☆さよならを言えない
「……うん」
自らの状態を確認して、猫又は頷いた。
彼女の姿は耳と尻尾まで変化で隠した、よそ行きのもの。
服装は旅館で支給される仕事着で、一見すると買い出しに出てきた従業員という風体だ。
「まあちょっと目立つであろうが、充分だろう」
割れた鏡に映る自分に頷いて、猫又はねぐらのひとつである廃屋を出た。
「……死ぬ前の猫のようであるな」
自らの行動をそう評価して、猫又は自嘲気味に笑う。
「だが、仕方が無いのである……」
はじめは、ここまでのことをする気は無かった。
彼の家を出て、同じように気ままな野良猫として暮らせば良いと思っていた。
職場にだって変わらずに顔を出して良いし、師匠に頼んで彼の記憶を消して貰うということだって考えた。
「でも、ダメだ。きっと、吾輩はそうできないのだ」
ナツメは、自分の感情を理解している。師匠が驚く程度には、自己判断はきちんとできている。
彼から離れても、彼とも想い出が離れるわけではない。彼を想う気持ちが薄れてくれるわけでも、記憶から消えても事実がなくなってくれることはない。
「きっと、那月くんの記憶を消して貰うなんてしたら、吾輩は死ぬほど後悔するだろう」
いつかと同じように、ただ先輩先輩と憧れの視線を向けてくれる彼を見て、寂しくなるだろう。あの日のように触れて、愛を囁いて欲しいと願ってしまうだろう。
「あの旅館にいて、ふとしたときに思い返してしまうだろう」
彼と過ごした日々。恋人ではなかったときも、恋人になってからも、いろんなことがあった。
帰り道ひとつとっても、一緒に帰ったこと、他愛の無い話をしたこと、時々こっそりとキスをしたことを思い出すのだろう。
「……無くなって欲しくないのに、向き合えない」
自分が今、そんな想いを抱いている相手は、自分といつまでも一緒にはいてくれない。その事実が、猫又の心を苛んでいた。
「……ニンゲンを知りたいという吾輩の気持ちは、叶えることができる。いくらで
も見て、調べることだって……できる」
事実、彼女はそうしてきた。
ニンゲンに興味を持ち、知りたいと願い、師匠に頼んで旅館で働かせて貰った。
そして彼と出会い、恋するということも知って、
「……深入り、しすぎたのだな、吾輩は。酔っ払って、水瓶に落ちた猫のように」
どうしようもないことがあるということは知っていた。だが、『知っていただけ』だったのだと、猫又はひたすらに後悔した。
「吾輩がニンゲンを知ることはできても……吾輩がニンゲンに成ることはできないのだ……」
きっと同じ種族同士であれば、悩まなくて良かったのだろう。
ただ彼を愛し、彼に愛されることを受け入れられたのだろう。
けれど、自分と彼はあまりにも違う。師匠に警告された通りに、自分たちは違う種族なのだということを、猫又は今、正しく理解していた。
「っ……」
胸の奥に痛みが走る。血が一滴も流れていないのに、怪我よりもずっと痛いことがあることを、ナツメははじめて知った。
「ああ……これが、苦しいというものか」
今まで得たすべては、不理解でさえも喜びに満ちていた。
手に入らないものであったとしても、眩しいものを見るだけで嬉しいという気持ちがあった。
「……諦めるのが苦しいと思うものも、世の中にはあるのだな」
自分の瞳からこぼれるものの名前を、ナツメはすでに知っていた。
ぬぐい、舌先に触れさせれば、塩の味がする。
「……にがい」
はじめての悲しみは、胸の痛みを癒やしてなどくれなかった。
「っ……」
出よう、という言葉を口に出す勇気は無かった。
ただ無言で、彼女は山の奥へと入っていく。
行く当ては無かった。ただ、ここにはいたくなかった。
愛しい人との思い出が多すぎるこの場所にいたら、溺れ死んでしまいそうだと思ったのだ。
最小限の音で草木をかき分け、時に川を飛び越え、彼女は山を抜けていく。
人を模した姿であっても、彼女は人では無い。
妖怪の身体能力で、十数分で山の反対側へと抜けた。
「っ……」
眼下、木の上から見渡せる景色に、猫は息を呑む。
先日那月と行った町とは反対側。そちらはまた、別の町になっている。
「かつては山であったとお師匠様は言っていたが、ニンゲンの勢力の広げ方は凄いものであるな」
「ああ、だから迂闊には仲間を行かせられんのだ」
「っ……!?」
答えるはずの無い声が聞こえて、ナツメは慌てて木から下りた。
落ち葉が積もり、人の足跡の無い柔らかな地面へと着地する。
「……お師匠様」
「どこへ行くつもりだ、バカ弟子よ」
茂みの中から現われた狸と、ナツメはうまく視線を合わせられなかった。
「……ちょっと心の修行に行こうかと」
「うまい傷心旅行の言い方を覚えおって、ニンゲンの恋人がいるせいか、語彙が増えたな?」
「……彼とはもう、終わりました。いつかと思った通りに」
「ほう、儂が語って聞かせたいつか来る死別が怖くなって、一方的に別れを告げたのではないか?」
「っ……そ、れは」
咄嗟に嘘をつけない弟子を、師匠は未熟だと断じた。
「素直だな、その反応だけでお前がどうしたか想像がつくぞ」
「……黙っていなくなろうとしていたのは、申し訳ないと思っています」
頷きつつも、ナツメはその場から後退る。
考えを変える気は無いと暗に語っている相手の仕草に、銀二郎は狸の姿のままで溜め息を吐いた。
「悪いと分かっているなら、やめたらどうだ。言っておくが、ちょっとニンゲンの恋人と一緒に暮らした経験があるくらいでは、町でなどやっていけんぞ」
「……それでも吾輩は、この山に想い出が多すぎるので」
「……後悔になるか?」
「ええ、きっと。どんなことでも、彼とのことを思い出します」
今でさえ、名前さえ呼べないほど胸が締め付けられている自分がいる。
「朝の鳥のさえずりを、彼と聞いたことを思い出します。あたたかな日の光を、彼と浴びたことを思い出します。土の匂いの中を、彼と歩いたことを思い出します。彼と過ごしたなにもかもを……この山にいる限り、吾輩はきっと何度でも思い出す」
「……言ってて恥ずかしくないか、それ」
「……申し訳ありません。彼のことが好きすぎて、ついつい」
「手遅れじゃな、それは……」
「ええ、そうでしょう。けれど手遅れだったとしても……これ以上、溺れたくないのです」
例えそれが、水に落ちてどうしようもないのにもがく哀れな姿だったとしても。
「吾輩はこれ以上苦しくなりたくない、なにより……彼も、苦しめます」
「それは、あやつに確認したのか?」
「聞くまでも無いでしょう。だって彼は、吾輩を愛してくれています。だから吾輩のために傷つくし、苦しむし……きっといつか、お師匠様の奥方のように、ぜんぶを捨ててでも吾輩のことを選んでしまう」
「……お前はあやつに、そうして欲しくないのだな」
「彼は、ニンゲンは、吾輩たちのようには生きられない。そして吾輩も……ニンゲンになることは、できない」
獣と人は違う。
だからこそふたつの種族は住み分けられている。飼い猫のように共に生きるものもいるが、同じように生きているわけでは無い。
いずれ来る離別が避けられないのであれば、積み重なった想い出がお互いの痛みに成る前に離れたい。
「……だから、吾輩はここからいなくなりたいのです」
「……そうか、ならば少し、遅かったな」
「は……?」
「お前という後ろ盾がないのであれば、あの小僧はどうなっても仕方が無いであろう」
「……お師匠様、どういう意味ですか」
「お前がいるから目こぼしをしたのだ。だがもう関係が無いというのであれば、あやつはただ儂らの領分に踏み込みすぎたニンゲンだ」
「それはっ……!」
「記憶を消すか、命を消すか、どちらにせよ、ただというわけにはいかん。分かるだろう?」
「っ……!」
言葉の意味を完全に理解する前に、ナツメは動いていた。
猫は狩猟をする生き物だ。故に初速は早く、到達は即座。獲物を抑えつけるための爪が、狸を抑えつけて――
「――無駄だ」
首根っこを掴んだはずの手が、あっけなく払われる。
「あぐっ!?」
膨れ上がった毛玉はその勢いで、猫又の体躯を吹き飛ばした。
よたよたと彼女が起き上がる頃には、そこには既に狸とは呼べない、身の丈二メートルはある異様が鎮座していた。
「ふん……」
大狸、銀二郎。この山の主だ。
「お師匠、さま……」
「なぜ怒った。すでにお前にとっては『終わった』のだろう。なぜ記憶を残す、なぜ想い出を持っていく。そんな感傷に囚われず、捨てるならすべて捨てよ。なぜ……女々しく、未だに人の姿を保っている」
「っ……それは……」
師が指摘するとおり、本来の力を発揮するのにニンゲンの姿は不都合だった。
今のナツメはより疾く、より鋭く、より強い獣の姿を捨て、人の形に固執し、想い出に執着し、忘れられることを恐れている。
「……捨てられないのです。思い出す度に苦しいのに……彼を忘れてしまうことも、吾輩が忘れられることも、したくないと思ってしまう」
「そうだ、愚かにも好奇心で足を踏み入れた結果がそれだ」
「っ……はい……」
「……後悔、しているか」
「……して、います。いつか終わると知っていたのに……どうしようもないくらい深く、戻れないところまで来てしまったことを」
まるで、酔っ払って水瓶に落ちた猫だと、ナツメは思った。
興味深いと思い、眺め、知るだけで良かったはずのことに酔い、自らその中へと飛び込んだ。その結果として、感情に溺れ、苦しい思いをした。
再び流れてきた涙を、ナツメは拭えなかった。捨てるべきその傷みでさえも、彼を愛した証だと思うと無下に扱えなかったのだ。
ぽとぽとと零れる涙が地面に吸い込まれていくのを見て、猫又は震える。
「お師匠様の言うとおり、愚か者です……捨てられるのも、捨てるのも耐えがたい……吾輩は、どうしたらっ……」
「……お前、本当にバカだな」
しゅるしゅると、膨れ上がった毛玉が元に戻る。
すっかりいつもの狸に戻った銀二郎は、森の奥へと視線を向けて、
「彼氏の方が賢いぞ、お前。だから……諭してもらえ」
「え……」
顔を上げた先。
「あ、どうも」
なんでも無い風に、彼がそこにいた。