☆仲直りの先に
「……その、落ち着きました?」
「うむ。吾輩、もう充分落ち着いているとも」
仲直りして、家に戻ったふたりは、どちらともなく笑った。
いつの間にか銀二郎の姿は消えており、師匠からの計らいだと理解したナツメは、家に戻ることを提案したのだった。
「……なんだか、こう、凄く久しぶりに戻って来たような心地だ」
実際に、彼女がアパートを離れた時間は数時間。
それでも、もう二度と戻ることはないと覚悟をした上でのことだった。
「……吾輩、意志の弱い女であるなぁ」
「いえ、引き留めなかったら本当にいなくなってましたから、そういうわけでは……」
「では、後輩の意思が吾輩よりずっと強かったと思っておこう」
フォローしてくれる相手のことを照れくさくも有り難いと思い、猫又は頷いた。
時刻は昼を回った頃で、窓からは日の光が差し込んでいる。
「あ……」
ぐう、と盛大に腹の虫がわめき、那月は空腹を自覚した。
徹夜明けの上、銀二郎に連れられて山を走ったのだから、胃の中になにもないのは当たり前のことだった。
「ん、まずは食事からだな。那月くんは座っていてくれ」
「あ、僕も手伝います」
「良いから。吾輩がしたいのだ。……彼女が失敗を挽回しようとしているのだから、やらせてくれ」
「……分かりました、そういうことなら」
むん、とやる気を見せる恋人の姿を可愛いと思いながら、那月は素直に頷いた。
自分の言葉通り、ナツメは全力で腕を振るった。
それはまだ拙く、少なくとも自分が働いている旅館の料理係には遠く及ぶような腕では無く、それでも丁寧だった。
少しだけ不格好で、思ったよりも時間がかかって、それでも、彼の好みをなぞった、軽い昼食。
豆腐とわかめの味噌汁に、きんぴらごぼう、メインは鮭とキノコのバター焼き。
「……すまない、お待たせした」
「大丈夫ですよ、ありがとうございます」
大きめの茶碗にしっかりと盛られた白米を受け取って、那月は顔をほころばせる。
「僕が好きなメニューですね」
「……本格的に惚れてしまう前のことでも、案外、覚えているものだよ。食後にはチョコレートも出そうかな」
「ふふ、至れり尽くせりだ。なんでも許せます」
「那月くんは、吾輩にちょっと甘過ぎやしないかね……」
好きなのだからしょうが無い、と言おうとしたところで、匂いに誘われて再び那月の腹が空腹を訴えた。
「……遠慮しなくていいから、食べてくれ」
「はい。いただきます」
促されるままに手を合わせ、那月は箸を手に取った。
鮭を崩し、口に運べば、甘い香りと塩気が舌の上でほどける。
「……美味しい」
「ん、良かった」
言葉に安堵して、ナツメもまた、自分の食事へと手を着けた。
米に合うメニューということもあり、那月は一度おかわりを挟んで、あっという間に完食してしまう。
遅れてナツメが食事を終え、食器が片付けば、ふたりの間には緩やかな空気が流れた。
「……その、そっちに行っても良いだろうか」
「はい、喜んで」
恋人からの要望に両手を広げて応えると、猫又の細くしなやかな体躯が、するりと膝の上に収まる。
ぎゅ、と背後から抱きしめられることを、ナツメは幸いだと感じた。
「……ああ、やはり離れがたい。我ながら、なんとも……その、デレデレになってしまった……」
「尻尾、ふわふわしてますもんね」
「……止められないのだ」
尻尾で機嫌を判断されることが恥ずかしいと思いつつも、ナツメはその場を離れない。伸びてくる手からも、逃げない。
「にゃ……ん……」
首の下を撫でられると、ごろごろ、と喉の奥が鳴った。
「うぅ、あまりそうやって、飼い猫みたいにされると……」
「嫌ですか?」
「……嫌じゃないけど、ちょっと、恥ずかしいし……もっと、恋人みたいなことも、したくなってしまう」
「じゃあ、恋人みたいなことをしましょう」
くい、と顎を引かれるのが口づけの合図だと、猫又はすでに知っている。
柔らかい感触を交換し、体温を分け合う。塩気を少しだけ感じるのは、昼食のせいだと猫は思った。
「……も、もう、い、いきなりばっかりだ、今日は……」
「ナツメ先輩だっていきなり別れ話しましたし、おあいこということで」
「……それは、その、そうだけど」
バツが悪くなり、ナツメはぷい、と顔を背ける。
それでも、尻尾の揺れは猫の嬉しさを包み隠せない。
(これは吾輩、もう一生彼に敵わないかもしれないであるな……)
湧いてきた思考さえ、嫌だと思えないのだから相当だった。
顔を見られるのは恥ずかしい、けれど離れたくはない。無言のアピールを、那月はきちんと理解していた。
「先輩、可愛いです」
「も、もう、分かったからこれでも食べていたまえ!」
「むぐ」
相手が振り返ると同時に、唐突に口に突っ込まれた甘さを、那月は素直に舌でほぐした。
「……チョコレートだ」
「食後に出す、と言っていただろう」
恥ずかしい言葉を紡ぐ口を、黙らせてやった。
してやったり、という顔をする恋人を、彼はじっと見つめて、
「……先輩、チョコレート平気でしたよね」
「うむ、猫又になると身体の構造が変わるので、猫のときは食べられなかったものも平気になる」
「じゃあ、分けてあげます」
「ふにゃ? ……んむっ!?」
不意打ちで二度目をされて、猫又は目を白黒させる。
ぬる、と唇を割って入ってきたものは、あたたかく、甘かった。
「にゃ、んんっ……ぷはぁっ」
「ん……先輩、可愛い。好きです」
「っ、だ、だから、分かった、から……吾輩だって、好きだからぁ……」
「ん、ちゃんと分かりました? もうどこにも行きません?」
「……行けるわけ、ないじゃないかぁ」
相手が不安で、だからこそ求めてくる。
そのことが分かっているからこそ、ナツメはそれを受け入れるしかない。
「少し触られて、キスされただけで、こんなにどきどきして、腰砕けで……こんなの、もう絶対に逃げたりとか、考えられないっ……」
「良かった。実を言うと、僕の方はまだ落ち着いていなかったので」
「むぅ……那月くん、ちょっと我が儘になったであるな」
「先輩は、ちょっと押しに弱くなりましたね」
「……後輩を振り回さなくなった先輩は、嫌い?」
「いえ、大好きです。これまでのあなたも、これから変わっていくあなたも、ずっと」
「……にゃあ」
生きとし生けるものは、明日のことさえも分からないと、猫は知っている。
それなのに、彼の言う『ずっと』は、信じられてしまう。
自分が簡単になっていることを理解しながら、ナツメは自分から恋人へ唇を寄せた。
「……吾輩も、ずっと好きだ。キミのこと、ずっとずっと、愛し続ける。だから……その……ずっと、そばにいて?」
「ええ、もちろんです」
寄り添い合うふたりは、いつの間にか眠りに落ちた。
今度こそ、離れないという約束を、お互いの両手で結んで。