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5 偽装婚約一日目

 翌日。


 侍女に案内されて朝食の場に向かうと、侯爵夫人が笑顔で出迎えてくれる。


「おはよう、マリーナ。昨日はよく眠れた?」


 いきなりの呼び捨てである。いや、昨日確かに「もう娘同然なのですから、これからはマリーナと呼んでもいいわよね?」とか言われたけども。でもほんとに呼ぶなんて、思わないじゃないの。侯爵夫人、距離感バグってない?


 とはいえ、やんごとなき宰相夫人に抗うことなどできるわけもない。私は曖昧に微笑みながら、「とてもよく眠れました」なんて優等生のように答える。


 その言葉を聞いて、侯爵も無表情ながら満足げに頷いている。


 一方のアルヴァー様は、わかりやすく不機嫌そうな顔をしてこちらに目を向けることもない。


「アルヴァー」


 侯爵が徐に口を開く。


「なんですか?」

「婚約者にきちんと挨拶せぬか」

「は!?」


 侯爵は相変わらずの無表情だけど、纏う雰囲気に刺々しさは微塵もない。というか、なんだか面白がっている感すらある。


 どういうわけか、侯爵夫妻はこの偽装婚約にノリノリらしい。


「マリーナ」


 そしてなぜか、侯爵も呼び捨てである。指摘できるはずもなく、ひとまずスルーする。


「なんでしょうか?」

「昨日のうちに、ノルマン男爵家には婚約の申し入れをしておいた。これから男爵本人が乗り込んでくるらしい」

「先触れがあったのですか?」

「そうだ。だがマリーナは、顔を出さなくていい。私に任せておきなさい」

「いいのでしょうか?」

「君はアルヴァーと一緒に学園に行って、ルーシェルたちに元気な顔を見せてやってくれ。心配しているだろうからな」

「あ、でも――」

「制服や教材はすべて用意してあるから、それを使いなさい」

「え?」


 驚いて夫人に目を向けると、無邪気にころころと笑っている。


 まさか、そんなことまで気遣ってもらえるなんて。昨日はあのまま逃げるつもりだったから、学園で使うものは全部男爵邸に置いてきてしまったのだ。


 ひと晩ですべて用意できてしまう侯爵家のポテンシャルが、半端ない。




 その後、侯爵に言われるがまま、アルヴァー様と一緒の馬車に乗り込んで学園へと向かう。


「あ、あの……」


 想像以上にピリピリとした空気の中、私はおずおずと声をかける。


「……いろいろとご面倒をおかけすることになって、申し訳ございません」


 そう言って、一礼する。


 アルヴァー様はそんな私をちらりとも見ることなく、「ふん」と返すだけ。



 まあ、ね。仕方ないわよね。だって偽装とはいえ、大嫌いな相手と「婚約」なんて、ねえ。



 その日はお互いに接触することなく、普段通りに過ごすことにした。魔法薬学の研究室に行くとルーシェル先生たちはホッとした表情を見せて、心配しなくていいと何度も言ってくれた。うれしかった。




 侯爵邸に帰ると、早速侯爵から呼び出しを受ける。


 執務室に行くと、すでにアルヴァー様がソファに座っていた。


「マリーナ。婚約者なのだからアルヴァーの隣に座りなさい」


 どこに座ればいいのか迷っていると、侯爵がささっと助け舟を出してくれる。でもその助け舟は、正直いらなかったかもしれない。だってアルヴァー様は、あからさまに嫌そうな顔をしている。おまけに私が座ったら、ちょっとだけ距離を取るべく右にズレた。まあ、仕方ないけども。


「結論から言うと、ノルマン男爵は納得してくれたよ」


 「だいぶ手間取ったがね」なんて、侯爵は苦笑する。


 私たちが学園へ行ってすぐ、男爵はすごい剣幕で侯爵邸に怒鳴り込んできたらしい。退学手続きに行ったはずの私がいつまでたっても帰ってこないと思ったら、どういうわけかフォルシウス侯爵家との婚約が突然決まってそのまま侯爵邸で預かることになったと連絡が来たのだから。まさに寝耳に水、すんなり承諾できるはずがない。


 もちろん、当初の計画としてはそれでよかったのだ。現宰相家との縁組なんて、そうそう叶うものじゃないんだし。


 でも野蛮で低俗な男爵は、そっちの計画は早々に諦めて私を愛人にする方向にシフトチェンジしたばかり。手に入れるはずの獲物がまんまと逃げ去ったとなっては、激昂するのも無理はない。


「はじめは娘を返せとかなんとか、ずいぶん騒がしくわめいていたよ。宰相という立場を濫用した、卑劣で横暴な振る舞いだとも言っていたね」

「すみません……」

「君が謝ることじゃない。だいたい、空のバケツほど蹴るとうるさい、と言うじゃないか」

「それは、はい……」

「私がそんな中身のない脅しに屈すると思うかね? 案の定、こちらから多額の資金援助を匂わせてやったら男爵はあっさり陥落したよ。途端に私のことを持ち上げ始める変わり身の早さは、国内随一と言っていいだろうね」


 皮肉めいた口調で、侯爵がほくそ笑む。


「とにかく、男爵のほうはうまく対処したから安心していい。といっても、あいつのしつこさは油断ならないからね。できるだけ用心はしてほしいが」

「はい」

「この邸にいる限り、君の身の安全は保障しよう。学園にいる間は、アルヴァーが護衛代わりになってやれ」

「は!? なんで俺が!」


 命じられたアルヴァー様が、ここぞとばかりに牙をむく。


 でも侯爵は、まったく動じていない。


「それくらい、いいじゃないか。どうせ同じ学年なんだし」

「だからって、なんで俺なんですか? 俺は嫌です。こんなやつの護衛なんて」

「婚約者の身を守るのは当たり前のことだろう?」

「だから婚約は『偽装』だってあれほど――!」

「あ、あの」


 思わず口を挟むと、二人の顔が同時に振り返る。


 多少の場違い感を抱きながらも、私は昨日からずっと考えていた疑問を口にする。


「あの、どうして侯爵様は、そこまでしてくれるのでしょう? 私はその、かつてはルーシェル先生を傷つけ苦しめた張本人ですし、侯爵家にとって許し難い相手だということは重々承知しています。アルヴァー様がおっしゃることはもっともだと思いますし、ここまでよくしてもらう理由が……」


 そこまで言うと、侯爵はふっと小さく笑った。いつもわりと無表情の侯爵だけど、イケオジの微笑は破壊力が尋常じゃない。


「そうだな。君とハルラス殿下の話を聞いた当初は、常識知らずの勘違い令嬢、などと憎々しく思ったものだが」



 ……そんなふうに思われてたんだ。へー。仕方ないとはいえ、ちょっと複雑な気分ではある。



「しかし今のルーシェルを見れば、やはり君には感謝すべきかと思ってな」

「感謝、ですか……?」

「ルーシェルも言っていただろう? 君がいなければ、あの子はあのままハルラス殿下と婚姻し、王子妃、いずれは王太子妃となっていた。そんな未来があの子にとって幸せだったのか、今となっては疑わしい。いやむしろ、不幸と苦労の連続だっただろうな。あの無能でポンコツなハルラス殿下は、どうせまた同じことを繰り返すだろうしな」


 吐き捨てるような侯爵の口調に、なんだかものすごい私怨を感じる。あれ。侯爵って、もしかしてハルラス殿下のこと相当忌み嫌っていらっしゃる……?


「それに、あの子を苦しめたという意味では私たち親だって同罪なんだ。そもそもあのポンコツ殿下との婚約を受け入れたのは、私たちだからね。もともとは殿下たっての希望で決まった婚約だったんだが、私たちがきちんと説明しなかったせいであの子は政略的な意味合いがあると思い込んでいたらしい」

「え、殿下たっての……?」

「そうだよ。それなのにあのすっとこいどっこいは簡単に心変わりした挙句、一切悪びれることもなかった。私たちはさっさと婚約を解消させてやりたかったんだが、ルーシェルのほうは政略的な婚約なのだから解消なんてできるわけがないと諦めていたんだよ。その話を聞いたときには、愕然としてしまった。あの子に要らぬ我慢を強いて、苦しめていたのは私たちも同じだったんだ。だから君ばかりを責める気には、なれないんだよ」


 侯爵の声には、少しの後悔が滲んでいる。


 アルヴァー様にとっては、初めて聞く話だったらしい。殊勝らしい顔つきになって、黙り込んでいる。


「それに比べて、ディーンはどうだ? あいつの度を越した溺愛ぶりには正直辟易するが、ルーシェルの幸せそうな顔を見れば一目瞭然だとは思わないか?」

「学園でも、いつも楽しそうです。仲睦まじくて」

「そうだろう? 更に言えば、君がいなかったらポンコツ殿下はきっとあのまま立太子していたに違いないんだ。この国の行く末を考えたとき、そんな未来を回避できたのはまさしく僥倖と言っていい」

「僥倖ですか……?」

「君のおかげで、ハルラス殿下という人間のメッキがはがれてその本質が露呈したんだ。とてもじゃないが、王として人の上に立ち、国を導く器ではないという本質がね」


 愛情深い父親の顔をしていた侯爵が、急に冷徹な宰相の顔になる。


 確かに、人の心の痛みを思いやれず、自分本位で実は傲慢な殿下があのまま立太子し、いずれ王になっていたとしたら。この国の未来は、どうなっていただろう。


「しかも、君の行動にはやむを得ない理由があった。その事情を知って、それでもなお君を非難する人間はいないと思うがね」


 侯爵の視線は、明らかにアルヴァー様に向けられていた。それに気づいたアルヴァー様は、ちょっと気まずそうに目を逸らす。


「しかしまあ、レイチェルが君を歓迎しているのはまた別の理由があるんだが」

「え?」

「それは本人に直接聞くといい」


 レイチェルとは、侯爵夫人のことである。


 なんのことかさっぱりわからず首を傾げる私が夫人の思惑を知るのは、もう少し先の話だったりする。






 




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