☆人と妖怪の線引き
「というわけでな、後輩。吾輩、お師匠様にガチ説教を喰らった」
仕事の休憩時間に声をかけられて、那月は首を傾げた。
「お師匠様、ですか」
「お陰で遅刻ギリギリになってしまった……すまないな、あまり手伝えなくて」
「あ、いえそれは全然……むしろ先輩の方は大丈夫なんですか?」
「うむ、せいぜい朝のお説教の声がまだ耳の奥に残っているくらいのものだとも」
午前中、ややげっそりした様子で仕事をしているナツメを心配に思っていた那月だったが、謎が解けた。
「お師匠様は吾輩にニンゲン社会に溶け込む方法を授けてくれた恩のある御仁なのだが、年寄りなので話が長い上に怒ると声が大きくてなぁ……」
「その、お師匠様っていうのも、妖怪なんですか?」
「うむ。後輩は聞いたことが無いか、阿波の金長狸や、屋島の太三郎狸、松山の隠神刑部……いわゆる、狸伝承とかそういうやつなのだが」
「ああ……」
地元育ちの那月にとって、それは聞き覚えが多々ある話だった。祖父や祖母が語って聞かせてくれた、旧い伝承としての狸妖怪。
特産品にも狸をイメージした商品が多く、山でもよく見かける。狸はそれくらい、那月の地元では身近な存在だった。
「この辺りは狸系妖怪が強い土地でな。この温泉宿がある山も、狸妖怪であるお師匠様が仕切っているというわけだ」
「そのお師匠様に、どうして怒られることになったんですか?」
「うむ、ちょっと那月くんに正体がバレして、つがいになる代わりに観察させて貰うことを話したら怒られた」
「やっぱりマズかったんじゃないですか!?」
「吾輩的には名案だと思ったんだけどなあ……で、お師匠様が様子を見に来るといって、今キミの頭の上に乗ってる」
「へ……うわっ!?」
言われて頭に手を伸ばすと、もふっとした感触があった。
驚きの声をあげた那月の頭から、深い茶色をした毛玉が転がり落ち、着地する。
その毛玉はすぐさま起き上がり、つぶらな瞳で那月を見上げてきた。
「……た、たぬき?」
「うむ、吾輩のお師匠様。名を銀二郎という」
「た、ただの狸にしか見えないんですが……」
「たわけめ、儂がそこの未熟者のように人の姿を取る必要があるか」
「うわ、やっぱり喋るんだ……!?」
目を白黒させた那月を見上げ、狸は流暢な日本語を操った。
既に猫がよく知る相手の声で喋る姿を目撃している那月だったが、やはり目の前で起きている現象がやや信じられない。
そんな那月の戸惑いなどお構いなしに、狸はそのままナツメの方に視線を向け、
「ナツメ。お前、何度も言ったじゃろうが。気をつけろと」
「ははは、面目ない。お酒は怖いと思い知りましたぞ。次から気をつけます」
「手遅れになってから気をつけても遅いじゃろが!!」
ふしゃー、と威嚇の声をあげて、狸がナツメを叱る。
叱られている方は慣れているのか、笑顔で受け流した。
「ったく……ニンゲンにバレたなど、一番致命的なことを……」
「ご心配なく、お師匠様。そこにいる那月くんは吾輩に惚れているらしいので、黙っていてくれるでしょう」
「……なあ、おぬし、この脳天気バカ猫のどこがええんじゃ、乳か?」
「ええっと……まあその、いろいろ……っていうか本人を前に言えるわけないじゃないですか!?」
「なんじゃ、乳か……」
「乳以外もいろいろです!?」
うっかり胸の方を見てしまって性癖が看過されてしまったが、さすがにそれだけだといろいろ誤解を生みそうなので那月は慌てて首を振る。
ナツメにお師匠様と呼ばれた狸、銀二郎は、やたらと人間臭い調子で溜め息を吐いて、
「まあ、既に呪印は結んだ。既におぬしはナツメの正体を他人に口外できぬ」
「あ、さっき頭の上に乗っていた間に……?」
那月はまったく気が付かなかったが、どうやら既になにかしらの保険はかけられているらしい。
「なに、言わねばなにも問題は無い。言おうとしても、意識を失う程度で済む」
「……お師匠様。なにも、そこまでしなくても良いのでは?」
「山で起きる問題は儂が収めなければならぬ。そうでなくては、他の妖怪どもも納得せん。お前がうっかり人里に降りようとしたとき同様にの」
用事は終わったとばかりに、銀二郎はふたりに背を向ける。
別れの挨拶もなく距離を取り始めた狸を、那月は引き留めた。
「あ、ちょっと……」
「忘れるな、那月とやら。ニンゲンと我らは違う。生きるルールが違い、それでも同じ山で生きている。故に、我らは棲み分けをしている。それでも、と言うのなら……相応の積み重ねが必要になる。ぬしにも、そこの脳天気な娘っ子にもな」
今度こそ、狸はふたりの前から消えた。それも煙のようにするりと、瞬きの時間すら必要とせずに。
「驚かせてすまないな、那月くん。あれが吾輩のお師匠様。昔、まだ右も左も分からない猫又になりたての頃、好奇心に任せて全裸で人里に降りようとした吾輩にガチ説教をして、道を示してくれた御仁だ」
「あ、それはかなり怒られますね……」
過去に起きた事件がなんとなく想像が出来てしまい、那月は微妙な顔で頷いた。
「にゃあ……まあ、今回のは吾輩が悪いな。那月くんが呪われるようなことになってしまったことは、すまないと思っている」
「いやまあ、呪いっていってもそんな危ないものじゃないみたいですし、大丈夫ですよ」
話を聞く限り、ナツメの正体を誰かに話そうとすると意識を失うという呪いで、命に関わるようなものではない。
わざわざ警告の言葉を置いていったことも含めて、ナツメの『お師匠様』が優しさから動いていることを、那月は十分理解していた。
「それに、あの人……ええと、銀二郎さんは、僕と先輩に離れろとは言いませんでしたし、ナツメ先輩がしたいことも、認めてくれてるように思います」
「うむ、お師匠様は厳しいが、優しい御仁でもあるからな。……ところで那月くん、ひとつ頼みがあるんだが」
「あ、はい。なんですか?」
「改めて、キミのお宅にお邪魔しても良いだろうか」
「え……」
言葉の意味を理解した那月の心臓が跳ねた。
(……落ち着け)
舞い上がりかけた自分の心を、那月は落ち着かせる。
相手はこちらの観察が主だった目的なのだと、自分自身に言い聞かせ、後輩は口を開いた。
「……ええと、人間の家を観察したいとかそういう」
「ん、いやまあ、それもあるのだが……なんというかな。改めて飲み直したいというか……ほら、この間はお互いにすっかり酔っ払って寝てしまったであろう?」
「う……そうですね……」
ナツメの正体が露呈する原因になった、那月の自宅での飲み会。
お互いにはじめての飲酒で、ナツメは興味津々、那月は舞い上がっていた。
そうしてお互いに己の限界を理解できず、いつの間にか酔い潰れたのだ。
「この間の酒は、正直失敗したと思っているが、後輩といっしょにお酒を飲むという行為は……なんだな、高揚というか、うっかり歯止めを忘れてしまうくらいには楽しかったのだ」
「……先輩」
「うん、だから、改めて楽しさを知りたいというか……何度か繰り返して、新しい発見があるのもまた、楽しいものだろう?」
「…………」
屈託なく笑う先輩を見て、那月は自分の心臓の鼓動が強くなるのを自覚する。
(ああ、この人は本当に、楽しもうとしてるんだ)
正直なところ、今日までの那月は戸惑いや、理不尽な気持ちが強かった。
自分の恋心を無意識に弄ばれているような、どこか悔しい思いが、彼の中にはあったのだ。
(この人は……一緒に楽しもうとも、してくれてる)
相手の顔を見れば、嫌味がないことは分かる。
つがいになる、交尾もするという言葉も、弄んでいるわけではなく、軽い気持ちでもなく、ただそれが『相手が望むから叶えたい』という、純粋な気持ちから来ているのだと、那月は理解した。
自分が望みを我慢しないように、相手も望みを我慢しなくて良いという、我が儘の肯定。
それは猫の自由さで、けれど人と同じように分かち合おうとする姿勢でもあった。
「……分かりました、先輩。じゃあ、えっと……今日、とか。どうですか?」
「お、あれだね、善は急げというやつだね!」
無邪気に笑う先輩の姿を見て、那月は改めて自分の恋心を自覚した。