前世の話
※注釈
あえてデンマークのことをダンマークと呼んでいます
ユトランド半島についてもデンマークでの呼び方であるユラン半島としています。
誤字ではないです。
テューラ・ア・ダンマーク、正式にはテューラ・ルイーセ・カロリーネ・アマーリエ・アウグスタ・エリサベトそれが私の名前。
ダンマーク王国第三王女で、上に兄が二人に姉が二人おり、後に弟と妹もできたわね。
生まれたのは1880年。
私には二つ大きな悔いがありました。
一つは、結婚について。
もう一つは国民に対して王族として何もできなかったことです。
私は一度だけ恋に落ちたことがあります。
王宮医であったニールス・C・イルセー12歳の年の差がありましたが私たちの心に嘘偽りはありませんでした。
ただ、彼は平民だったのです。
当時はお爺様は「ヨーロッパの義父」などと呼ばれている時期でした。
私の従兄弟はジョージ5世やニコライ2世ですよ?
私達の結婚は当時、認められませんでした。
私との恋愛が明るみとなった瞬間、彼は王宮医を首になり二度と会うことは叶わなかったのです。
私のこの騒ぎから20年後、妹ダウナーが身分違いである従者の男爵令息と婚姻できたのにです。
当時は既に王室はただの象徴であり、婚姻に関しても政略よりも恋愛が主となっていたということです。
私はニールスにすべてをささげるつもりで一生独身を貫きました。
彼からの手紙を信じる限り彼も独身を貫いていたようでした。
そしてもう一つ、我が国は小国ゆえの激動の歴史を歩むことになります。
私は王族として国民たちが苦労する姿を見続けてきました。
私が生まれたのは、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が終わってから16年ほど過ぎた年であり、我がダンマーク王国は苦悩からようやく光が見えてきた時期でしたの。
プロイセン王国に敗れた先の戦争によって、我が国はユラン半島の南半分、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国、ラウエンブルグ公国を失ったことで、国内の主要産業であった酪農が大打撃を受けたわけです。
その後、「外ではなく内に活路を見つける」をスローガンとして湿地帯が多かった北ユラン半島の開拓が民間主導で推し進められ、私が生まれたころとなるとイギリス向けの乳製品、バターやチーズの輸出によって外貨を得てイギリスの技術を輸入することで内需に対する工業製品の需要を満たすべく邁進している時期でした。
また、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争後のダンマーク王国は国際社会において中立国として生きるための外交努力を続けていたけれども、どこからも中立についての保証はもらえなかったのが現実でした。
世界地図を頭に浮かべてもらえれば一目瞭然かと思います。
我が国はバルト海と北海をふさぐ形で横たわっているのです。
二つの海峡は当時のロシア帝国、ドイツ帝国からすれば北海への出口であり、イギリス王国、フランス共和国からすれば敵対する両国を大西洋に進出させないための蓋であるわけです。
何処の国もよく言えば同盟国、悪く言えば属国とすべく動いていたわけです。
お爺様である国王陛下の政略によって、上の叔母様はイギリス王室に、真ん中の叔母様はロシア帝国へ嫁いでおり、下の叔母様もドイツ帝国内の公爵家に嫁いでいたことでどこからも味方だと思われ、どこからも何処へも渡すべきではない国だと思われるため”中立”などという曖昧な状態は許されなかったわけです。
その均衡も1904年に発生した日露戦争によって崩れます。
自国の艦隊戦力増強のためバルト海から出向したバルチック艦隊に対し、正当な対価をもらってはいたものの二つの海峡の通過を案内した我が国はイギリスから猛烈な外交圧力受けます。
「ロシアと同じ条件でバルト海に通せ、さもなくば…」
首都コペンハーゲンからすら確認できたイギリス艦隊の物理的な脅しにより、その要求を受け入れたことで、結果的に両国からなし崩し的に”中立”という扱いを受けます。
大国の都合に巻き込まれたわけです。
その後、イギリスとロシアの関係は雪解けし、我が国の酪農貿易もまた順調に推移しておりましたが、次なる悲劇は1914年に端を発した第一次世界大戦でした。
我が国は”貿易”によって成り立つ国になっており、自国の酪農製品を輸出することで必要な物資を外から買い付けているわけですが、それをドイツ帝国の”無限潜水艦作戦”によって大打撃を受けます。
ドイツ帝国以外とは船を使った貿易しかできず通商は崩壊、結果ドイツ帝国以外への販路が無くなりますが、ドイツは南ユラン半島を持っているため製品がかぶり思うような輸出は出来ませんし、戦争末期にはドイツ自身が物資不足となるため、我が国が必要とする資源は手に入らなくなります。
ダンマーク王国の工業力はそれほど高くなく、内需を賄うので手一杯だったところに、物資不足が追い打ちをかけ国民は困窮しました。
第一次大戦終結後も我が国は激動でした。
ドイツ敗戦により、旧領復活を目指して兄である当時の国王クリスチャン10世が再併合派を後押しました。
問題は民族自決による投票結果を無視してのユラン半島全体の再併合を目指したために当時の内閣と衝突、兄は無理やり内閣を更迭し自分の都合の良い内閣を誕生させます。
市民はこれに猛反対…革命手前の大混乱に陥ったのです。
当時、まだ王家の権限がある程度ありましたが、この事件以降は単なる国の象徴として扱われます。
王家の威光なんてものは、西暦900年代から続き、世界で一番古くから続く王家というだけの存在になりました。
皇帝もいれると世界で二番目だそうですね。
その後は世界恐慌に端を発した失業者の増加、移民として国を離れるものが増加します。
数年で我が国は状況を立て直しますが、その後に起こったのは1939年9月1日、ドイツ第三帝国のポーランド侵攻から始まる第二次世界大戦です。
1940年4月、我が国はわずか6時間でドイツに降伏し、終戦まで我が国の市民たちはナチ党政権による圧政と秘密警察におびえながらレジスタンス運動を行うような状態となってしまいます。
私達王族がこの占領によって処刑されるというようなことはありませんでしたが、60歳を超えた身での軟禁生活は私の寿命を短くしたでしょう…
そして、65歳で私の人生は幕を下ろしたのです。
私は王族としてもっとできることがあったのではないかと思っています。
多くの国民が苦しまずに我が国に誇りをもって自由と独立を謳歌できる方法が…
3歳の誕生日、私はこれら前世の記憶を思い出したのです。
なぜやり直すことができたのかは分かりませんが、今度はあきらめません。
彼のことも、そして我が国のことも。