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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

茂木安左衛門記是四

作者: 小城

駿府陥落

 義真は今川屋敷に着いた。

「氏真様…。」

早川殿が迎えた。

「(氏真とは誰だ…。)」

義真は困惑した。それは頭の中にかかった靄の中に隠れて思い出せない幻想であった。駿府の最期の拠点である賤機山城は既に武田の将、馬場信春の一隊が間道を通り抜け占領していた。晴信はこの戦いで確実に今川家を潰すつもりであった。

「もはやこれまでか…。」

義真の眼から涙がこぼれ落ちた。その涙は一体何の涙なのだろうか。怒り、悲しみ、憎しみ、寂しさ、あらゆる感情が靄がかった頭の中に生まれる。しかし、靄にかかった頭はそれを処理しきれず涙としてこぼれ落ちる。そんな感じだった。350年続いた武士の名門今川家は今、自分の代で潰える。それらはすべて自身の責任であると義真は思っていた。義真は今、その責任からようやく逃れられようとしていた。その解放感が涙としてこぼれ落ちたのかもしれない。

「今川の家は潰える。俺はここで、果てる…。」

腰に帯びた新藤五国光の太刀を抜いた。この早川殿が輿入れのときに持参した太刀こそが、義真の存在を形作った。そして今その太刀によって義真の存在は断ち切られる。

「氏真様が生きている限り、今川の家は滅びませぬ。」

早川殿はそう言った。その手は必死に今川家に来るとき自らが持参した新藤五国光の太刀を止めていた。

「この太刀を其方ら夫婦の守り刀とせよ。」

今川家に輿入れする際、父北条氏康はそう言った。

「(氏真が生きている限り、今川家は滅びない…。)」

義真という存在を断ち切ったものは、新藤五国光の太刀ではなく、早川殿であった。義真はその言葉にひとつの光明を見出した。

「俺が生きている限り、今川の家は滅びぬ…。」

「はい。」

夫氏真が当主の座と政務の中で自らを見失い、変わっていく中、妻である早川殿は変わらず氏真を見守り続けた。かつて、駿河に来たばかりの自分に氏真が和歌を詠って、蹴鞠を見せてくれた。早川殿は、そのときの氏真の姿を時が経っても変わらず義真の中に見続けていた。それは「今川氏真」という人物を、物や機能ではなく、ひとつの存在として見ていた唯一の存在であった。氏真は当主という座の中で、敵や味方を問わず、周囲の者を物や機能として見るようになっていた。やがて自身のことをも物や機能としてしか見られなくなっていた。そして、生まれたのが義真であった。氏真は消えていた。しかし、早川殿だけは義真の中に氏真を見ていた。その認識の違いが違和感となって、二人の間に流れた。変わったのは早川殿ではなく、氏真の方であった。

「氏真は…。私はまだ生きて良いのか…。」

「はい。生きて下さい。」

氏真は涙を流している。太刀を握るその手に力はこもっていない。


掛川へ

「早く逃げましょう。」

早川殿は駆けて行った。輿にも乗らず、自らの足で。それに率いられるように、散り散りと屋敷の者たちも落ち延びていく。その中には早川殿と氏真の娘もいた。娘は10歳である。

「(ずっと傍にいてくれたのだな…。)」

先頭を駆けていく早川殿を見ながら氏真は思った。氏真も歩いていた。馬は既に駿府に到着したときに倒れていた。

 一行は掛川を目指していた。掛川の城は朝比奈泰朝が守っている。泰朝は変わらず今川の臣であった。こうして見ると、家臣の中には変わらず今川家に奉公をしてくれている者もいた。その一人に一宮随波斎がいた。随波斎は駿府と焼津の境の持船城を守っていた。

「早く逃げられなされ。」

この顎髭を垂らした白髪混じりの男は、僅かな兵の中から氏真一行の護衛を付け、馬を分け与えた。

「儂はここで武田を迎え討つ。」

随波斎の顔と体には膂力がみなぎっていた。

「随波斎殿。よしなに…。」

それは随波斎の身を案じての言葉だったのだろうか。それとも氏真自身の身を案じての言葉なのだろうか。

随波斎は死を決していたのだろう。足利将軍に仕え、戦にも馳せ参じた弓馬礼法家。氏真は今、生きようとし、随波斎は今、死のうとしている。

「短い間ではあったが、愉しかったぞ。若僧よ。」

氏真一行は持船城を後にした。「生きろ」。随波斎の言葉は氏真にそう言っているかのようであった。

 翌日、氏真ら一行は掛川に着いた。掛川城主朝比奈泰朝はすぐさま主君らを城へ上げて、守りを固めた。氏真一行が掛川城に到着して、10日程して、徳川家康が掛川城を包囲した。

 徳川勢は、翌年の正月より本格的な城攻めを始めた。最初は10日で落ちると言われたこの城は2月になっても落ちることはなかった。

「(何とか生き延びるぞ。)」

「今川氏真」という一個の存在を意識し始めた氏真は変わった。新たな責任も感じていた。「今川家当主」としての責任ではなく、一個の「今川氏真」としての責任だった。それは「自らの、妻の、将兵たちの命を守ること」であった。氏真は生き延びる道を模索し始めた。相模に書状を送り妻の実家である北条家に助けを求めた。既に北条家は駿河で武田家と対峙していた。そんな中、駿河で武田軍に抗戦し敗れた将兵が高天神城主小笠原氏助を頼って逃げて来たところ、既に徳川家に内応していた氏助に一族郎党もろとも討たれるという事件が起こった。その中の一人に三浦右衛門佐義鎮がいた。

「すまぬ。右衛門…。」

氏真は高天神城の方へ向かって合掌した。かつて三浦右衛門佐は、政務に追われる氏真を気遣い、勝手に政務を回していた。やがてはそれが右衛門佐の専制を生んでしまった。義鎮の死を知ったのが「今川義真」であったならば、どうだったのであろうか。しかし、ここにいるのは氏真であった。氏真は一人の人として三浦右衛門佐義鎮の冥福を祈った。それら今川家当主の変化が城兵たちに伝わり、ここまで城を持ちこたえさせているのかは分からなかった。こんなこともあった。2月下旬。徳川勢と今川勢の間に激戦が起こった。徳川の将兵は今にも城内に押し寄せて来る勢いであった。それを見ていた氏真は槍を取り、自らも戦場に向かおうとした。それを泰朝が止めた。

「主はここでご覧あれ。」

泰朝は手槍を持って駆けて行った。

「(やはり、あのとき見た月明かりは氏真様にござったか。)」

泰朝は攻めてくる徳川の兵を次々と槍で突き伏せていく。夜半に信虎の謀叛を氏真に告げに行った際、屋敷の外で太刀を振っていた者。それは氏真だったのだろう。しかし、今の主君はあのとき見た氏真とは違っている。

「(覚悟ができたようなお顔だ。)」

それでいて、どこか柔和な顔をしている。一人、二人、三人…と槍で突き伏せていくと、名のある武者と手合わせしたが、勝敗はつかず、槍が折れてしまったため、刀を振るって城内に戻った。あとで聞くとそれは石川数正という徳川の将兵であった。

「(あの者どこかで見覚えが…。)」

その姿を氏真は遠くから見ていた。石川数正はかつて、人質として徳川家康が駿府へ来たとき、ともに家康に付き従っていた一人であった。

「三河の小せがれもやりおりまする。」

泰朝が帰って来るなりそう言ったのを聞いて、氏真はふっと笑ってしまった。

「今川はやりおる。」

徳川家の間でも認識が変わってきた。

「武田もきな臭い。」

武田軍は駿河で北条軍と対峙していたが、遠江へも手を出すような構えを見せていた。今川と同盟関係にある北条家の動きも侮れない。

「早めに手を打つか。」

永禄12年3月。徳川家康は今川家に和睦を申し入れた。それには氏真の身の保証と武田を駿河から追い出した後の駿河国の氏真への譲渡が言い渡されていた。

今川家は和睦に応じることにした。4月には、戦線の膠着から武田軍が駿河から撤退し、翌5月。徳川家と今川家の交渉を経て、掛川城は開城した。そのとき、氏真は家康と会った。

「(家康殿。)」

家康は深々と頭を下げながら氏真を迎えた。それは、かつての主君の息子への礼だったのかもしれない。駿府から掛川城に逃れてから、不思議なことに氏真の頭の中を覆っていた靄は次第に晴れていった。

「(さて…。)」

曳馬城を攻めた際、あれほど自分の頭の中の靄を晴らす存在だと思っていた家康にやっと会えたが、氏真は何も感じることはなかった。既に頭の靄は晴れかかっていた。

「お懐かしゅうございまする。」

家康はそんなことを言った。一方の氏真はかつての同門との再会は感慨深くなることもなく、驚くほど淡白なものであった。数日後、氏真らは北条家の兵に迎えられて、遠江掛塚湊から海路、伊豆へ渡った。


相模国

「太刀筋が変わられましたな。」

掛川籠城中に一度だけ、安左衛門と手合わせをしたことがあった。

「太刀に心が入られました。」

安左衛門はそう言った。

それ以来、太刀は握っていない。掛川城を退去してから、氏真らは駿河国との境にある伊豆国戸倉城に身を寄せていたが、しばらくして、駿府が武田家の手に帰すると相模国小田原に移った。

「(頭の痛みも安らいできた。)」

今は義弟北条氏政に与えられた屋敷に暮らしている。小田原に来てまもなく、氏真は氏政の子国王丸を名目上、養子とすることになった。これは北条家が駿河国の名目上の国主たり得るためでもあった。

「(もはや国などどうでも良いか。)」

頭の靄も最近では消えていた。早川殿が氏真に言った「氏真が生きてさえいれば、今川家は滅びない。」その言葉が氏真の中に生きていた。氏真は以前のように、和歌や蹴鞠を楽しめるようになった。北条家の者とも親しくすることがある。その中の一人に板部岡江雪斎という者がいた。もとは伊豆下田の田中泰行の子であったが、跡取りのない板部岡家を継いで板部岡江雪斎と名乗っていた。江雪斎は和歌や書画にも長けており、北条家の外交や右筆を担っていた。江雪斎は茶の湯を好み氏真と茶会の席を共にすることもあった。

「実に穏やかな空ですな。」

真言宗の僧でもあったと言われるこの痩せた人物とは、後年、氏真が豊臣秀吉の御伽衆になったときに再会する。江雪斎もまた、北条家滅亡後、秀吉の御伽衆となっていた。氏真が小田原にいた頃、江雪斎に一振りの刀を見せられたことがある。

「これは左文字の刀でしてな。」

後に江雪左文字と呼ばれるこの刀は、今から200年程前の左文字源慶と呼ばれる人の作品であった。

「(左文字の刀。)」

亡き父義元も左文字の刀を所持しており、差し料としていた。

「(あれはどうなったのだろうかな。)」

江雪斎がそのことを知っていたかどうかは知らない。おそらくは知らなかったであろう。

「お帰りなさいませ。」

早川殿が迎えた。隣には娘がいる。駿府ではあまり妻と娘と共に過ごす時間もなかった。夜半には密かに太刀を振っていたからである。小田原に来てから妻と娘が愛おしく思えるようになった。かつて抱いていた違和感も今はもう感じない。それは周囲を物や機能としてしか見ていなかった義真と違って、今の氏真は妻や娘、自分も含めたその他のものも、ひとつの存在として捉えることができるようになったからである。

「(可愛らしいな。)」

氏真は妻と娘の顔を見た。翌年、長男が生まれた。名を「五郎」とした。この頃、京都では、織田信長が将軍足利義昭を奉じて上洛。義昭の奏上により、世は永禄13年改め元亀元年とされていた。


氏康

長男の五郎が生まれるのと時を同じくして、義父北条氏康が病に倒れた。中風だった。年が明けて早川殿の体も回復した頃、二人で見舞いに行った。氏康は床に伏せていたままであった。

「(この御方には世話になった。)」

駿府が武田軍に襲われたときも援軍を出してくれたのは氏康であった。当時、北条家当主は既に氏政であったが、娘の惨状を前に、武田家の敵である上杉家と同盟を結び、すぐさま出兵してくれた。掛川城へも別隊を派遣してくれた。そして、今、氏真らは北条家の保護下にいる。

「義父上。お気を確かに。」

氏真が氏康の耳元でそう囁くと氏康は一言何かを言ったように聞こえた。

「(すまぬ。)」と。

元亀2年の10月。氏康はこの世を去った。

「儂が死んだら上杉との同盟を破棄して武田と同盟を結べ。」

と遺言したという。それは器量のない子氏政と国を守る最後の言葉であったのだろう。氏康の遺言通り、氏康没後、北条家は上杉家との同盟を破棄して、武田家と同盟を結んだ。甲斐の武田晴信は氏真を暗殺せんとする一団を小田原に派遣したという。

 月明かりもない新月の夜。氏真と早川殿が住む屋敷に訪問者があった。

「客人にございまする。」

宿直の茂木安左衛門が取り次いだ。江雪斎だった。

「夜分遅くに申し訳ありませぬ。」

「構いませぬ。何用ですかな。」

火急のことに相違ないだろうと思った。この元僧だと言われる人は名が似ていることもあるのか、かつての師雪斎和尚のように賢く頭の切れる男であった。北条家からの信頼も厚かった。江雪斎が伝えたのは北条家と武田家の同盟の一件だった。

「(あの時の義父の『すまぬ』とはこのことだったのか…。)」

「氏康様は前々からこうなった暁には、氏真様と奥方様に伝えるようにと、某に申し付けられておりました。」

氏真は義父の最後のやさしさだと思った。

「湊に船を用意してあります故、お逃げ下され。」

江雪斎は夜の闇に消えていった。

「お話は聞いておりました。」

早川殿がいた。

「用意はできています。」

氏真と江雪斎が話している間に旅支度を整えていたらしい。

「(どおりで屋敷内が騒がしいと思った。)」

氏真が外に出ると朝比奈泰朝が立っていた。泰朝もまた掛川から小田原へと氏真に付き従って来ていた。

「湊までご案内仕りまする。」

蝋燭の明かりの中、泰朝を先頭に一列に歩いて行く。

「(妙に手際が良すぎるな。)」

もとより氏康云々の話は、江雪斎の建前かもしれない。妻や泰朝も知っていたようである。案外、本来は氏真だけを亡き者にして早川殿は北条家に戻すというような話であったのを妻が聞き入れず、折れた江雪斎が逃亡の片棒を担ぐことになったのかもしれない。

「(十分あり得ることだな。)」

早川殿のことを考えるとそう思った。かつての義真ならば、これは北条の罠だと疑っていただろう。しかし、今の氏真は夜間のこの逃避行を楽しんでいるようでもあった。

「着きましてございまする。」

泰朝の足が止まった。人々は皆、荷物とともに船に乗り込んでいる。最後に泰朝だけが残った。

「実に勝手ながら泰朝めは北条家に残りたく存じまする。」

朝比奈泰朝は武士だった。武士は主君に仕え知行を食む。戦に参加する代わりに所領をもらいあるいは既存の所領を保証してもらうのである。今の氏真には与える領地も保証する力もない。泰朝に至っては既存の所領である掛川はもはやなくなってしまった。そして、今、船に乗って落ち延びる主君に付いていったところで新たな所領が与えられる保証はない。掛川籠城での徳川家との戦いを聞いた北条家から仕官の話が泰朝に来ていた。

「泰朝よ。今まで私を助けてくれたこと、実に有難いことであった。礼を申す。」

氏真は今川家当主としてではなく、一人の今川氏真として言った。泰朝はずっと頭を下げたままいる。その目に涙が浮かんでいたのかどうかは定かではなかった。その後、風の噂では、朝比奈泰朝は北条家に仕え、北条家が滅びた後は、常陸の佐竹家に仕え、佐竹氏の秋田転封に伴い、自らも秋田に従ったとかいう話である。

この小説はフィクションです。

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