第1章 誕生呪
新緑の季節の昼休み、フロリヤはカレナードに給金を渡しに図書室に行った。
「髪を伸ばしてるのね、カレナード」
「願掛けです。奨学生試験に合格したら、カツラ店で切って売ろうかと」
「その長さならリボンで結べて髷も作れるわ!明日の午後、私と四区の産院へ行くのよ。あなたに誕生呪を聞いて欲しいの。耳と勘のいいカレナード。ドレスを着てね」
「ばれたらどうするのですか!」
「あなた、春分祭の寸劇の女役は最高だったわ。費用も出すわよ、十日分の給金でどう?」
翌日は冷たい雨が降った。カレナードは若い婦人になった。帽子の前に淡色のオーガンジーを垂らせば完璧だ。
マヤルカが「私の男装より出来が良い」と唇を尖らせた。彼女はドレスの裾から覗くブーツを確認した。
「大股で歩かないのよ。古典ダンスを踊るみたいに姿勢良くね。お返事!」
「はい。ダンスですね、マヤルカ先生」
姉たちが出発したあと、マヤルカはその辺にあった淑女の帽子を頭に乗せた。
「彼ったら、あんなに化粧映えするなんて!」
自動車のハンドルを握ったフロリヤは小声で話を切り出した。
「私、生誕呪を唱えようと思えば唱えられるの」
カレナードは息を飲んだ。これは禁忌破りだ。
「大丈夫。自分の奥の部屋を遮音して試しているから誰も知らない」
「そういう問題じゃありません」
「ヴィザーツの生誕呪と私のを聞き比べて欲しいの」
「そんなことしてどうするんですか」
「誕生呪には何か法則を感じるの。魔法じゃないわ。これは私たちの秘密にしておきましょう」
「秘密の共有なんて無理です。僕がこれをネタにあなたを困らせると考えないのですか」
「本気でそれをやる人はそう言わないわ、カレナード」
立会いの時間が来た。誕生呪専用室は壁が厚く、小さな窓は三重で、外の音は全く届かない。別の扉から三人のヴィザーツが入り、無言のまま会釈を交わした。
彼らは広大な六区まるごとを塀と生垣で囲ったヴィザーツ屋敷の住人だ。治外法権を行使し、六区外側に飛行艇発着場を持ち、領国主と領国府の高官以外は立入禁止。オルシニバレの中の異界の住人だ。
カレナードは超然とした彼らを伏し目がちに観察した。
服装は独特で、中年の男女一組は青灰色の長衣に短い上着を着ていた。長衣は両脇にスリットがあり、淡い染めで見知らぬ文様が散っている。上着は年月を重ねた刺繍のため軽快な華やかさがあった。老女は鈍く輝く灰色の長衣に、大きな袖付きのチュニックを重ねていた。簡素な色だが、重厚な挿し色の刺繍が彼女に威厳を与えていた。
「禁忌の向こう側にいる人たち、マリラさまの世界に居る人たちだ」
赤ん坊が運ばれてヴィザーツと見届け人の間の台に置かれた。布に包まれた嬰児は泣き声を上げられないほど弱々しかった。ヴィザーツの老女が嬰児の周りに指をさしながら、小さく何かをつぶやいた。直後に中年の女が誕生呪を口にした。
「Ni.darqiff.yvfana.vincirhuo.ニ・ダーキフ・イファナ・ヴィンチーフォ」
フロリヤとカレナードは全神経を集中した。
赤ん坊は数秒後に大きく息を吸い、元気に泣き始めた。室内の緊張が消えた。
考証役場の役人が日付と時刻を出生証明に加え、フロリヤがサインした。一同は礼を交してそれぞれの控室に戻った。その日は午後の3時間で7回の生誕呪を聞いた。
カレナードは想像した。ヴィザーツは交代で朝も夜もここにいるのだろう。彼らも自分の子供に生誕呪を与えるのだろうか。
雨あがりの空に夕陽の色が美しかった。帰路の車中、フロリヤは胸に下げた紙入れからメモ用紙を出した。
「発音記号で書いて」
「僕はお嬢さんが追放刑に処されるのは見たくありません」
フロリヤは「気をつけるわ」と生返事し、返されたメモを熱心に読んだ。
「私の分析とかなり一致する。有呼吸音が幾つか多い。これはもう一度確かめないと。それから仕草についての考察!誕生呪の効力を及ぼす場所を決めるというのね」
カレナードは後悔した。火に油を注いだようなものだ。
「なぜ、こんなことを始めたのです」