1 懺悔のとき
春になり、私は学園の四年生になった。
第一王子ハルラス殿下の心を奪って本来の婚約者を蔑ろにさせ、その後あっという間に捨てられてみっともなく殿下を追いかけ回した挙句、最終的には謎の異臭に撃沈した私に冷ややかな視線が突き刺さる。痛い。もう物理的に痛い。
それでも、私はまだ諦めていなかった。
というか、諦めていない「ふり」をしていた。
私がハルラス殿下を籠絡したという噂は、当然ノルマン男爵の耳にも届いていた。男爵は当初「なかなかやるじゃないか」なんてほくそ笑んでいたけど、結局は捨てられたと知ると容赦がなかった。
「とっとと次を見つけて来るんだな」
「次なんて……」
「諦めるのか? それならさっさと学園を辞めて、私の愛人になってもらおうか」
「は?」
「そういう約束だろう?」
品のない笑みに、ぞわりと身震いしてしまう。
……愛人は嫌だ。それだけは絶対に避けなければ……!
仕方なく、私は高位貴族の令息たちを追いかけ回して「演技」をし始める。でも当然のことながら、高位貴族の令息というのは真っ当な人たちばかりだから演技したってほとんど通用しない。そもそも去年の私の醜態を嫌というほど目にしている彼らは、必要以上に冷静で、辛辣で、そして手厳しい。
ではなぜ、ハルラス殿下には通用したのかという不敬な疑問が頭を掠めるけど、一旦スルーしたい。
……とにかく、こんなのうまくいくはずがないのだ。
そう思いながらも令息たちを見つけては追いかけ、無駄に言い寄る不毛な日々。男爵の愛人になりたくないばかりに、ますます醜態を演じてしまっている自分自身にさえ気づかない悲しい現実。
打つ手なし。四面楚歌。絶体絶命なこの状況。
そんな、ある日のこと。
授業が終わってぼんやりと廊下を歩いていた私の耳に、何やらまとわりつくような媚びた声が飛び込んでくる。
それは、今年の春から新たに魔法学教師として採用されたヘレナ・クランツ先生だった。
クランツ先生が、同じく魔法薬学の教師ディーン・ラウリエ先生にしなだれかかって自分の胸を押しつけていたのだ。
……なんだ、あれ。
あまりにも下品極まりない行動に、視線が釘付けになる。
胸を押しつけられているラウリエ先生は、見るからにとても嫌がっていた。嫌すぎてすでに目が据わっていた。そりゃそうだろう。だってラウリエ先生には、人生の伴侶と決めた人がいるのだもの。
それはあの、ハルラス殿下の婚約者だったルーシェル・フォルシウス様である。
ハルラス殿下との婚約が解消になったあと、ルーシェル様は魔法薬を通じてラウリエ先生との愛を育んだのだと聞く。あの異臭騒ぎのもとになった魔法薬も、二人が協力して開発したものらしく世界各国で絶賛話題沸騰中なんだとか。
正直言って、このころの私がルーシェル様に対して複雑な感情を抱いていたことは否定できない。あの人がハルラス殿下との婚約を解消しなければ、私だってハルラス殿下に捨てられることはなかったはずなのに。身勝手にもそう思ったことは、一度や二度ではない。
でも実は、その一方で、あれだけ放ったらかしにされたら愛想も尽きるよね、と思う気持ちも密かにあった。そりゃそうだ。気に入られるよう媚びた演技を続けながらも、婚約者を蔑ろにして不誠実な対応を続ける殿下に「え、ほんとにいいの?」と思ったことだって幾度もある。あの頃は王族だから許されるのかなとか思っていたんだけど。そんなわけなかったわ。
だから卒業式の日にルーシェル様がラウリエ先生に公開プロポーズされているのを見て、驚いたけどよかったと思っていたのも事実なのだ。そのあとハルラス殿下がこっぴどく振られていたのを見て、私の気持ちも完全に醒めたんだけど。あの姿を見て、ハルラス殿下に狙いを定めた自分が愚かだったわと思い知ったよね、うん。
あのときは学園中の人たちがルーシェル様とラウリエ先生を心から祝福していたし、いまや二人の関係を知らない人間なんて学園にはいない。いや、いたわ。現に今、目の前に。
不愉快そうな仏頂面のラウリエ先生は、身の程知らずなクランツ先生に淡々と言い返す。
「やめてくれません? まじで吐きそうなんで」
「え?」
「わざとらしくくねくねして、やたら密着してきて何なんですか?」
ラウリエ先生はその後も顔色一つ変えることなく、「馴れ馴れしく触んないで」とか「キモすぎて鳥肌立ってきた」とか痛烈な批判を繰り返す。
一方のクランツ先生はまさかそんなことを言われるとは思っていなかったのか、滑稽なくらい呆然としている。自分の胸の大きさには、絶対的な自信があったのだろう。
でも、その光景を目の当たりにした私は――――
雷にでも打たれたかのように、その場に立ち尽くしていた。
頭を殴られたような衝撃が全身を貫いたのだ。
…………だって、だってあれは、まさに私そのもの。
はしたなく見るに堪えないクランツ先生の言動は、私がしてきたこととまったく変わらなかった。むしろ完全に一致していた。相手の迷惑も顧みず、ただ自分の都合だけで令息たちにしつこく言い寄る私の姿は、さっきのクランツ先生同様見苦しく恥ずべきものとしてまわりの生徒たちの目に映っていただろう。
「人の振り見て我が振り直せ」、とはこのことである。
自分がどれだけ醜く浅ましい姿をさらし続けてきたのか、今頃になって気づいてしまった。
それからはもう、死にたくなった。死にたくなるくらい恥ずかしかった。科を作って令息たちに言い寄る姿はもちろんのこと、ハルラス殿下の寵愛を得ようと「あざと可愛さ」を装っていた頃の自分も思い出して頭を抱えた。息も絶え絶えである。恥ずかしくて情けなくてどうしようもないけど、どうにもできない。
三日三晩、いや一週間、十日、二週間と悩み抜いて、私は決めた。とにかく謝ろうと。
誰にって、もちろんルーシェル・フォルシウス様にである。
だって、私の身勝手な事情で繰り広げた「演技」の一番の被害者は、ルーシェル様だと思ったから。いくら男爵に言われたからって、男爵の愛人になりたくないからって、あんな演技で婚約者のいる人を誘惑していいはずがなかった。そのせいでルーシェル様は深く傷ついて苦しんで、最終的には王族との婚約を解消することになったんだもの。結果的に、私は二人の人生を壊してしまったのだ。
本当に、あんなことするべきじゃなかった。
取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
だから謝罪しようと思った。とにかく誠心誠意、謝ろうと。
それで許してもらえるとは、思っていなかった。
意を決した私は、魔法薬学の研究室へと向かう。
ルーシェル様は学園を卒業したあと、そのまま助手として魔法薬学の研究室に残っていた。研究室の主であり恋人でもあるラウリエ先生を手伝いながら、二人三脚で魔法薬の研究と開発に没頭しているらしい。
研究室の前に着くと、私は大きく深呼吸した。緊張のせいで、少し手が震えている。
思い切って、ドアをノックする。
数秒後、開いたドアの向こうに見えたルーシェル様は、驚きのあまり言葉を失っていた。
「あ、あの、ルーシェル・フォルシウス先生にお話があって参りました」
気づいたらルーシェル様を「先生」と呼んでいた。
馴れ馴れしく「ルーシェル様」と呼ぶのは、なんだか烏滸がましい気がしたのだ。