☆変わりゆくもの
生活が変わっても、変わらないものは多い。
大きなことがあったとしても、日常はそう変わらない。
棗 那月はいつも通りの日常として、職場である温泉宿での仕事を済ませていく
使われた客室の掃除をして、廊下を綺麗に磨き、飾られている花なども取り替える。
「ふう」
内装係へ就職して暫くの時間が経つ。既に、彼の手際は良い。
もともと細やかな性格で、人の教えに対して素直だ。覚えは早く、職場にもすぐに馴染んだ。
直属の先輩であるナツメ以外からも可愛がられており、宿泊客、特に地元民は古くからの知り合いも多い。
「那月くん、今日も頑張ってるわねえ」
「あ、ありがとうございます。今日はご宿泊ですか?」
「ううん、今日はお風呂だけ。また今度、お泊まりさせて貰うわね」
初老の女性から話しかけられて、那月はにこやかに応対する。
軽い言葉を交わしてすぐに仕事に戻るが、お客さんを相手にする宿である以上、例え内装係であっても愛想は忘れてはいけないと、那月は考えていた。
(仕事にも慣れたなあ)
てきぱきと業務をこなしていく片手間に、那月は自分のことをそう評価した。
物覚えがいいといっても、はじめから出来たわけではない。失敗も多かったし、そのたびにいろんな人がフォローしてくれたことを、那月は思い出す。
特に、同じ内装係で、今は恋人関係となったナツメは、那月をかなり気にかけてくれていた。
(今思えば、先輩の『ニンゲン観察』の一環だったんだろうけど……)
理由はどうであれ、助けられたのは本当のことで。
那月は、ナツメという先輩の存在に深く感謝していた。
そして同時に、美人で、面倒見がよくて、少し不思議なところもある先輩に強く惹かれてしまって。
「っ……」
最近の日々を思い出して、自然と頬に熱がこもる。
少し前は想像もしていなかった日々だと思うが、記憶に残った彼女の恥じらった顔や笑顔、唇の感触、体温はあまりにも鮮明だ。離れていても思い出して、寂しさを覚えてしまう程度には。
「お、落ち着いてやらないとね……」
ナツメが前日に夜勤だったため、今日はシフト時間が被っておらず、会えるのは就業後の夜だ。
思い出と寂しさに引っ張られて失敗をしないように気をつけながら、那月は仕事を片付ける。
いつもなら時間の経過など気にも留めないのに、今日に限ってはやたらと遅く感じてしまう。
「はふー……」
お昼を少し過ぎた時間になり、那月は休憩室へ。午後からの仕事を確かめながら、テーブルに腰掛けて、一息を吐く。
基本的に、宿泊施設というのは二四時間稼働だ。故に休憩もローテーションで、今も休憩室を利用しているのは那月ひとりだった。
「お昼お昼、っと……」
宿内では賄いが出るので、従業員の昼食は豪華だ。
専用のお弁当箱に詰められた食事は、基本的には余り物が多いが、つまり宿で提供されているものと同じ。
本来ならお金を払っていただくようなメニューを食べられることに感謝しつつ、那月はぱくぱくと平らげる。
成長期は過ぎたとはいえ若い男性である彼には少しばかり物足りない量だったりもするが、あまりお腹を重くしすぎても午後の業務に支障が出るので、那月は腹八分目を満足とすることにしていた。
「はぁ……」
温かいお茶を自分で淹れて一息をつき、お腹と心を落ち着かせる。
休憩時間はもう少しだけあるので、ゆっくりしようと思ったところで、ひとつ思い出したことがあった。
「そういえば今日、先輩がなにか渡してくれたんだよね」
スマホや財布などの外出用品が入ったバッグを、己のロッカーから取り出す。
朝に同居人であり、恋人でもあるナツメから渡された包みは小さく、軽い感触だった。包み方はやや不格好で、店で買ったものではないと一目で分かる。
「お昼ご飯のあとに開けるといいって言ってたけど……」
今が丁度その時間なので、那月は素直に従った。
「あ……クッキー?」
包みの中から出てきたのは、やや不格好で崩れた焼き菓子だった。
どう見ても手作りであろうクッキーを、那月はじっくりと眺めて、
「……僕のために?」
理解した瞬間、嬉しさがこみ上げてきた。
まして午前中に相手のことを思い出して、会いたいなどと思ってしまっていたのだ。帰りたいと想う気持ちがぐっと膨らむと同時に、午後のやる気にもなる。
「……あまい」
さくりという音が、人の気配が少ない休憩室に響く。
微妙に足りないお腹が満たされる感覚に幸せを感じていると、スマホが音を立ててメールの着信を知らせた。
「あ、先輩だ……」
既に専用の音を設定しているので、画面を見る前に送り主が分かる。
那月はいそいそとスマホのロックを外し、メールを開いた。
まだ打ち方に慣れていないナツメの文面は、『よろこんでもらえたらうれしい』という簡潔で、漢字変換のないもの。
「…………」
自然と笑みがこぼれることを自覚しながら、那月はお礼と、なるべく早く帰るという旨を手早く打ち込み、返信した。
「……会いたいなあ」
ぎしりとパイプ椅子を鳴らして、那月は溜め息を吐く。
料理、文明、ニンゲン。様々なことを知って変わっていく彼女が愛しくて、そんな彼女に影響されていく自分が、楽しいと思う。
変わることを楽しいと思えることが恋人のお陰であることを自覚して、那月はクッキーをもうひとつ、口へと放り込む。
甘さがほどけることを惜しみつつ、彼は立ち上がった。
午後からの仕事が、もうはじまるのだ。