紫陽花を這う
Ajuさんとのコラボ作品です。
以下の共通書き出しから、各々の物語を広げていく形式です!
共通書き出し
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それは、運命のようにそこにあった。
近所の古本屋巡りは僕の日課のようになっている。
チェーンの古本屋の査定はいい加減なもので、あまり出回ってないようなレア度の高い本も、最低販売価格で売られていたりするから面白い。そんな世捨て人みたいな本を見つけ出しては悦に入るのが、ネクラな僕の細やかな楽しみだったりする。
そんな僕だから、棚の隅っこに置かれていた『あのマンガ』に魅入られたのは、きっと必然だった。
それは、運命のようにそこにあった。
近所の古本屋巡りは僕の日課のようになっている。
チェーンの古本屋の査定はいい加減なもので、あまり出回ってないようなレア度の高い本も、最低販売価格で売られていたりするから面白い。そんな世捨て人みたいな本を見つけ出しては悦に入るのが、ネクラな僕の細やかな楽しみだったりする。
そんな僕だから、棚の隅っこに置かれていた『あのマンガ』に魅入られたのは、きっと必然だった。
* * *
あのマンガを知るきっかけとなった『ユカリ先輩』との出会いは、なんとなく入った大学の卓球サークルの飲み会だった。
「若人よ、君はなんてマンガが一番好きかね?」
それは、ユカリ先輩が初対面の相手に問う決まり文句らしい。
高い身長、少しウェーブがかった黒髪。そして胸や腰回りに強調されている、悩ましいほどの女性性。
一見すると清純派グラビアモデルのような出立ちではあるが、その顔にはモデルには似つかわしくない、不敵な笑みが張り付いている。
ユカリ先輩は『好きなマンガを知れば、人となりを知る事ができる』という謎の自論を持っているようだった。
たしかに、言わんとすることはわかる。でも彼女のマンガ知識は一般よりかなりマニアックな分野に偏っていて、実際のところちゃんと判断できていたかは怪しい。
脊髄反射的に流行りの王道少年漫画を上げたサークルの同期は、つまんねぇ男、と一蹴されていた。
僕はといえば、先日古本屋で仕入れた一昔前のSF漫画を挙げた。自分の記憶の中にある直近の『面白かったマンガ』が、それだったからだ。
そもそも面白さとは何なのか、僕にはよくわからない。気分が高揚するマンガも、落ち込むマンガも、癒されるマンガも、イライラするマンガも、同じくらいの強度で、僕の心を揺さぶってくる。
「面白さというのは、心を打ち鳴らす音の大きさ、なのでしょうか……? 音色ではなく大きさで比較するならば、同じくらいのものはたくさんあって――」
女性との会話に慣れない僕は、一生懸命に言葉を選んで、震えた声でそう呟く。
同期は、怪訝な顔で首を傾げた。
でも、ユカリ先輩は違った。
大きく頷いて、僕の背中をドンドンと叩き「確かにそうだよな、面白さってのは千差万別だ! すまない若人!」と笑った。
ユカリ先輩は僕が知っている女性とは違う、不思議な価値観を持つ女性だった。
サークルの女性陣が、リーダー格の先輩のジョークに黄色い笑い声を上げる中、ユカリ先輩はつまらなそうにそれを眺め、僕に耳打ちする。
「あいつら、多分バカだよな」
「いや、あれが普通の女子大学生かと……」
「ほほう。私が普通の女子大生ではないと?」
そもそも、僕のようなネクラで陰気な男に、好きこのんで話しかけてくる女性というだけで、変わり者である事は間違いない。
「いや、そんなことは……」
僕は、イタズラっぽく笑うユカリ先輩の表情が、嫌いではなかった。
いや、違う。
ネクラな青年が臆面もなく言わせて貰えば、僕はそんなユカリ先輩に強く惹かれていた。
* * *
例えば1匹のナメクジが、梅雨に濡れた紫陽花に出会ったとしよう。その花弁はナメクジにとってあまりにも魅力的で、本能的な欲望を刺激したとしよう。
しかしナメクジは、その花を口にする事に躊躇してしまう。彼が這い回ることで、紫陽花の花弁は薄汚い粘液で汚れ、花は見るも無惨な骸へと変わるからだ。
そう、僕はナメクジだ。
子供の頃から。
あの頃も、そして今でも――
* * *
定期的に開かれるサークル飲み会。
僕は不安と期待が入り混じった感覚のまま、惰性的にその飲み会へと足を運んでいた。
いつもニヤニヤとおかしな笑みを浮かべるユカリ先輩は、場が盛り上がってくると、ひっそりと僕の隣へ座り直す。そして人懐っこい猫の眼差しで、僕が最近読んだマンガの感想をねだる。
「君は、自分の『好き』に対して、本当に素直で真摯だ。そういうところは、尊敬に値するよ」
「はぁ……そういうもんなんですかね……」
ユカリ先輩の声が、粘ついた僕の心を優しく撫でる。それはナメクジだった僕が初めて感じる心地良さだった。
右手のビールジョッキは、いつも知らないうちに空になっている。
何杯も、何杯も、勝手に消えていく。
「――ユカリ先輩は、その、彼氏とかいないんすか?」
酒の勢いが僕の感情を加速させて、理性を打ち砕き、下世話で気味悪い質問が口から溢れてしまう。
「あー? こんな女にいると思うか?」
ユカリ先輩は少し恥ずかしそうに、ビールのジョッキを傾けて顔を隠す。
「だって、先輩……美人ですから」
「どこがだよ」
そっぽを向いて、テーブルの隅で忘れ去られていた枝豆を摘む。爪を綺麗に切り揃えた指先が、枝豆の鞘を蠱惑的に押し潰し、中から現れた艶やかな豆を唇の隙間に押し込む。
その一連の動きを、僕の目は追う。
「恋人はいないが、好きな男はいるな……」
指先に残る枝豆の鞘に向けられていた視線が、こちらを向く。
ユカリ先輩と目が合う。
僕は、次に発せられるかも知れない言葉に、身の程もわきまえず期待してしまった。
「それって、サークルのメンバーですか?」
「うんにゃ、違う。えっとな――」
そして僕は、あのマンガの存在を知る。
『ハイドレンジアの騎士』
それはかなりマイナーな女性向け雑誌に掲載されている、中世を舞台とした恋愛マンガだった。
ユカリ先輩は照れ顔で笑い、そのマンガの1人の男性キャラについて、熱の籠った弁を振るう。
「ラッグスってキャラクターなんだが……その男がな、ものすごくいい男なんだよ」
ユカリ先輩の顔が綻ぶ
それは今まで見てきた、不敵で尊大な笑みとは異なる、やけに慈愛に満ちて奥深い、彼女の深淵から湧き出るような笑みだった。
「ラッグスは一途なのだよ。ヒロインである主人公の争奪戦に負ける、いわゆる『かませ犬』キャラなんだが、本当に爽やかで気持ちのいい男なんだ。真っ直ぐで、素直。男――いや人間ってのは、ああであって然るべきだと、私は思うんだ」
俺はその男の雄々しい姿を想像した。
そいつは背が高くて爽やかな短髪のイケメンで、背が低くボサボサ頭で陰気な僕とは、きっと正反対に違いなかった。
胸が痛い。
「そいつの事、好きなんですか?」
「ははは、次元の壁は理解しているよ。しかし確かに……私は彼のような男を、探し続けているのかもしれないな」
一時の甘美な妄想――その揺り戻しが僕を襲った。
自分の中で形成されつつあった『ユカリ先輩』という理想が、音を立てて崩れていく。
愚かにも僕は、ユカリ先輩との未来を密かに期待していたらしい。彼女は、ネクラで内向的な僕を理解してくれる唯一無二の女性なのだと、勝手に信じ込もうとしていたらしい。
でも、やっぱりそれは思い上がりなのだろう。
彼女が求めるのは、僕のようなドロドロの生物とは異なる『爽やかで気持ちのいい男』だった。
『ハイドレンジアの騎士』――
その瞬間にあのマンガは、僕にとって抗う事ができない、そして受け入れなければならない現実の象徴となった。
* * *
それからも幾度となく、僕とユカリ先輩は飲みの席で顔を合わせた。
その度に、表層の粘液に滴り落ちる濁った水滴は、少しずつ、少しずつ、僕の色を汚していった。
彼女に向けた僕の笑顔に、少しずつ嘘が混じるようになる。それは勝手に燃え広がった感情が、不完全燃焼する事で発生する、一種の煤みたいなものだ。
そして敏感なユカリ先輩は、その煤に気付いていた。
「おい」
飲み会がお開きとなり、それぞれが散り散りに場を離れる中、僕は背後からユカリ先輩に呼び止められた。
良くない酒に飲まれ酩酊状態の僕は、のっそりと振り返る。
飲み屋街の明かりに照らされたユカリ先輩は、僕の粘液に塗れた劣情を湧き起こさせた。
しかしそれは、輪郭のない僕の隙間からドロドロと流れ落ち、吐瀉物が染み込んだ飲み屋街のアスファルトへと広がった。
「今から私のうちに来い。お前を教育し直してやる」
「はあ? なんすか、それ……」
短く言葉を紡ぐのがやっとだった。そんな僕の手を引いて、ユカリ先輩は歩き出す。
いくつかの角を曲がり、コンビニの前を通過した。電柱の影で抱き合う男女を目の当たりにして、僕は自分の行先に期待と不安を募らせる。
僕の手を握るユカリ先輩の手は、じんわりと汗ばんでいる。
引っ張り込まれたユカリ先輩の部屋は、思っていたよりも普通だった。
壁一面に漫画やアニメのポスターが貼ってあるんじゃないかと思っていたけど、そんな事はなく、ただ部屋の隅に置かれた本棚だけが、異様な存在感を纏っていた。
「君が思ってるより、普通の部屋だろ?」
僕の心の中を見透かしたように、ユカリ先輩が言う。
「あ、はぁ」
「賃貸の壁を、画鋲で穴だらけにするわけにはいかないからな」
「そうですね、普通ですね」
「ああ、私は結局のところ普通の人間なんだろうな。その辺の女共と同じように、くそ厄介な感情に身を焦がしたり、どーでもいいことを怖がったりする――」
ユカリ先輩はベッドに腰掛け、俯いた目で僕を見た。その目は怯えているようにも見えた。
床にへたり込んでいる僕の前に、長く肉付きのいい2本の足が投げ出されている。酔いで焦点が定まらない僕の目は、その付け根に広がるであろう茂みに思いを巡らしてしまう。
本当に僕は、しょうもないナメクジ野郎だ。
ユカリ先輩は本棚から一冊のマンガを取り出し、僕の前に置いた。
「お前は、これを読むべきだ」
それは『ハイドレンジアの騎士』だった。
中世の衣装に身を包んだ2人の男女が並ぶ、美麗な表紙絵を眺めながら、僕はただ俯いていた。
眩暈がする。
様々な汚ならしい感情が唸り声をあげ、僕の頭の中で暴れている。
「読みたくないです」
僕はそう呟いていた。
「なぜ……?」
ユカリ先輩の顔の中心から放たれた微弱な波が、僕の頭のてっぺんを撫でる。
「知りたくないからです」
「なにを……?」
『夢の終わりを――』
心の中でそう答えた。
もしかしたら存在したかもしれない、ユカリ先輩との未来。僕はその微粒子レベルの可能性にすがって、生きていこうと考えていた。
正解の入った箱の蓋を固く閉ざすことで、その不確定な未来は、美しい可能性として保管出来ると思いたかった。
なんの事はない。
あの頃の僕は――いやあの頃の僕も、今と同じように、意気地がなかっただけだ。
自分の気持ちに素直に生きることが、怖かっただけだ。
「ああー……」
ユカリ先輩はむしゃくしゃと頭を掻きむしる。長い髪が花びらのように広がる。
「そうじゃない。そうじゃないんだよ……」
何が、そうじゃないんだよ。
アルコールに絡め取られ、ごちゃ混ぜになった感情が、僕の中心へと流れ込む。
胃袋が急に暴れ出した。
今日はさすがに飲みすぎたのかもしれないし、どうでもいい感情に振り回されすぎたのかもしれない。おかしくなった内臓が、全てを清算したがっている。
僕は口をおさえて、えづいた。
「おいおい、まてまてまてまて――」
トイレに連れ込まれた僕は、芳香剤の香りがする白い便器の水面へと、自分の中に溜まった臭くて汚らしいものを散らした。
背中をさするユカリ先輩の手は、こんな時ですら、温かかった。
――少しだけ酔いが覚めた玄関。芳香剤と、履き潰したスニーカーのゴムの匂いが漂う。
のっそりとドアを開ける僕の背に向けて、ユカリ先輩が何かを呟く。
「私の尊敬するラッグスって男は、いつだって、自分の気持ちに素直なんだ――」
そう言った気がした。
でも僕は聞こえないふりをして、足早にその場を去った。
日陰の湿ったアスファルトを這い、気がつけば僕は、紫の花の迷宮に迷い込んでいた。
柔らかな花弁や、甘い匂いに、僕は惑わされてしまった。でもそこは本来、僕が這い回っていい存在ではない。
それから、サークルには顔を出していない。
* * *
数年の時を経て、僕は古本屋の隅に並べられたあのマンガ――『ハイドレンジアの騎士』と向き合っている。
取り巻く全ての環境が変わってしまった今になって、僕はあの頃の思い出と、このマンガに注ぎ込んだ感情の色に、どうしようもなく魅入られていた。
本棚に手を伸ばし、ページを捲る。
ユカリ先輩の顔を思い出しながらも、忌み嫌っていたその世界へと、引き込まれていく。
そして知った。
ユカリ先輩が尊敬した『ラッグス』という男は、爽やかな男でも、ツラがいい男でもなかった。
ネクラで――
内気で――
僕のように、どうしようもないナメクジのような男だった。
ただ、一つ違いがあるとすれば――
彼は、自分のヒロインを想う気持ちに素直だった。
あの時、僕にこのマンガを読むように促したユカリ先輩の気持ちは、今となっては知る術もない。もしかしたらこれもまた、僕の記憶が生み出した都合のいい可能性の一片なのかもしれない。
たぶん、あの頃の僕たちは恐れていた。
素直な気持を示すことが、不安で、怖いから、掲げた指の隙間から太陽を見上げるみたいにして、自分の本心の覗き見る事しか出来なかった。そうしなければ、僕は干からびて死んでしまうから。
『あのマンガ』を手に、僕はレジへと向かう。
懐かしきユカリ先輩との日々は、長い月日を経て、これからの未来を変えてくれるだろうか。
古本屋を出た僕の顔を、梅雨の合間の眩しい日が照らす。
僕は掲げようとしていた片手を下ろし、正面から、その無遠慮な太陽を仰ぎ見た。
Ajuさんとの差別化を図ろう!
という事で、幕田らしい? ネガティブ青年の純文学風味の作品を……と書き始めてみましたが、マジで大変でした。そもそも、いろいろと切らしてる中で、ないものを絞り出して書いたので。
はい、言い訳です! すみませんm(_ _)m
ちょっと捻くれたり、歪んだりしてしまった者同士の恋は、ほんの少し『自分の気持ちに素直になる』勇気があれば、違った結末を迎えていたのかもしれません。
書き出しに出てきた『あのマンガ』を、当時のユカリ先輩の思いを伝えるキーアイテムとして使ってみました。
恋は成就しませんでしたが、少しだけ自分の気持ちに素直になれる……そんなちょっとした希望を持たせた結末としています(*´Д`*)
お読みいただきありがとうございました!