☆棗 那月のとまどい
棗 那月は、山奥の温泉宿で働いている。
家から近く、まかないがつき、子供の頃に何度か家族で泊まっているので雰囲気も知っている。そんな理由で応募した宿の従業員という仕事は、辺鄙な場所で人手不足ということもあり、あっさりと採用となった。
細やかな性格の那月は内装係という役割を与えられ、日々を過ごしている。主な業務は清掃や、アメニティの準備などだ。ホテルという二四時間お客がいるという職務上、夜勤も多いが楽しくはある。
特に温泉宿では、大浴場の清掃は早朝に行う大事な業務のひとつである。
デッキブラシを持ち、床の湯垢を自分の汗を混ぜ落としながら、彼は労働に勤しんでいた。
「はぁ……」
頑固な汚れを落とし、一息を吐く。
「おはよう後輩、今日も頑張ってるね」
「うわっ」
その背後に、唐突に気配が現われた。
慌てて振り向けば、そこには憧れの先輩がいる。
「ナツメ先輩……って、その姿……」
今まで見たことの無いパーツに、那月は目を白黒させる。
デッキブラシを片手に仕事着の彼女から、猫耳と尻尾が生えていた。
「もう、那月くんの前ならあまり気負わなくて良いだろう。吾輩も完全に人間の姿を取り続けるのも疲れるから、今後ふたりきりのときはこれで行かせて貰おうかと思う」
ぴこぴこと猫耳を動かして、ナツメは屈託なく笑う。
ふりふりと揺れる尻尾を眺め、那月は改めて今朝の出来事を反芻して、
「……やっぱり、夢とかそういうのじゃなかったんだな……」
普段見慣れている姿と比べるとややコスプレ感があるものの、似合っていた。
髪と同じ銀色をした耳は見るからにふかふかで触ったら心地良さそうだし、身体の揺れに会わせて振れる尻尾もまた、可愛らしい。
「というか先輩、女湯の掃除は……?」
「うむ、もう終わったとも。それで、後輩を手伝いにね」
「相変わらず、仕事が早い……」
ナツメは那月よりも数年ほど前にこの温泉宿で働いている。同じ内装係として、那月に仕事を教えた師匠のような存在だ。
後輩の面倒見が良く、仕事のできる美人の先輩。憧れるなというほうが難しいくらい、ナツメという女性は那月にとって魅力的に映っていた。少し言葉遣いがおかしなところも、慣れてしまうとむしろ良いと思えてしまうくらいに。
「……あれ、もしかして先輩が僕の面倒見が良いのって……」
「む、気付いたか。そうとも、後輩なら仕事を教えるという名目でニンゲン観察ができるからな」
「…………」
やや悲しい目をした後輩だったが、ナツメはそれに気付くことなくデッキブラシで床を磨き始める。
元々半分ほど終わっていた業務は、先輩の手伝いが入ることでさらに早く片付く
ことになった。
「うむ、もうほとんど終わりだな。やはり、ふたりでやれば早いものだ」
「すみません、いつも手伝って貰って……」
「気にすることはないさ。先達が後輩を助けるのは当然……これは、猫もニンゲンも同じだからな」
うんうん、とナツメは上機嫌に何度も頷いた。
猫は基本的には群れないが、同じ家に住む人間に獲ったネズミを差し入れたりすることもあるのだという話を、那月は思い出す。
「ナツメ先輩は、どうしてそんなにニンゲンのことを知りたいんですか?」
「ん~……まあ基本、面白いからであるな。吾輩ちょっと長く山で生きすぎて霊力持ってしまった系の猫又妖怪であるのだが、いろいろ出来るようになると、いろいろ興味も出てきてなあ」
「興味……ですか」
「まあ吾輩の話は良いではないか。今はむしろ、キミのことを教えて欲しい。今日手伝いにきたのは、そのためでもあるからね」
「僕のこと……ですか?」
「うむ、是非に!」
ナツメは那月の方に身を乗り出して、青色の目を輝かせる。
遊び道具を見つけた子猫のような瞳にどきりとしつつも、那月は興味を持たれて悪い気はしなかった。
「えっと……聞いてくれればなんでも……」
「それはもう一から十まで、なにもかも知りたい!」
「ええー……」
それはむしろ、なにから言えばいいものか。
迷ったものの、那月は頭を働かせて、言葉を紡ぐ。
「ええと、名前は棗 那月。十九歳で、家族は父と母、兄弟姉妹はいません」
「ふむ……人間は一度の出産でひとりしか子供を産まないのだったな」
「そうですね、双子とかじゃない限りは……あとは、えーと……あ、好きな食べ物は甘いもの、苦手なものは硬すぎる食べ物ですかね……」
「ほうほうほう、そういえばチョコレートとか、よく食べていたな」
「あとはええと……鮭とかキノコとか好きです。きんぴらごぼうとかも」
「ほうほうほうほう……」
好意では決してなく、ただの興味が籠もった瞳。
それでも憧れの先輩に迫られているという事実が嬉しいのだから、恋心というのは厄介だった。
「……ふむ」
「っ!?」
こちらを覗き込むように注がれてくる蒼い瞳に見取れていると、ふいに手指が伸びてきた
ナツメは那月の腕にぺたぺたと遠慮なく触れ、興味深そうに眺めて、
「おお、那月くん、意外と逞しいのだな」
「あ、は、はい、その、結構力仕事も多いですし……」
「ん~……じゃあ次は……ふんふんっ……」
「わわ、ちょっと先輩……!?」
「ふふ、洗剤のにおいだ」
「そりゃ、掃除してますし……!?」
距離が近い。そう思うけれど、逃げられない。
(というかこれは、どっちかっていうと人間じゃなくて僕個人の情報を集めているだけじゃ……!?)
憧れの先輩に匂いを嗅がれるという行為に固まってしまう那月の混乱をよそに、ナツメはどこか楽しそうに鼻を鳴らす。
「ん、場所によって匂いが違う……まあこれは、猫も同じか……すんすん……」
実際の所、ナツメの行動に深い好意はない。
面倒を見てきた後輩への愛着はあるが、それは猫がお気に入りのオモチャに対して持つ執着に近く、色恋に繋がるような意図は一切無いのだ。
「ちょ、ちょっと先輩、近い、近いです!」
「わっと」
だからこそ、ナツメはそれに気がつかない。
想いを寄せている相手に遠慮無く触れられ、挙げ句に匂いを嗅がれるという行為に対して、健全な男子がどう反応するのかを、ナツメは理解ができない。
予想外の力で押し返されて、猫又は少しだけ目を丸くした。
「……ふむ、キミは思ったより力が強いな」
「あ……す、すみません、先輩」
「いいや、こちらこそ悪かった。よく分からないが、なにか気に障ってしまったのだろう?」
「気に障ったというか……その、恥ずかしかっただけです」
「恥ずかしい、か……それも、猫の社会にはあまり無いな。うん、やっぱり興味深い」
怒るでもなく、ぱっと笑って、ナツメは素直に那月から離れる。
残るぬくもりに寂しさを感じる暇もなく、猫のようにしなやかに、ナツメはその場から距離を置いた。
「うん、焦ることも無いからね。むしろ吾輩がちょっと焦りすぎだったかな」
「ええと……はい……」
好きな人に迫られて嬉しい自分と、戸惑ってしまう自分、そして相手の無知につけこんではいないかと罪悪感を覚える自分。
どれを優先するべきか分からず、那月は戸惑っていた。
「それじゃ、とりあえずここを終わらせちゃおうか。まだお客さんのお部屋の掃除もあるしね」
「あ、は、はい、ナツメ先輩」
まったく気にした様子もなく掃除を続ける先輩の後ろ姿を見て、後輩はちいさく溜め息を吐いたのだった。