第1章 玄街ヴィザーツ
フロリヤの眼は急に力を帯びた。
「私は見たの。領国主の末娘は難産で母子ともに危なかった。ヴィザーツは誕生呪と別の呪をいくつも使って二人の命を救った。彼らは優れた医療者だわ。あの技術があれば、お母さまだって」
それからふっと笑った。
「ヴィザーツの近くにいると、常識がひっくり返るの。禁忌を忘れるほどにね」
「お嬢さまは観察力がありすぎます。それよりミセンキッタまで飛べるよう飛行機の腕を上げてください」
「ヴィザーツの飛行艇ほど速く飛べないけどね。ねぇ、カレナード。私は次の人生があるなら男に生まれたいわ」
「男に生まれると、素敵なドレスが着られませんよ」
「あなた、着てるじゃない」
「着せられてるんです!」
「次はどの服にしようかしら。胸もなんとかしなくちゃ」
「もう、しません!」
憤然としたカレナードに向かってフロリヤは切り札を切った。
「私の侍女役1回ごとにノート20冊とインク瓶3本の臨時支給。図書室の本を貸出すわ。それでどう?」
要求に折れたカレナードに、彼女は別の話題を振った。
「夏から調停が始まるわ。デュア湖の水利権の話、知ってるわね」
「晩春にミセンキッタから高原へ来る遊牧民ネルーですね」
「以前からオルシニ鉱山街は警戒してたの。湖の水を鉱山の廃液から守ってるのに、ネルーの家畜が水を汚すでしょ。昨年は市警察が湖岸に臨時の陣地を設けたから小競合いで怪我人が出たわ」
「死闘前に調停の使者を立てるは賢明なりの言葉、誰でしたっけ」
「600年前の法学者ユゲ、奨学生試験に出るわよ。領国主もネルー族長も調停開始に同意したから、私たちは調停参加するのよ」
7月、調停開始式がデュア湖近くの小さな公会堂で行われた。
儀仗人形トール・スピリッツが10機編隊で上空を飛び、浮き船到来を告げた。その姿にアナザーアメリカンは調停の当事者たる覚悟をするのだ。
ガーランドが湖の上空で待機し、女王の飛行艇が公会堂に降りる様子がラジオ放送で伝えられた。カレナードは従業員食堂で聴いた。
「マリラさまを拝見したら、きっと何も手につかなくなる。来年の12月は調停完了祭、その前に奨学生試験も終わっている。拝見はその時にしよう。僕の16歳の記念だ」
調停期間中の市民は多忙を極めた。全ての事業所や公共施設では湖の水利権について意見をまとめる時間を作る。批判なしの自由な弁論から始まり、次第に条件を絞り込む。市民の発言の下には様々な事情と感情と理屈が潜んでいて、それは作法の下で必ず露わにすべきだった。隠し事と沈黙はご法度だ。
数ヶ所ある公会堂で半月ごとにオルシニバレ市民とネルー氏族が腹を割って意見を交わした。紛糾しても遺恨を残さないための討論が徹底的に繰り返される。
ヴィザーツの教育の力で、暴力さえ作法のもとに行われる。一度の会合で殴り合いは三度まで。1年後には互いの事情を知りつくし、意気投合に至る対立者もいた。
感情を乗り越え、究極の妥協に至るのがアナザーアメリカの調停だ。
カレナードは何度も中央公会堂でネルーの若者と膝を交えた。
「牛と山羊だけでなく、あなたたちも水が必要でしょう。特に幼い子供は水の安全は重要です。ネルーは7歳以下で亡くなると精霊に攫われたと言いますね。攫われないために清潔な水が必要です。一つ提案します。必要な水量が分かれば湖から水を引き、ネルー専用の水場を設けられます。検討を願います」
フロリヤはシェナンディ工業の統計を武器に討論に加わった。
調停期間は熱気と共に過ぎて、アレニア奨学生試験も終わった。市は調停完了祭の準備に入り、陽が落ちると祭の電飾が灯された。
カレナードが白い息を吐いて試験会場を出ると、マヤルカが待っていた。
「難しかった?問題を覚えてるならあとで教えて!」
「明日の新聞に全部載りますよ。でも、小論文の正解は分かりません」
「論題は何だったの」
「『遊び』です」
二人は顔を見合わせて小さく笑った。
市民や観光客がそぞろ歩きを楽しむ中、マヤルカは解放感に浸っていた。
「きっと合格よ、カレナード。前祝に蜂蜜入りの熱いワインよ!」
急にカレナードが黙って暗い路地から目を背けた。
「見ないで、お嬢さん。奴らがいます」
五つの黒い影が袋小路の奥にいた。玄街ヴィザーツだ。祭に浮かれた夜に失踪や死をもたらすのだ。
二人は大通りの賑やかな所を進み、大広場の屋台に入った。
「カレナード、よく気がついたわね。危なかったわ」
「視線を感じたんです」
ワインの熱さにもかかわらず、彼は身震いした。
「なぜ玄街は犯罪集団なのにヴィザーツを名乗るのだろう」
彼は屋台から四方に視線を投げた。玄街の気配がまだ気になっていた。