第3章 春分前の1週間
春分まで1週間になった。マリラは潔斎に入り、身辺整理をした。窓の外、眼下に巨大な湖が漣を立てていた。彼女は1年間の女王私事録を読み返した。それほどの分量はなかった。2月半ばの乱れた筆跡を指でなぞった。
「私はなぜか紋章人にむごい八つ当たりをした。分からない…私はなぜあのようなことを……が、この記憶もすぐに失われるか」
やっと雲間から春めいた陽光が執務室の窓にきらめいた。道化がひょっこり現れた。
「お久しぶりでございます。マリラさま」
「ワイズ・フール。雲隠れが長いと、てっきり船から落ちたと思うぞ」
「それはあんまりな。この道化、人手不足にて新参の教官を務めますゆえ、落ちるわけにまいりません」
「お前が教官とは。新参も哀れよ。さぞかし鬼のように扱うのであろう。その格好と化粧で教えるのか」
「滅相もない。小生の正体を知る新参はおりますまい。彼らは道化の存在すら認識していませんからね」
「何を教えるのだ」
「格闘術でございます。まぁ、格闘といっても基礎の体術です。自分がやるのと人に教えるのではわけが違いますから、その勉強をしておりました」
「ふふ、私のヒステリーを避けていたのであろう」
「女王のヒステリーに道化の技は効き目なし。別の癒し手をお求め下さい」
マリラは腑に落ちるものを感じていた。1ヶ月前に道化の顔を見れば問答無用で蹴飛ばしていただろう。
「明日から春分前日まで慣らし授業なれば、小生はこの辺で失礼いたします。次にお目にかかる時は新しいあなたさまでございますな」
「そうだな、ワイズ・フール。教官名は何と名乗るつもりか。本名を使うか」
「まさか。もはや生まれの名を捨てた身とお分かりのはず。では、お健やかに生き脱ぎを終えられますよう、マリラさま」
「また会おう。新参訓練生をよろしくな」
道化は女王があの少年を思い出しているのだろうと思った。
「カレナード・レブラントね、イジメてやりましょ、うっふっふ」
道化が去ったあと、ジーナが声をかけた。
「儀式のお衣装をあらためますが、袖を通されますか」
女王はジレンマを含んだ声で応えた。無茶なおねだりをしたい子供が親の顔色をうかがうような声だった。
「もう一度カレン人形にそれを着せ……たい…のだが…やめておくか…。なぁ、女官長殿」
ジーナは驚いた。やはりいつもの女王ではないと思えた。それから幼児に向けるような微笑みを返した。
「それが賢明でございますよ、マリラさま」
この時、女王が紋章人に会っておけば惨事は免れたかもと、ジーナは後で思い当たるのだが。
道化はエンゾ・ボンゾの名で最初の講義を基礎解剖学にした。円形闘技室に新参訓練生を全員詰め込み、格闘術の基礎はすっ飛ばし、人体の科学的解説を始めた。
シャルが「変な名前だ」と呟いた。カレナードはボンゾの声に聞き覚えがあった。どこで聞いたか考えているうちに、当のボンゾから指名された。
「お手本になってもらおうか。レブラント君」
カレナードは教官の言うとおりに体を動かした。動く人体標本だ。ボンゾは標本を巧みに使い、筋肉や血管の流れを説いていった。
「では、春分明けから皆さんにやってもらう体術では、どうなるか。レブラント、足を開いて膝を軽く曲げる。腰を落として、そうそう、柔らかく立って。エイ!」
カレナードの体は一瞬で回転して背中から転がった。早技にカレナード本人は面食らったが、次の瞬間、ボンゾの拳がみぞおちに落ちてきた。彼はニヤリとした。
「なかなかやる。咄嗟に防御姿勢を取りましたね」
彼の拳をカレナードの左手が止めていたが、間をおかずボンゾは空いた手で拳を止めた左手を捻り上げた。女王の紋章が歪んだ。
彼はカレナードを離し、解説に戻った。
少年はすぐに立って、先の動作を説明する教官にもう一度転がされた。調子に乗ったボンゾは小さく言った。
「お上手、お上手」
その声でカレナードは教官の正体を知った。道化は知られたと察し「余計なことを喋るな」と威嚇の視線を寄こした。
翌日も彼はカレナードを指名した。ミシコが抗議した。
「教官殿、自分も組手をお願いします!」
「部下思いだな、班長さん」
ミシコの次の日はキリアンが、その次はアレクが投げられた。自分の番だとシャルが前に出るのをナサールが止めて、年上の面子を保った。
彼らは明らかに曲者のボンゾからカレナードを守ったのだが、彼を女性として扱ったのか、彼ら自身にも判らなかった。




