ……んっ、ノーマ……?」
素肌に振る唇はそのまま肩や背中へと移動していく。
「ど、どうしたの……?」
「……すまない、エルリア。僕はきみを不安にさせてしまっていたんだね」
彼の唇が耳元へと寄せられ、抱きしめる腕が強くなる。優しく柔らかな声が、エルリアの鼓動を温かく揺らした。
「正直ね、僕にはカミラがそんなに悪い人には見えなかった。確かにとても魅力的な人ではあるだろうね。けど、僕が好きなのはきみだよ。きみが笑ってくれるたび、僕はとても温かい気持ちになれるんだ」
「ノーマ……」
ノーマはとても正直な人だ。エルリアの話を聞いて尚、カミラに悪い印象を持てないことも、彼女が魅力的であることも否定しない。そしてそのうえで、エルリアの不安もまた、否定しないで受け止めてくれた。
「そうだ。きみに相談というか、お願いしたいことがあったんだけど……。この際だから言ってもいいかな?」
「なぁに? お店のことなら、私にできることならなんでも言って?」
気持ちを切り替えようと、エルリアは精一杯の笑顔を浮かべた。
「……僕と、結婚してほしい」
「…………へ?」
何を言われているのか分からなかった。エルリアはただ目をぱちくりと瞬かせ、ノーマの真っ赤な顔を見つめる。
彼は頬どころか耳まで茹蛸のように染め、困ったように頭を掻いている。
「あー……、本当は店がもっと軌道に乗ってからって考えていたんだけど……。違うな、そうじゃない。こんなロマンも何もない状況でプロポーズなんてどうかとは思うんだけど……」
恥ずかしそうにもごもごするノーマの様子と"プロポーズ"の単語に、エルリアの頬が一気に熱くなった。
「ほ、ほんとに……?」
「冗談でこんなこと言わないよ。……受けてくれるかい?」
もちろん、と即答しそうだった。──しかしエルリアはきゅっと唇を引き結ぶ。
言わなければならない。そう分かっていても、喉が震えて声にならない。
エルリアにはずっと、ノーマに隠していたことがあった。
別れを告げられることが怖くて言えなかったこと。けれど、彼が結婚を望んでくれるなら、言わないわけにいかない。
「エルリア?」
ノーマの表情が不安げに曇った。その目に胸が痛む。
「気持ちは……すごく嬉しい。ただ、私……」
意を決したエルリアは小さく口を開いた。ノーマの誠意に応えるためにも、伝えなければならない。
「……子供が、産めないの……」
ノーマが息を呑むのが分かった。
「ノーマ、子供……好きでしょう? 私、あなたの子を産んであげられない……」
「どうして……どこか悪いのかい?」
「違うわ。病気とかではないの……」
エルリアは静かに全てを話し始めた。
不妊の原因は流産だった。三人目の恋人と交際中に妊娠が分かり、結婚の約束をして一緒に暮らし始めた。
──しかし、程なくして彼は、夜遅くまで家に帰ってこなくなる。
「……彼もカミラに好意があることは分かっていたから……私、すごく不安で……。眠れなくなってしまって……」
そうしてある日の朝早く、庭の掃除をしている最中に倒れた。お腹の子はそのときに流れてしまい、医者から告げられたのだ。
──もう妊娠することはできない、と。
「それからすぐ、彼にも別れを告げられたわ……。『もう子供はいないんだから、結婚する必要もないだろ?』って……」
思えば彼は妊娠を報告したときも言葉では喜んではいたけど、その表情は嬉しそうではなかった。きっとそのときにはもう、カミラのことが好きだったのだろう。
二度と子を産めなくなったエルリアは、引き止めることさえできなかった。
彼とカミラの二人が街で連れ立って歩いているのを見たと伝え聞いたのは、翌月のこと。
「……ひどいな……」
眉根を寄せて呟くノーマに、エルリアは頭を振った。
「ひどいのは私も同じよ……。ノーマが将来子供を欲しがっていることは知っていたのに……今まで言えなくてごめんなさい…」
エルリアは懸命に涙を堪えた。同情を誘うように泣くのは良くない、悪いのは自分だと己を責めていた。
あのときひどく傷付いたのは確かだ。
──しかしそれが、ノーマを騙していい理由になどならなかったはずなのに。
「言えなくて当然だよ。子供が好きなのはきみだって同じじゃないか。思い出すのもつらかっただろうに、話してくれてありがとう……」
ノーマはエルリアの頭を抱き寄せ、涙の滲む目尻に口付けた。
「もう一度言うよ、エルリア。僕と、結婚してほしい」
「えっ……? で、でも……っ!」
「僕はまだ出会ってもいない子供のいない人生より、きみのいない人生の方が寂しいよ」
ノーマの言葉を聞いた瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
言葉にできない。
ただ息が詰まるようで、喉の奥がひりつく。
それでも、こみ上げる想いをどうにか押しとどめようとして、エルリアは唇を噛んだ。
けれど、涙はあっけないほど容易く頬を伝って落ちていく。
「ありが……とう、ノーマ……」
あとからあとから零れ落ちる涙をノーマが親指で拭い取る。その仕草の優しさに、また胸が締めつけられた。
「返事は?」
そんなの、決まっている。
「よ、よろしく……おねが…っ……します…っ……」
しゃくり上げながら答えるエルリアに、ノーマは「ははっ」と笑った。
その笑顔が何よりも愛おしい。
この人だけは失いたくない。
この人だけは奪われたくない。
(そのためなら私は──何だってできる……)
幸福で満たされたエルリアの心に、決意の炎が灯った。




