第3章 孤独の香り
女王は両手を胸の前で合わせた。
「なるほど。その時の私は……私人であったのか。仕事を忘れるという間違いを犯したのだな。ジーナ、彼と私の間に何があったのか教えておくれ」
女官長はマリラさまのプライバシーに関わりますから、人払いの後でと宣言した。そして断固として主張した。
「マリラさまが私人の領域で彼と契約を交わしたことは間違いではございません。
私としては、マリラさまにおかれましては私人としてのご自身も大切にしていただきたいのです」
マリラはあっけにとられた。ジーナがこの種の私見を述べるのは初めてだった。
エーリフは女官長に同意した。
「女官長殿は的を得ています。私人のお姿が魅力的であればこそ、公務に立たれるマリラさまは一層美しくございましょう。
私はいつもと違って髪を三つ編みにして垂らしているあなたが大変気に入りました。それに紋章人との間であったことを女官長殿から聞いた時、あなたのなさりようが可愛らしいので…」
ジーナはキッとなって、彼の茶碗をサッと引いた。
「エーリフ艦長、艦橋から緊急連絡です。お早くお戻りを」
それを機に執務室にいた者は席を立った。エーリフはわざともの悲しくエレベーターに向かい、ヤッカは可笑しそうに艦長を見送った。
マリラは粥と野菜スープを少し胃に入れ、静かにカレナードの様子を見に行った。
ジーナはバラバラになった白いドレスを処分するため廃棄箱の蓋を開けた。血染めの袖を畳み、女王がこれをもう一度カレナードに着せたいとねだった時を振り返った。やはり女王は彼を呼んだのだ。彼に何らかの役割を求めているのは間違いない。
しかし、マリラはその記憶を失った。彼を打ち据え、傷つけ、詫びたことを覚えていない。2人の関係は一から築き直すことになる。カレナードはそれを受け入れるだろうか。
「私はマリラさまに酷いことを申し上げてしまった。私的な記憶を持たずに生きておられるのはお辛いでしょうに…。せめて幾つか残せないものかしら……。
それにしても艦長の馬鹿!人形の件は秘密と言ったのに、あの男は!本当に厭らしいったら!」
カレナードはうとうとしていた。夢に瀕死のマリラやウーヴァが現れては消えた。彼は目の前に三つ編みを垂らした女王が居るのに気づいた。しかし、これも夢のうちなのだと思った。夢なら何でも言えると思った。
「マリラさま、あなたに殺されそうでした。僕を呼んだのは殺すためだったのですか。あなたの呼び声は助けを求めていました。傍に居てさしあげるくらいしかできませんが……来ずにはいられなかったのです」
マリラはじっと彼を凝視するだけだった。いつもの彼女と違って頼りなく、戸惑いが滲んでいた。彼にこのようなマリラは初めてだったが、夢の中は何でもありだと勝手な理屈に従った。
「ウーヴァに会いました…真っ黒な…闇が……ガーランドの中なのに大地の匂いがして……」
女王の髪が小さな灯りを受けて淡く輝き、カレナードはマリラを老いた妖精のようだと思った。それでもマリラは美しかった。美しさは慰めになった。
「…三つ編みがよくお似合いです。女王の髪型よりお優しくみえます」
カレナードは夢うつつのまま目を閉じ、また眠ろうとした。マリラが口を開いた。
「私が助けを求めていたと…それでそなたを呼んだと……」
カレナードは目覚め、女王は言葉を探して一度遠くを見た。
「そなたの名は覚えていた。が、他の記憶は失くしてしまった。そなたは私に全てを捧げる契約をしたカレナード・レブラントなのだな」
カレナードはそれが現実と気づいた。そして生き脱ぎでマリラに起こった変化に衝撃を受けた。
「マリラさま……僕はカレナード…・レブラントで…す」
それだけしか言えなかった。女王もまた過去のかかわりを失った相手を前に困惑していた。
「そなたとの間にあった…全てを知らぬ。女官や艦長どもが知っておろう。教えてもらわねばならぬ……情けないと思わぬか…」
女王の唇は震えていた。彼女はカレナードの額に手を当てた。手は冷やりとして心地よかった。
「マ、マリラ……」
「少し熱があるな。そなたはまず傷を直すことだ。休みなさい。要らぬ話で疲れさせたようだ」
去っていくマリラの後ろ姿に向かって声を掛けたかったが、何も言えなかった。そのまま眠りに落ちた。彼女が立っていた跡に、ウーヴァと契約した者の独特の孤独の香りが残った。




