プロローグ~私の人生が詰んだ瞬間〜
十四歳のとき、両親が立て続けに死んだ。
両親は、王都の一角で小さな花屋を営んでいた。派手さはないものの、気さくで堅実な両親の人柄もあってそこそこ繁盛していたと思う。
店の経理を担当していた母は、もともと子爵家の令嬢だったという。母の父と祖父、つまり私にとっては祖父と曽祖父が二代に渡って事業経営に失敗してしまい、最終的には爵位を返上することになったらしい。
子爵令嬢といえば、貴族である。私たち平民にとっては、雲の上のような存在。そんな高貴な立場を捨てることに未練はなかったのか、私が尋ねたとき母は恥ずかしそうに微笑んだ。
「お母さんはお父さんが好きだったから、爵位なんてどうでもよかったのよ」
私の父はもともと子爵家の庭師の息子で、幼馴染のように育った父と母はいつからか身分違いの恋をしていたという。いわゆる、禁断の恋である。「だからかえって都合がよかったの」なんて母は無邪気に笑った。
爵位を返上したあと、平民になった母はすぐに父と結婚した。そして、残った幾ばくかの資金で花屋を始めたという。
貴族令嬢として生まれ育った母にとって、慣れない平民としての生活は苦労の連続だったと思う。でも母は、そういう悲壮感を一切感じさせない人だった。
ちなみに、母の父(つまり私にとっての祖父)は爵位返上後、若くして亡くなった母の母が眠る墓地の近くに移り住んだらしい。父の父、つまり子爵家の庭師をしていたという父方の祖父や何人かの使用人も一緒に移り住んだらしいのだけど、数年後大きな水害に遭い、皆帰らぬ人となったそうである。
私が生まれてすぐの頃だったらしく、私は二人の祖父に会ったことがない。
そういうわけで、私たちは家族三人、平民として慎ましくも穏やかに、そして平和に暮らしていた。父のことが大好きな母と、そんな母に頭が上がらない父は一人娘の私を大切に育ててくれたし、この生活がずっと続くのだと信じて疑わなかった。
でも私が十四歳のとき、平民の間にとある流行り病が蔓延する。
両親ともその病に倒れ、先に父が亡くなるとあとを追うように母も亡くなった。本当に、あっけなかった。あっという間だった。
両親を失い、悲しみに沈む暇もなく町の人たちに手伝ってもらってなんとか二人を見送ったあと、実は二人に多額の借金があったことが発覚する。花屋の経営が思いのほか順調だったこともあり、両親は王都の繁華街への移転を考えていたのだ。二人が他界したのは、新しい店の改装がもうすぐ終わるというタイミングだった。
残された店と多額の借金を前に、私は途方に暮れた。こんなの、私一人でどうにかできるわけがない。先に逝ってしまった両親を呪いたくなったし、あとを追うしかないとも考えた。でなければ、娼館行きが確定してしまう。
――――私は追い詰められていた。
そんなときだったのだ。
花屋の店先に、身なりのいい見知らぬ男性が現れたのは。
彼はノルマン男爵と名乗った。母の古い友人だと言った。
でも私は、この人が何者なのか知っていた。母が生前、うんざりしたような顔でよく嘆いていたからだ。
「ほんとに鬱陶しいったらありゃしない。あんなやつの愛人なんて、死んでもごめんだわ」
もとから平民だったようなぞんざいな口調で悪態をつく母に、私は尋ねた。
「愛人?」
「昔、お母さんに婚約を申し込んできたしつこい貴族様がいたのよ。ちゃんと断ったのに、今度は『今より数段いい生活をさせてやるから愛人にならないか?』なんて言ってきて。私がラルフ以外を選ぶわけないじゃない」
ラルフとは、父の名前である。父一筋の母は、ノルマン男爵の使いが何度訪れてもこっぴどく罵倒して容赦なく追い返していた。そして、そのあと必ず塩を撒いた。だいぶ広範囲に。大量の塩を。
そのノルマン男爵が、茫然自失の私の前に自ら姿を現したのだ。
「両親が突然亡くなってしまって、困っているのだろう? 私でよければ、力になりたいのだが」
嘘くさい、胡散くさいとわかってはいても、予期せぬ優しい声は空っぽになった私の胸に響く。
いきなり天涯孤独の身になってしまった私に、頼れる人なんていない。途方に暮れ、路頭に迷い、死すら覚悟していた心は、すでに擦り切れていた。疲弊した頭は、まともな感覚を失っていたのだ。
だから、ノルマン男爵の手を取ってしまった。
あとで死ぬほど後悔するとも知らずに――――。
◇・◇・◇
ノルマン男爵から、養女にならないかと提案されたときには正直驚いた。
でも両親の残した借金を肩代わりしてくれたうえ、今後の生活も保証すると言われれば断ることは難しい。
ただ、耳を疑うような条件を提示されてしまう。
「君にはこれから、男爵令嬢マリーナ・ノルマンとして生きてもらう。私が平民の愛人に産ませた庶子としてね」
「庶子? どういうことですか?」
「そのほうが何かと都合がいいんだよ。それと、家庭教師をつけてやるから貴族令嬢としての礼儀作法やマナーを学ぶように。半年後には王立学園に編入してもらうから、そのつもりでいてくれ」
「え、たった半年で貴族としてのマナーや礼儀を覚えろってことですか?」
「そうだ。そして学園に通うようになったら、誰でもいいから高位貴族の令息と懇意になりなさい」
「は?」
「高位貴族の令息と懇意になって籠絡し、婚約関係を結ぶのだよ」
「な、なんのためにですか?」
「そんなことは知らなくていい。しかしもし、それができなかった場合には学園を卒業後私の愛人になってもらう」
「は? なんで……?」
「なんで? 当然だろう? 君の両親が残した借金をすべて肩代わりしてやったのは、慈善事業だとでも思っていたのか?」
「え……」
「私は君を買ったんだよ、マリーナ。そうしなければ君は娼館に売られるか、借金を踏み倒して一生逃げ回るか自ら死を選ぶしかなかったのだよ? そんな悲惨な人生を送るより余程いいだろう?」
あざけるような下卑た笑みには、有無を言わさぬ圧があった。
だまされたと叫んでも、人でなしと罵っても、もう取り返しはつかないのだと悟るしかなかった。
それからすぐに、令嬢教育のための家庭教師が頻繁に男爵家を訪れるようになる。
ただ、学ぶことはそう多くはなかった。なぜなら、私はすでに亡くなった母から基本的な礼儀作法やマナーといったものを教わっていたから。
母は平民になっても、「マナーや作法は相手を不快にさせないために必要なもの」とか「知性なくして品位なし」とか小難しいことをよく言っていて、そういうことに関してはわりと厳しくしつけられていたのだ。たかが平民に礼儀だの作法だの関係ないでしょ、なんて反発していたことは素直に謝りたい。でも母が基本的なことをしっかり教えてくれていたおかげで、家庭教師からも「これなら学園でさほど問題なく過ごせるでしょう」とすんなりお墨付きをもらうことができた。
そんなある日の夜。
なんだか寝つけなかった私は厨房に飲み物を取りに行こうとして、ノルマン男爵夫妻の内緒話を聞くことになる。
ちなみに、ノルマン男爵夫人とはほとんど話をしたことがない。たまに廊下ですれ違っても不快そうな顔で通り過ぎるだけだし、食事の席でもほぼ話しかけられることがない。接点がなさすぎてどんな人なのかまったくわからず、不気味ですらあった。
そんな夫人のくぐもった声が、部屋の奥から聞こえてくる。
「あんな小娘をわざわざ引き取ってうちの大事な資産をつぎ込むなんて、どういうつもりなのよ」
「つぎ込んでなどいないさ。あれくらいの借金、平民にとっては大金だろうが俺たち貴族にしてみれば微々たるものだ。家庭教師にしたって、必要最低限の額しか払っていない。むしろ投資としては、適正なものだよ」
「投資?」
「縁もゆかりもないあいつを引き取って貴族令嬢に仕立て上げ、学園に放り込んで高位貴族に縁付かせる。あいつは母親に似て、見目はいいからな。相当いいところの貴族令息を釣り上げてくるだろうし、そうなったら相手の家から多額の支援を引き出すこともできる。あの小娘は少ない資金で多額の利益を生み出す、『金の卵』なんだよ」
「もしかして、最初からそれが目的で……?」
「当然だろう?」
あとで知ったことだけど、子どものいない男爵夫妻は贅沢好きなうえにかなりの浪費家だったらしく、男爵家の家計はとっくに火の車だった。相当な額の収入があるはずなのにそれ以上の支出があるため、常に資金難に喘いでいたらしい。
そして男爵は、「目論見がうまくいかなかった場合は私を愛人にする」という条件については夫人にまったく話していないようだった。当たり前と言えば当たり前だけど、悪辣な本性にいっそ清々しさすら感じてしまう。
悪党とは、こういうやつのことを言うのだろう。
そしてその悪党に、生殺与奪の権を握らせてしまった自分が情けなくて不甲斐なくて、涙が溢れた。
だからこんなやつの愛人にだけは絶対にならないと、強く心に誓ったのだ。
◇・◇・◇
学園に編入する直前。
巷で流行っているという恋愛小説の存在を知った。
男性が好みそうな立ち居振る舞いを研究すべく、ひたすら読み漁る。ちょっとあざとくて庇護欲をそそり、自由奔放で距離感の近い女性のほうが男受けがいいらしいと気づいて、そういう令嬢になりきるための演技力を磨いた。
そうして学園に編入し、『あざと可愛い』を狙った私の演技にまんまと引っかかったのは、なんと二つ年上の第一王子ハルラス・リネイセル殿下だった。
思わぬ大物が釣れてしまい、だいぶ焦った。
でもハルラス殿下には、ルーシェル・フォルシウス侯爵令嬢という同い年の婚約者がいた。当代随一の才媛と名高いルーシェル様は現宰相家の令嬢でもあり、二人は学園生たちから理想のカップルとして羨望のまなざしを集めていた。それなのにハルラス殿下はいとも簡単に心変わりして、ルーシェル様を放置し始める。
代わりに寵愛を受けるようになった私は、何もかもがうまくいきすぎたせいで調子に乗ってしまった。
完全に思い上がっていた。恥ずかしながら天狗になっていたことは、否めない。
ハルラス殿下は私にのめり込んではいたけど、ルーシェル様との婚約を解消する気はないようだった。将来の王妃としてはルーシェル様のほうが相応しいと思っていたみたいだし、おまけにルーシェル様は自分を見限るはずがないという妙な確信があったらしい。
でも私は、それでよかった。
私だって正妃なんて柄じゃないし、とにかくノルマン男爵の魔の手から逃れられればそれでよかったのだ。王家が男爵家に資金援助をしてくれるかどうかはわからないけど、男爵の思惑なんて知ったこっちゃない。男爵より殿下のほうが格好いいし優しいし、私を大事にしてくれる。だから側妃だろうが愛妾だろうが、なんでもよかった。
浅はかな私は、自分のことしか考えていなかったのだ。
あのときルーシェル様がどんな思いでいたかなんて、考えようともしなかった。
だからきっと、罰が当たったのだろう。
ハルラス殿下とルーシェル様の婚約は、その後あっさりと解消されることになる。それも、殿下に愛想を尽かしたルーシェル様の側から申し入れたらしい。
この事態に、ハルラス殿下は相当慌てた。慌てまくった。ルーシェル様は自分を愛しているのだから、何があっても許してくれるし受け入れてくれると信じていたのにまさかの事態が起こってしまったのだ。しかも婚約が解消になったことで立太子の話も立ち消えになり、ここへ来て殿下はまるで憑き物が落ちたかのように態度を一変させる。
「マリーナ。僕たちの関係はもう終わりにしよう」
苦渋に満ちた顔でそう告げた、ハルラス殿下。泣いてもすがっても、ハルラス殿下の目にかつての熱が戻ることはなかった。
予想外の展開に、私も焦った。殿下に見放されてしまっては、多分あとがない。なんとか殿下の気持ちを取り戻したくて、わざとらしい演技を重ねてはひたすら殿下を追いかけ回した。でも追いかければ追いかけるほど、殿下は元婚約者であるルーシェル様への想いを強調して私を見ようともしない。
まずい。このままではまずい。殿下に無下にされればされるほど、迫りくる男爵の愛人という立場……!
必死で殿下に追いすがろうとしては失敗し、話しかければ冷たくあしらわれ、そのうち殿下に近づこうとするとなぜか耐えらない異臭に阻まれるという信じられない異常事態が発生する。
とにかくひどい異臭に悶絶し、一歩も動けないというのにまわりの生徒たちはみんな平然とした顔をしていて、異臭を感じているのはどうやら私とハルラス殿下だけだと気づくようになる。
何がなんだかわけがわからないまま、あの異臭騒ぎがルーシェル様の開発した不思議な魔法薬の効果だったと気づいた頃にはとっくにすべてが終わっていた。殿下はそのまま学園を卒業してしまい、一旦は手にしたはずの男爵から逃れる術を私は失った。
まさに万事休す。八方塞がり。完全に詰んだ。
そんな私の巻き返しの日々は、ここから始まっていく――――。




