☆キョリカン
猫又のナツメが、那月の家に居着き、数日が過ぎた。
同じ職場、同じ職務ということもあり、朝は同じ時間に起きて、同じ時間に出勤し、同じように帰る。
常にお客のいるホテルという職務上、日勤と夜勤で分かれることも多いが、基本的な動きはお互いに理解しているので、業務に大きな問題が生じることは無かった。
「……あの、先輩」
「ん、なんだ、後輩」
「ええっと……な、なんでもない、です」
問題が起きているのは、私生活上。
特に那月が困っているのが、ここ数日のナツメの距離感だった。
(……近い、近いよ!?)
近い。とにかく近い。
なぜか事あるごとに身を寄せ、飼い猫のようにすりすりと頭をぶつけてくることすらある。
猫の姿ならまだいいが、相手はこちらに気を使っているのか、猫耳と尻尾のみを残したほぼ人間の姿で過ごしているのだ。
距離が近くなれば、甘い香り、囁かれる声が強く那月の感覚に触れ、それだけでなく女体の柔らかさまでもダイレクトに押しつけられてくる。
平たく言えば、健全な男子としては嬉しいやら困るやら、という状況だった。
今も、状況としてはただ週刊誌を読んでいるだけなのに、やたらと近い。肩をひっつけるどころか、半ば以上もたれかかっている。
(……柔らかい!!)
そのせいで胸が完全に当たってしまっているので、那月はまったく本の内容が頭に入ってきていない。ただなんとなくページをめくってしまっている。
「……あ、あの、先輩」
「む、なんだ後輩。やはり、吾輩になにかして欲しいのか?」
「い、いやその、なんでそんなに近いのかなって……」
「ん、これか? いやなに、親睦を深めるにはまず距離感を縮めるのが大事だということで、こうして」
「縮むのが早すぎませんか……!?」
ツッコミを入れたところで、猫又は首を傾げるだけだった。
野良猫生活が長かったナツメにとって、そういう機微は理解できないのだ。
しかし、そんな彼女でも相手の反応を見れば今の自分の行動が正解では無かったのは察せられる。
「む……少し、迷惑だっただろうか……暑苦しい?」
「い、いえ、迷惑じゃ無いんですけど、その……ああ、うぅ……」
那月は言葉に迷ったが、ハッキリ言うしか無いのだということはもう分かっていた。
目の前にいる相手が素直で、けれど世間知らずで、だからこそこちらはしっかりと言葉にしなければ伝わらないと、那月はもう知っている。
けれどそれは、自分の気持ちを包み隠さず語ると言うことで。
「……先輩みたいな綺麗な人が、近くにいると、その、ドキドキするので……う、嬉しいけど落ち着かないというか……」
羞恥心を堪えながら自信の心情を吐露した結果。
「なるほど、つまり交尾か!?」
「違います!? もうちょっと離れて欲しいんです!?」
欠片も伝わっていなかった。
「む、違った……ああ、そうか、後輩はすぐ交尾しないニンゲンだった……」
「人間をすぐ交尾するかしないかで大別するのやめません?」
「む、でもほら、ウチに来るお客さんもすぐ交尾するのと、すぐ交尾しないのとがいるじゃないか」
「そうですけどね……というか覗き良くないですよ!?」
「……にゃおーん」
「都合の良いときだけ猫に戻ってる……」
惚れた弱みなのでお茶目なところも可愛いと思ってしまうが、わりと問題としては深刻だ。
手を出しても良いとハッキリと言われていても、那月の気持ちは流れることをよしとしていない。
けれど、現実問題として毎日好きな相手といっしょにいて、過度なスキンシップまでされれば我慢の行き所もなくなってきてしまう。
「とにかく、ほどほどで、嬉しいんですけど、ほどほどでお願いします……」
「にゃーん……」
手を出さないことで相手に対しての誠意を示している那月。
しかし、そんな彼の態度を、ナツメは少しだけ不満に思っていた。
(こうまで拒否されるということは吾輩、メスとしての魅力がまったくないのでは……?)
自分でも露骨だと思うほどに相手にひっつき、男が大変喜ぶと過去にお師匠から聞いた胸を押しつけたりしているのに、『そういった』行為に発展するどころか、離れろと言われてしまった。
自然界では、オスとメスの交わりもまた厳しい。無理矢理というのも珍しくは無いが、それはつまり相手を強く求めているという証左でもある。
(たしかに吾輩、不埒なオスどもを自慢の爪でなぎ倒していたので、経験はまったくないのだが……)
それにしても、もう少しくらい靡いてくれても良いのではないか。
そんな気持ちが出てきてしまう程度には、ナツメは自分の行動の成果がでないことを寂しく思っていた。
実は強力に効いていることに気付かず、手を出されないことで逆に不安になってしまうその姿は乙女心に翻弄される女性そのものなのだが、本人(本猫?)は自分の気持ちに気がついていなかった。
「……後輩、そんなに吾輩には魅力が無いだろうか?」
「そ、そういうわけじゃないです! ぜったい、むしろ好きだから手を出せないというか、だって騙しているみたいで……!」
これで流されてしまったら、人間のことを教えて、その代わりに身体を要求するようなものではないか。そんな思いが、那月を踏みとどまらせていた。
「……本当に?」
「本当です!」
「……吾輩のこと、好きか?」
「すっ……す、すき、です」
「……なんだろう、むずむずする……にゃ、へへ……」
ふにゃり、と自然と頬が緩むのは、彼女にとって初めての感覚だった。
人のいる場所で過ごし、仕事を得て、少しだけ近くで人を見てきた彼女だが、交わるのははじめてで。
他人から与えられる感情の揺らぎには、まだ不慣れなのだ。
「……後輩、吾輩はキミと交尾しても良いと思っている」
「ぼ、僕はそういうのまだ早いと思ってます」
「じゃあ……こうしよう? 吾輩、ニンゲンたちがしている、口と口をひっつけるやつがしたい」
「そ、それって……」
「……ニンゲンのこと、教えてくれるんだろう?」
覗き込んでくるのは、どこか蠱惑的な猫の瞳。
妖しい輝きに吸い込まれるように、那月はナツメに手を引かれた。
「んっ」
「むぐっ」
唇の柔らかさを、堪能するいとまは無かった。
こつん、とふたりの歯が当たり、お互いに痛みを得る。
硬い感触に驚いて、ナツメは口を離してしまう。
「……分かった、ゆっくり、だな」
「あ、ちょっと、せんぱ……む……」
「ん、ぺろ……はむ」
キスというよりは、唇を味わうような接触。
猫又は彼の唇を舐め、甘く食むようにしてくわえた。
昼食の塩気と、体温、そして唾液。舌の上に乗ってくる情報は多く、不快では無い。
「……ん」
今度は急がず、名残惜しむように顔を離す。
目の前にある相手の顔を見て、猫又はゆっくりと瞬きをした。
「不思議な、味……それに、舌だけじゃ無くて……全身が、ぞわぞわ、するみたいな……でも、嫌じゃないな……?」
「せん、ぱい……」
「……今度は、後輩から、ね?」
「っ……あ……」
建前は、既に用意されてしまっている。
流されていることを自覚しながらも、那月はすでに、その柔らかさを知ってしまった。
誘われるがままに唇を重ねれば、感触がもう一度やってくる。
「ふ、にゃぁ……」
漏れてくるナツメの呼吸を食むと、熱っぽく、甘いものが鼻から抜けた。
心臓の音がけたたましく鳴り響き、沸騰するのでは無いかと錯覚するほどに、血流が身体を熱くする。
唇が触れ、ただお互いの味を少し感じるだけの口づけは、長く、深く、心を閉じ込めるかのように離れがたかった。
「……ぷはっ」
呼吸の限界を感じ、唇を離せば、那月の目の前には先ほどよりもずっと熱っぽい顔をしたナツメの顔がある。
「せん、ぱい……ど、どう、でした?」
「ん……那月くんにされる方が、ドキドキする」
「そ、そう、ですか……」
「……良かったら、これからも時々、してくれるか? 吾輩、まだこのドキドキが、よく分からないから……」
「わ、分からないなら、し、仕方ないですね」
「……うむ、仕方ない、のだよ?」
かくん、と小首を可愛く傾げられ、那月はすっかりほだされてしまう。
こうしてふたりは、はじめての口づけを交わしたのだった。