第二十一話 龍伐の湖
キノルの町が半分収まるかどうかの小さな湖は山を下って隣山との間にあった。
湖面こそ小さい方だが、この湖は非常に深い。透明感があるのに、湖面を覗き込んでも底に光が届かず見えないほどだ。
「ボグス族の伝承では、ある里の名高き戦士が雪の如く白き龍と争い共に斃れた戦場だという。山の神は気高き戦いの地が雪に埋もれ見えなくなるのを嫌い、凍らぬ水を湛えて封じた。雪の悪主はこの戦いに魅せられ、力ある戦士との戦いを望むようになったという」
いやいや水が深すぎて見えないけど、とさび猫イルルがセラに目で訴える。代わりに突っ込んでほしいようだが、山岳民族の伝統を軽んじるつもりがセラにはない。
セラは手早く花燐の粉末などを準備して魔力を調べる。
「キノルや集落よりも魔力量が少ないですね」
「水源地なのに?」
作業を見守っていたアウリオが意外そうに口を挟む。
ダ・クマがしばし考えた後、推測した。
「ここから登った水蒸気が雪となって降り注ぐまでの間に魔力を増加させる何かが起きたのか?」
「あるいは、冬に入ってこの湖の生態系の魔力消費量が増えたのかもしれません」
昨年も冬に入ってから影響が出た。雪の悪主の出現頻度も冬の半ばから終わりにかけて減少した。
ならば今年も、冬になった今からが魔力減少の本番なのかもしれない。
セラはダ・クマに質問する。
「一昨年、去年、今年でこの湖に何か変化は起きましたか?」
「普段はキノルにいるんだ。分からん。集落の者に聞くしかない」
「つまり、ダ・クマさんが気付けるような大きな変化はない」
狭いが深い湖だけあって水量は多い。水量が多ければ含有する魔力の総量も多い。
些細な変化でこの湖全体の魔力濃度が下がるのか、セラは疑問に思う。
人間では気付けないヒントがあるかもしれないと、胸元のさび猫イルルを見る。
さび猫イルルは目を閉じて、頭だけをセラの胸元から出して耳を澄ませていた。ぴくぴくと耳が小刻みに動いて向きを変える。
今のイルルは猫並みの聴覚を持っている。人間には聞き取れない音も拾えるはずだ。
イルルの邪魔にならないように息遣いにも気を使いながら、セラは湖を見回す。
アウリオがセラたち専門家に任せるつもりで周囲を警戒していたが、ふと気付いたようにダ・クマを振り返った。
「おい、ここまで一回も魔物に出くわしてないんだが、少なすぎないか?」
「客人が来るんだから間引きしている。だが、言われてみれば少ない気もするな」
アウリオの疑問に半ば同調し、ダ・クマも不審そうに森を見る。
元の山の状況を知らないセラには分からない話だ。
さび猫イルルが目を開き、セラを見上げる。
「にゃー」
「何か聞こえましたか?」
ささやきかけると、さび猫イルルははっきりと頷いて前足を湖面に向けた。湖の中から何か不審な音がするらしい。
セラの目には何の変哲もない湖だが、深い湖底で何かが起きているのか。
思い起こされるのは港町ヤニクで起きたパラジアの騒動だ。
セラはダ・クマを振り返る。
「この湖に魔物は生息していますか?」
「水生の魔物はいない。魚は生息しているが、それだけだ」
「魔物が生息していれば魔力濃度の変化も起きるかと思いましたが……」
昨年からどこかにいた魔物がこの湖で大量繁殖している可能性もある。湖底であればボグス族たちに見られることもないだろう。
また水底に潜ることになるのかと、セラはため息をつく。
ひとまずはサンプルを持ち帰ってできる限りの精密な調査をしよう。
セラが湖の水を掬いあげた時、アウリオがダ・クマに質問した。
「この森にトレントはいるか?」
「生息している。見つけ次第すぐ狩っているが、山脈の向こうからやってくるらしい」
トレントは植物のような魔物だ。一メートルから四メートルほどの樹木に似た外見だが、根を使って移動し葉からは毒をまき散らす。殺した獲物を空洞になっている幹に取り込んで消化するため死体も残らない。
なによりも、トレントは風笛草と同じく生育に魔力が必要だ。
セラと目があったアウリオは湖を指さした。
「セラさん、トレントの変異個体か何かが湖の底にいるんじゃないか? ヤニクでも、白化したパラジアは海底深くに身を潜めていたしさ」
ヤニクから遠く離れたこの場所で白化した魔物による被害が起きているとは少し考えにくい。地理的に離れているのもあるが、海と湖では大きく異なる。
だが、否定するより先に確かめるべきだ。
セラは鞄に手を伸ばしかけて、躊躇した。
「セラさん?」
「はぁ……」
突然大きなため息をついたセラにアウリオとダ・クマは戸惑い、互いに顔を見合わせる。
セラは葛藤していた。
鞄の中にはタレクト家の検査薬と呼ばれる、魔物の毒をほぼすべて網羅的に検出する薬がある。
王国貴族であるタレクト子爵家のみが製法を知る、セラでさえ再現不可能な高級品だ。じわじわと染みこむような苦味と舌が縮むような酸味が癖になる、セラが自分へのご褒美として購入したものだ。
左遷から国立錬金術師ギルド本部に帰ったその日に、お祝いとして飲んでやるんだと決意しておババの店で買ったものだ。
正直、ここで使いたくはなかった。
「仕方がない、仕方がないんです……」
自分に言い聞かせて、セラは鞄からタレクト家の検査薬を取り出す。香木の一種フーガヤーナを思わせる独特の香りを発するその検査薬を、セラは湖から汲んだ水に混ぜた。
仮にトレントでなくても、毒性のある魔物が湖に生息していればほぼ確実に反応する。
「薄い緑色に呈色。植物の毒を取り込んで魔力で強化した魔物の毒がごく微量ですが検出できました」
トレントの変異種かどうかははっきりしないが、ダ・クマ曰く魔物が生息していないはずのこの湖で検出されたことに意味がある。
セラは立ち上がり、ダ・クマに向き合う。
「集落へ戻ってこの結果を伝えましょう。湖の詳細な調査を行い、可能なら魔物を討伐します。アウリオさん、実体魔力のポーションを飲んでもらうことになりますが、味わってくださいね?」
「……はい」
ダ・クマが暗い顔で肩を落とすアウリオに怪訝な顔をしながら集落への最短距離へ足先を向ける。
「討伐には我々ボグスの戦士も誇りをかけて参加する。余所者にすべてを任せることなどできん。その実体魔力のポーションとやらを我々の分も用意してほしい」
「ダ・クマやめておけ。ヤニクは全滅したんだぞ!?」
「ポーションだろう?」
その日の夜、集落に帰ったダ・クマはセラに実体魔力のポーションを渡され人生で初めて己の誇りを疑った。




