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☆こころ、とどまらず

「……最近、おかしいのである」


 夜勤明けで目覚めたナツメの呟きが、静かな部屋に響いた。

 時計を見れば、時刻は午後二時過ぎ。那月が帰ってくるまでにはまだ数時間ある。


「……こんなふうに切なくなること、今までなかったのに。吾輩はどうしてしまったのだ」


 眠りから覚醒したときにはじめに思ったことが、『彼がいない』だった。

 眠りを惜しむのでも、目覚めを喜ぶのでもなく、ただ寂しいと思って。

 挙げ句、手持ち無沙汰を感じて、那月のタオルケットにくるまってしまっている。


「ん……すん……那月くんの、においが……」


 落ち着く香りのはずなのに、少しだけ胸の奥が寒いような、不思議な気持ちになる。

 自分の中にある感情の整理がつかず、猫又は深く溜め息を吐いた。


「む、むむむ……にゃぁっ」


 ばさ、とタオルケットを蹴飛ばし、ナツメは起き上がった。


「……吾輩は、ニンゲンのことが知りたい……知りたいと思っているのに」


 紡ぐ言葉は、嘘偽りのない気持ちだった。だからこそ、彼女は温泉宿という人が集まる場所で働いているのだから。

 ニンゲンの生活に興味を持ち、変化を学び、ニンゲンに紛れ、観察を繰り返し、そのたびに喜んだ。

 その気持ちは本物で、今だって毎日のように観察し、最近はスマホやPCなどのツールで情報収集をすることも覚えた。


「…………」


 スマホの検索履歴を開けば、自分がなにを調べてきたのかという軌跡がすべて表示される。

 ニンゲンの社会のこと、テレビで聞いた気になる単語、最近のニュース。


「……うぅ」


 そして、そういう事柄以上に、『恋人を喜ばせる』、『男の人の好きな料理』、『魅力的なしぐさ』といったことを調べた痕跡が表示され、画面が埋め尽くされる。


「……ニンゲンじゃなくて、那月くんのことばかり、知りたくなっている」


 ナツメは自分の変化を、正しく捉えていた。

 ニンゲンのことを知りたい気持ちは残っている、けれどそれ以上に『彼』のことを知りたいと思ってしまっている。正確には、彼がどうすれば自分に夢中になってくれるのだろうと、そういうことを。


「……にゃあ」


 どうすれば彼が喜んでくれるのだろう。

 どうすれば彼がもっと見てくれるのだろう。

 どうすれば彼が触れてくれるのだろう。

 どうすれば彼が愛を囁いてくれるだろう。


 今よりずっと可愛がってもらうために、生活に役立つことを覚えたり、彼が嬉しいと思ってくれるようなことをしたい。最近では、着飾ることにも興味が出てきてしまっている。

 自分に起きる変化を、彼女は悪いものだとは思っていない。

 けれど、自分がここまでたったひとりのニンゲンの存在に変えられてしまうというのは予想外すぎて。


「気持ちだけじゃなくて……身体まで……」


 きゅう、と胸が締め付けられる感覚に、ナツメは身を震わせる。

 彼のことを思い出すだけで、無性に顔が見たくなる。そしてきっと、見るだけで収まらないのだ。甘えて、抱きしめて、匂いを嗅いで、撫でられて、


「……キスも、したい」


 猫の姿であったなら、きっと自分は彼の身体にすりすりとすり寄って、一日中離れないだろう。

 かつて野良猫として生活していたとき、窓の向こうに見た景色。誰かに飼われている同族が、飼い主に甘えていたことを思い出す。


「っ……そうか、吾輩、寂しいのか……」


 心の中に空いた、穴のような感覚。

 生まれて一度も感じることのなかった感情を、ナツメは恐ろしいと思った。


「にゃ、あ……」


 ぶるりと身体を震わせ、ナツメは起き上がる。

 寝間着のままで、彼女は台所へ向かい、水を一口。


「ふ、ぅ……」


 溜め息を吐いたところで、落ち着けるはずもない。

 自覚してしまった恐怖は心の奥底に張り付き、そう簡単には消えなくなっている。

 寝所に戻ってシーツにくるまっても寂しさは消えず、気持ちは晴れない。『彼』の残り香に安心はするけれど、同時に本物を求めて身体の奥底が冷える。


「ただいまでーす」

「っ、な、那月くん!?」


 だからこそ、ナツメは彼の帰還に飛び起きて、ばたばたと玄関へ向かった。


「お、おかえり、那月くん!」

「先輩、ええと……どうかしました?」


 寝室から飛び出すようにして現われた恋人に、那月は目を白黒させた。


「あ、いや……」


 相手の表情を見て、ナツメはようやく自分の焦りすぎを悟る。


「そ、の……な、なんでも無いんだ……」

「なんでも無いんですか? 本当に?」

「あ、にゃ……」


 不安そうな目で見られ、ナツメは言葉に詰まる。


(那月くんは、正直に言ってくれるのに……)


 今まで、自らの気持ちに正直に生きてきたのに、隠してしまった。

 呆れられたり、面倒だと思われたらどうしようという気持ちが、正直を鈍らせたのだ。


「なんでも無いなら良いんです、ええと、ご飯……の、前に」

「え、にゃっ……」


 ぎゅう。


 抱き寄せられて、ナツメは目を丸くした。

 遅れてやってきた多幸感に、全身がぶるりと震える。ぬくもりと嗅覚が『彼』の存在を強く訴えかけ、それだけで猫又の全身から力が抜ける。


「すみません。ちょっと今日、仕事中に寂しくて……先輩のことばかり考えていたので、寂しさを埋めさせて貰えたなって」

「あ……う、うん……」

「ご飯ちょっと遅くなってしまいますけど、すみません」

「だ、大丈夫……吾輩も、嬉しいし……ご飯だって、手伝うから……」


 自分と同じように、相手を寂しさを得ていたという事実を知って、猫又は嬉しい気持ちになる。

 同時に、自分が今しがた気持ちを隠したことがひどく滑稽にも思えてしまって。

 欲求に素直になることを、猫又はナツメに許した。


「……那月くん。その……た、ただいまの、キスとか……吾輩、してみたいのだが……いい、んむぅ!?」


 返答は言葉では無く、行動だった。

 良いだろうかと口にする前に唇を塞がれ、ナツメは目を見開く。


「は、ちゅ……ん、ぁぁ……」


 反射的に強張った身体は、口づけの甘さにほぐされた。

 力を抜いて身を任せる猫又を、那月は更に求める。

 何度も口づけ、唇を甘く噛み、猫のものである耳を撫でる。


「は……ただいまです、先輩」

「あ……はぁ……お、おかえり、那月く……んにゅぅ!?」


 とろんとした目で甘く吐息する恋人を見て、もう少しという欲が出た。

 最後の口づけは今までで一番深く、甘く、しつこかった。


「ぷは……は、にゃぁ……」

「おっと……大丈夫ですか、先輩」


 砕けかけた相手の腰を抱き留めて、那月は微笑む。

 力の抜けた身体と心に、その笑顔は毒でしか無くて。


「……う、うむ……」


 ナツメはまた口づけして欲しくなってしまう欲張りな自分が恥ずかしくなり、相手から目を逸らした。



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