第1話─ カミラの存在
「すごくいい香り。あなたが自分でブレンドしたお茶なんでしょう?」
くゆる湯気の香りを鼻先で感じながらエルリアは目を細めた。
吐息でそっと冷ましながら一口啜ると、香りと同じく優しい味わいが舌の上に広がる。クセがなく、とても飲みやすい。
「そうだよ。気に入ってもらえて良かった」
店主のノーマが素直に喜びを滲ませて笑った。
街外れの喫茶店にエルリア以外の客はいない。わざわざ人の少ない時間を狙って訪れていたからだった。
さっきまでは老夫婦が後ろの席で談笑していたが、それも先ほど帰っていったところだ。
「クッキーはどう? きみが教えてくれたレシピを少しアレンジしてみたんだけど……」
「私のレシピを? 嬉しい!」
エルリアは皿に乗せられた手のひらより少し小さいクッキーを齧った。バターの香りが鼻孔へと抜け、噛むたびにほろりとほどけて柔らかな甘みが広がっていく。
「すっごく美味しいよ、ノーマ! 私が作るよりずっと美味しい!」
ホッとしたようなノーマに微笑みを返すと、彼は照れたようにはにかんだ笑みを浮かべた。
ふとカランと鐘の音が鳴り、ノーマはそちらへと振り向く。来客があったときに気付けるよう、入口の扉にぶら下げた鐘の音だ。
「いらっしゃいませ」
「ごめんください。お茶が美味しいお店があるって聞いて……あれ?」
聞き馴染みのある声に、エルリアはハッとして振り向いた。
「エルリアじゃない! こんなところで会うなんて、奇遇ね!」
肩口より少し長いふわふわした髪を揺らめかせた女性が、大きな瞳を輝かせてエルリアへと駆け寄ってくる。
「……カミラ。どうして…」
エルリアは反射的に頬が引き攣りそうになるのをなんとか堪えた。
なんというタイミングだろう。どうして、こんなところで──。
沈みそうになる表情を取り繕い、笑みを浮かべる。嫌そうな顔を見せれば、きっと彼女は全て察してしまうだろうから。
「近くに用事があってね。そしたらお茶が美味しいお店があるって聞いたから」
こちらの心情などお構いなしに、無邪気な顔で言うカミラ。けれどその視線は、チラチラとエルリアの隣へと向いていた。
「ところでエルリア。そちらの方は知り合い? 仲良さそうにしてたね?」
「あ……。えっと……」
エルリアは思わず言い淀んだ。ノーマを見上げると、不思議そうな視線が降ってくる。
「あぁ…。初めまして。この店の店主で、ノーマといいます。エルリアのお友達かい?」
「う、うん……」
「初めまして。カミラっていいます! エルリアとは幼馴染なの!」
カミラは当然のように卓を挟んでエルリアの正面へと腰を下ろした。
「そうなんだ? エルリアに幼馴染がいただなんて初めて聞いたな」
「言ってなかったっけ……?」
とぼけてみせながらも、エルリアは別のことを考えていた。
(言うわけないじゃない……。ノーマにはこの子と知り合ってほしくなかったんだもん……)
「エルリア、何飲んでるの? すっごくいい香りね!」
「えっ……」
鼻先を寄せてくるカミラに思わず身を引いてしまう。
相変わらずの距離感と仕草だ。つるつるの肌に大きな瞳と形の良い眉。艶めく髪を耳にかけ、長いまつ毛を伏せてカップを香る姿は、同じ女のエルリアでさえ鼓動が跳ねてしまう。
「僕が新しくブレンドしたお茶をエルリアに試してもらっていたんです。カミラさんも飲むかい?」
「カミラで結構よ、ノーマさん。じゃあ、私にも同じのをいただける?」
笑顔でうなずいたノーマはキッチンへと向かった。カミラは頬杖をついてその背中を目で追っている。
「……カミラ。あなた、知っててここに来たの?」
「え? 何が? ──っていうか、ノーマさんって素敵な人ね? 素朴だけど、優しそうで」
話を嫌な方向に逸らされた。いや、彼女はやはり知っててこの店を訪れたのではないだろうか。わざわざエルリアがいるタイミングで。
「……そ、そうかな?別に普通の人だよ……? ここも親から継いだ土地だって言ってたし……」
「ふうん? 詳しいんだね。エルリアがここに来てるのはノーマさんがお目当て?」
「……別に、そういうわけじゃ……」
猫のように大きな瞳が、探るようにエルリアを見つめる。どうせごまかしても無駄なのだろう──それはとうに分かっていた。
カミラは昔から他人の心情を読むことに長けていた。相手の言葉を受けたときの瞳の揺れ、唇の動き、頬の筋肉や指先の挙動、それら全てから思考の動きを読む。そしてそれに応じて、次の一手を決めていく。
それが、カミラという女性だった。
エルリアが分かりやすいというのはあるのかもしれない。嘘をつくことは苦手だが、それ以上に、あの真っ直ぐに射貫いてくる瞳の前で取り繕うことは不可能に近かった。
「そのクッキーも美味しそうね。一枚ちょうだい?」
「あっ……」
答える前に一枚のクッキーがしなやかな指先にさらわれ、薄く開いた唇の隙間へと消えていく。クッキーをつまんでいた指先を紙ナプキンで拭う所作はごく自然で美しく、彼女が品の良い女性であることを表していた。
誰の前でもこうなのだからタチが悪い。男の前でだけ取り繕うような底の浅い女性だったなら、どこかでボロが出ることもあっただろうに。
「……へぇ。この味って……」
慎重に咀嚼し、口元を手で覆いながら呟くカミラ。
彼女が音もなくそれを飲み込むのと同時に、ノーマがポットとティーカップを乗せたお盆を持ってキッチンから出てきた。
「お待たせしました。オリジナルブレンドティーです」
「ありがとう」
カミラがノーマの目を見つめてふわりと微笑む。それにノーマが柔らかく笑みを返すのを見て、エルリアの胸がチクリと痛んだ。
(分かってる。ノーマはただお客さんに対して笑顔を向けているだけ。特別な意味なんてない……)
心の中で何度も己に言い聞かせるけど、胸の奥を覆う靄は晴れない。
「ねぇ、ノーマさん」
「僕のこともノーマで結構ですよ」
「ありがとう。そんなにかしこまらないで、ノーマ」
軽やかな声に自然な笑みが添えられる。喫茶店の店主と客という垣根をカミラは易々と越えてしまう。
「それよりこのクッキー、もしかしてエルリアにレシピを教わったのかしら?」
カミラの問いにエルリアの心臓がびくりと跳ねた。
「あぁ、そうだよ。……すごいな。食べただけで分かるのかい? きみもエルリアのクッキーをよく食べていたの?」
「昔は一緒に作っていたのよ。最近はめっきりだけれど」
子供の頃の話だ。最近どころか、もう何年も一緒に作ったりなどしていない。なんだかんだと理由をつけて断っていた。それなのに、なぜ彼女は一緒に作ったクッキーの味など鮮明に覚えているのだろうか。
「へぇ。一緒に作っていたのか……。仲がいいんだね」
ノーマの目には、二人が並んでクッキーを焼く微笑ましい情景が浮かんでいるのだろう。こうやってエルリアとの親しさをさりげなく印象付けるのは、カミラの得意技だった。
(これじゃあまるで、私が友達と作っていたレシピを自分だけのものにしてノーマに教えたみたいじゃない……)
確かにカミラは「もっとこうしたほうがいい」などの案を出してくれていたが、もとはエルリアが祖母に教わったレシピだった。
「私たちが作ってたのより、バターやミルクが多めなのね。でもマクモンドの実の香りも引き立ってて美味しいわ」
「そのままでもとても美味しいんだけど、お店で出すならお客さんの印象に残るようにしたくてね」
カミラはノーマの作ったクッキーの味を正確に分析していた。これも才能なのだろうか。彼女の味覚は驚くほど繊細で、そのうえ材料に対する理解も深かった。
「ふぅん…。でも、このお茶と合わせるにはクッキーの方が勝ってしまうわね」
品よくカップを口に運びながら言うカミラに、ノーマは目を丸くした。
「とてもいい香りだし、クセもないから単体ではすごくいいのだけど……。もう少しだけディンバルの香りがあれば──あっ、ごめんなさい。生意気を言ってしまって……」
カミラはハッとしたように口をつぐみ、眉尻を下げる。
「いや、いいよ。僕も少しそう思っていたんだ。……それにしても驚いたな。ブレンドした茶葉の中にディンバルが入っていることまで分かったのか……」
「気を悪くしないでね? 私の悪い癖なの……」
カミラの手がさりげなくノーマの腕に触れる。
エルリアはもう話に入っていけなかった。まるで職人の品評会のようだ。
自分で店を営み、常日頃からお茶やお菓子の質を向上させようと努力しているノーマにとって、押し付けがましくなく──しかし的確に助言をくれたカミラはとても魅力的に見えていることだろう。
「クッキーとお茶はおいくら? 持ち帰り用に詰めることはできるかしら?」
「いや、まだ試作なんだ。エルリアに味見をしてもらってただけで、値段も決めてなくて。改良の余地もあると分かったし、まだ商品としては出せないかな」
「あら、そうなの? 余計なことを言ってしまったかしら? ごめんなさいね……」
「謝らないでくれ。きみの助言はとても助かったよ」
その言葉にエルリアは気持ちがわずかに沈む。ノーマはまだ試作のお茶とクッキーを出したとき、エルリアの反応で改良点を見つけたかったのかもしれない。しかしその役に立ったのは、エルリアではなくカミラだった。
「焼いたクッキーはまだあるけど、持って帰るかい?」
「いいえ、結構よ。良かったらエルリアにあげてくれない? とっても美味しそうだったから、さっき一枚奪ってしまったの。返してあげなくっちゃ」
両手を合わせて悪戯っ子のような笑みを浮かべるカミラ。その仕草ひとつで場の空気はまた柔らかくなる。
話に入れないエルリアに水を向けてくれる気遣いさえ、彼女にとっては計算の一部でしかない。
──そして、大抵の男はこう思うのだ。
なんて気配りのできる優しい女性なのだろう、と。
取られたのはたかだかクッキー一枚。しかし彼女はその埋め合わせを欠かさない。目くじらを立てればこちらが大人げないと思われるだけだ。
そうやっていつも、全てを己の手のひらへと乗せてしまうのだ。
「それじゃあ、私はそろそろ……」
カミラは鞄から財布を取り出しながら立ち上がる。もう帰るのかと、エルリアはついホッと息をつきそうになった。
「もう行くのかい? ゆっくりしていったらいいのに」
ノーマは明らかに名残惜しそうな表情をした。もっとお茶やお菓子の専門的な話がしたいのかもしれない。
「そうしたいところなんだけど……。今日は別の用事があるついでだったの。今度はきちんと、あなたのお茶とお菓子を目的に来させていただくわ」
カミラに向けられたふわりとした笑みにノーマの頬がわずかに赤らむ。
「それに、お二人の邪魔をするのも悪いしね」
「えっ……?」
目を丸くするノーマに、カミラはくすくすと笑う。その視線が、エルリアとノーマを交互に撫でるように行き来した。エルリアの心臓がゾクリとざわめく。
「二人は付き合ってるんでしょう?」
「えっ? いや~……ははは。実はそうなんだ。エルリアに聞いたのかい?」
直球で投げられた問いに、ノーマは照れながらもためらうことなく答えた。彼は頬を赤らめて頭を掻くその仕草にが、かえってエルリアの動揺を誘った。
「いいえ、エルリアはなんにも話してくれないのよ。この子ったら照れ屋でね。私がノーマのことを『素敵な人ね』って言ったのに、『そんなことない。大したことない普通の人だ』なんて言うのよ」
「そ、そんなふうには言ってないでしょう!? 違うのよ、ノーマ!」
確かに普通の人だとは言った。言ったが、これでは随分感じが悪いではないか。
エルリアは慌ててノーマに視線を向けた。誤解されたのではないかと不安が胸を締め付ける。
「ははっ。いいんだよ。僕は地味な男だからね。エルリアにもつまらない思いをさせていないか、いつも心配になってしまうんだ」
ノーマは気にしていないような素振りをしてみせた。けれど、その目はわずかに痛んでいるように見える。
これはまずい。エルリアは立ち上がり、ノーマの手を取ろうとした。
「違うのよ! 私はただ……」
「エルリア」
弁解しようとするエルリアの声を、カミラの落ち着いた声が遮った。
「照れちゃうのは分かるけど、恋人を下げるようなことを言ってはいけないわ。このお店もとても素敵だし、ノーマもとても素敵な人じゃない。もっと自慢してくれないと。ねっ?」
その優しく窘めるような言い方にエルリアは思わず息を呑んだ。
ノーマのことを自慢できなかったのは事実だ。少し下げるような言い方をしてしまったことも事実だ。だがそれは彼が”自慢できるような男ではない”ということではないのに──。
どう返していいのかも分からず、エルリアは暗く俯いた。その様子にノーマが気付くより早く、カミラは財布から銅貨を何枚か取り出して卓の上に音を立てて並べた。
「じゃあ、お代置いておくわね。とりあえずこれくらいでいいかしら?」
銅貨の枚数は、既存メニューのお茶より少し多いくらい。
それを見たノーマがぶんぶんと手を左右に振った。
「えっ? そんな、お代なんていらないよ! きみは試作のお茶しか飲んでいないのだし……」
「あら、だめよ。エルリアは恋人だからそれでいいでしょうけど、私は客として来てるんですもの。試作とはいえ、きちんとしたお茶をいただいたのだから、きちんとお支払いするわ」
他者の厚意に胡坐をかかず、礼節を重んじる。そんなところもまた、ノーマのような真面目な男には好意的に映るだろう。
──わざと”自分は特別な関係ではない”と分からせるように距離を置くことで、相手の方から距離を縮めたくなるよう仕向けている。
(あぁ……。逐一捻くれた目で見てしまうわ。私って本当に嫌な女ね……)
カミラの行動が本当に全てそんな計算ずくのものなのかは分からない。彼女が自分でそうだと言ったこともない。それでも、彼女の言動はいつだって多くの人の心を惑わせてきた。
ふと見れば、ノーマはまだカミラに銅貨を返そうとしていた。
「でもカミラ、それでは……」
「どうしても気になるなら、今度来たときにでもサービスしてくださる? 改良したお茶やクッキーをぜひいただきたいわ」
「まぁ……そういうことなら。今度はきみに合格点をもらえるようにがんばるよ」
「ふふっ。今のも不合格だなんて言ってないわ。それじゃあ、約束ね?」
ノーマの腕にぽんっと手を置き、カミラはわずかに顔を寄せて微笑んだ。その一瞬、彼女の香りがふわりと空気を撫でる。そして次の瞬間には、ふわりと髪を揺らして扉へと駆けていった。
「じゃあ、エルリア、ノーマ! またね!」
扉の鐘が鳴り、カミラの後姿が外へと消えていく。甘い毒のような余韻だけを店に残して──。




