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3 逃亡の覚悟

 どれだけ言い訳を並べても取り繕った説明を重ねても、ノルマン男爵の気が変わることはなかった。


「はじめからそういう約束だっただろう?」


 男爵は右手で顎をさすりながら、いやらしく微笑んでいる。


 あんなの約束なんかじゃない。一方的な交換条件、それも絶対に断ることのできない、脅しみたいなものじゃないの。


 そう言おうと思って、やめた。今更何を言っても、もう手遅れなのだ。


 欲望の淀む目が、私の全身を上から下まで舐めるように眺め回す。その様を一瞥して、そういえば最近、こんな下衆な視線をよく向けられていたことに気づく。


 男爵はきっと、最初から卒業まで待つつもりなどなかったのだ。どこかのタイミングで私を言いくるめ、愛人にしてしまおうと目論んでいたに違いない。


 ぶるりと悪寒がした。やばい。まずい。どうしよう。



 ――――逃げなければ。



 一瞬で覚悟を決めた私は、わざとらしく神妙な顔つきをする。


「……わかりました」


 悪あがきはやめて、諦めたふうを装って、上目遣いで男爵をじっと見つめ返す。


「お父様の言う通りにいたします」


 その言葉に、目の前の男爵はだらしなく頬を緩ませた。内心吐きそうになるのを我慢しながら、しおらしい態度で私は続ける。


「ではすぐに学園へ行って、退学の手続きをしてきます」


 反射的に、男爵は眉根を寄せて疑わしそうな目を向ける。


「今からか?」

「……早いほうがいいかと思いまして」

「いや、待て。逃げるつもりじゃないだろうな?」

「逃げてどこへ行くというのですか? 行く当てなんかどこにもないって知ってるくせに」

「それは、そうだが……」

「退学の手続きは、親や代理人にやってもらうより本人が直接行ったほうが手っ取り早いし短時間で済むんだそうです。昔、母が言ってました」



 ……大嘘である。



 母はそんなこと言っていない。学園時代のことなんて、ちょっと勉強ができたなんていう自慢話か、王妃殿下と同じ学年で顔見知りだった話しか聞いたことがないんだもの。父がすべてだった母にとって、父のいない学園生活はだいぶつまらなかったらしいから。


 でも私が繰り出した渾身の一手に、男爵は押し黙った。母が途中で学園を退学していることは、周知の事実である。ひとしきり考えを巡らせ、そういうものなのかと結論を出したらしい。


「それなら早く行ってきなさい。近いうちお前のための一軒家を用意してやるから、そちらに移る準備もしておくようにな」


 下劣な笑みに、私は大人しく首を縦に振る。


 それから何食わぬ顔で自室に戻ると、クローゼットの奥に隠しておいた大きめの鞄を引っ張り出した。


 こんなこともあろうかと、ここに来たときから準備だけはしておいたのだ。必要最低限のものだけを詰め込んだ鞄を抱えて、平静を装い馬車に乗り込んで学園へと急ぐ。


 到着すると、そのままの勢いで魔法薬学の研究室に向かった。


 下校時間は、とっくに過ぎている。先生たちがまだ研究室に残っているかどうかは、ほとんど賭けだった。


 ドアをノックするとルーシェル先生の返事が聞こえて、私はたまらず「先生……!」と悲痛な声を上げる。


「ど、どうしたの?」


 振り返って私に気づいたルーシェル先生が、慌てて近寄ってくる。そして私の抱える大きな鞄に目を遣ると、何かを察して眉間に皺を寄せた。


「え、なんなの? それ」

「……男爵に、バレたんです……」

「は? 何が?」

「私が男漁りを諦めて、真面目に学園生活を送ってるってバレてしまって……」

「え?」

「高位貴族の令息と縁付くつもりがないのなら、さっさと学園を退学して愛人になれって迫られて……。だったら退学手続きは自分でやりますと言いくるめて、こっそり荷物をまとめて出てきたんです。このままどこか遠くの町にある修道院に逃げ込もうと思って……」

「ちょ、ちょっと――」

「でも先生にだけは、どうしても最後にご挨拶したくて」


 溢れそうになる涙をこらえて、私は真っすぐに先生を見つめた。


 両親を亡くして男爵に利用され、言われるがまま迷走を続けた私を最初に救ってくれた先生。


 過去の遺恨など気にも留めず、真っ先に手を差し伸べてくれた先生。


 もう会えなくなるのなら最後にひと言お礼が言いたいと思っていた私を、先生は必死で引き留める。


「ちょ、ちょっと、待って。ダメよ、そんなの」

「でも、戻ったら男爵の愛人にさせられます。男爵は本気で私を愛人として囲うつもりみたいで、そのための一軒家もこれから用意するとか言ってて……」

「は? 何それ。キモすぎるんだけど」

「どうした?」


 奥の調合室を片づけていたらしいディーン先生が、ただならぬ気配を感じたのか部屋に入ってくる。


「あ? マリーナ・ノルマンか? なんだそのデカい鞄は」


 問われた私は、ディーン先生にも何が起こったのかを説明する。いつもは私に手厳しいディーン先生だけど、「男爵のやつ、とんでもないスケベ野郎だな」なんて忌々しげに顔を歪める。


 でも、どこか遠くの縁もゆかりもない町の修道院に逃げるつもりだと話すと、ディーン先生は探るような目つきをして言った。


「そんなところにどうやって行くんだよ? 馬車を乗り継いで行くにしても、先立つものはあるのか?」


 「す、少しなら」と言いながら小さな巾着袋に入れてあった全財産を見せると、中を覗き込んだディーン先生はあからさまに大きなため息をつく。


「マリーナ・ノルマン、お前はもうちょっと冷静になれ。これじゃあ、王都を出ることもできねえよ」

「そんな……」

「なんとかならないんですか?」


 ルーシェル先生が、思わずといった様子で前のめりになる。


「こんなの、あんまりです。マリーナ嬢だって、好きで男爵を頼ったわけじゃないのに」

「ルーシェル先生……」

「どこにも行くところがないのなら、いっそのことうちに連れていきましょうよ。キルカ公爵家で預かっているということにしたらいいじゃないですか」


 私のために、ディーン先生をなんとか説得しようとするルーシェル先生。




 実はこれより少し前、ディーン・ラウリエ先生は何を隠そう先王陛下のお子であり、王弟殿下だったという重大な秘密が突然公になった。


 と同時にディーン先生は臣籍降下して「キルカ公爵」の身分を賜り、生涯の恋人であるルーシェル先生と結婚した。だから現在、目の前の二人はこの国唯一の公爵夫妻なのである。


 あのときは、学園中その話題でもちきりだったんだけど。


 そのキルカ公爵ことディーン先生は、ルーシェル先生の訴えにも厳しい表情を崩さない。


「どういう理由で預かったことにするんだよ? 何を言ったって向こうは知らぬ存ぜぬを貫くだろうし、書類上は男爵が親なんだ。親に『返せ』と言われたら、返すしかないんだぞ」

「そんな……!」


 ルーシェル先生の気持ちは、ただただうれしい。こんな私のためにどうにか手を尽くそうとしてくれる先生に出会えたのは、私の人生にとって一番の幸運だった。間違いなく、そう思える。


 でもディーン先生が言う通り、もはやどうにもならないということはわかり切っていた。諦めていた。だって、今までもずっとそうだったもの。



 この世界は、時に非情で残酷で、理不尽なのだから。




 ――――でも。




「マリーナ・ノルマンを助けたいのか?」

「当たり前です」


 挑むような笑みを浮かべるディーン先生は、どういうわけかルーシェル先生に愛おしそうな視線を向けている。


「……お前さ、大事なことを忘れてないか?」

「何がですか?」

「俺がお前のためならなんでもしてあげたいって思ってること。忘れてるだろ?」

「……え?」


 そして余裕ぶった表情で、私とルーシェル先生とを交互に見比べる。


「心配するな。俺に、考えがある」


 落ち着き払ったその声に促されるようにして馬車に乗り込み、私たちがディーン先生に連れてこられたのは――――。





 なんとルーシェル先生の実家にして現宰相家でもある、フォルシウス侯爵邸だった。













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