7話
「……何から話そうか。ねぇ西条さん。ワン・シェンってピアニスト、知ってる?」
「聞いた事もあるも何も……台湾のピアニストでしょ? 世界的に有名よ。私も彼のCDを何枚か持ってる」
ピアノの世界で、彼の名前を知らない人はほとんどいない。
無効ではワンという名字は王と書くみたい。
私が生まれる前から、ずっと王座に座り続けている王様。私にとっては歴史の偉人より偉い人。
だけど今はそんな話はどうでも良いと思った。私が知りたい情報はそれじゃない。
「やっぱり知ってるんだね」
藤井君は少し笑った。隠し事を切り出す様に。
「あの人は僕の父さんなんだ」
「……嘘」
私は驚いて、何か答えようとしたけど何も思い浮かばない。
「僕はハーフなんだ。アジア系だからみんな気がつかないけどね。ここに来る前まで、台湾にいたんだよ。僕は父さんの息子だから、気がついた時からピアノが傍にあった。僕は当然の様に弾き始めた。実際父さんは嬉しそうだったから、それが正しいと思ったんだ」
「羨ましい。私のお父さんもピアニストだったら良かった」
「……羨ましくなんかないよ」
藤井君は吐き捨てる様に言った。いつもの藤井君なら言わない、黒色の言葉。私は少し怖い、と思ってしまった。
「父さんは好きだし、尊敬してる。でも、それ以上に恨んでいるんだよ。僕が弾くピアノは、いつも父さんと比べられるんだ。そしてこう言われるんだ。父のようにはなれないねって。……なんだかその言葉って、僕が父さんの息子じゃ無いって聞こえたんだ」
「そんな事……無い。藤井君さっきだって、私、すごいと思った」
私の心のままに否定する。こう言えば、彼はきっといつもの様に笑ってくれると思ったのだ。
しかし、藤井君は笑わなかった。
「あぁ! だから西条さんにピアノを弾いている事、言いたくなかったんだ。君は父さん側の人間だ。ずっと上の立場から、物事を言う」
彼の初めて見せる苛立ちは、私を突き刺した。私は思い出す。向けられた彼の眼差しを、よく知っている。
それは敵意だ。
ピアノスクールの生徒も私に鍵盤の弾き方を教えた先生もクラスの女子も安藤真美も。
みんなみんな、憎くて堪らないという目を向けて来る。……嫌だ。
彼だけは、そんな目で見て欲しくなかった。
「最初は悔しくて沢山練習したんだ!。何度も腱鞘炎になるほどね。だけど周りの目は変わらなかった。そしてとうとう僕自身も周りと同じ意見になったんだ。」
私は藤井君に何も言えなかった。彼の苦しみに私が何を言っても、嘘になってしまうから。
音楽室は無音になる。音が無いこの部屋は、とても悲しい空間だ。
「……安藤真美と付き合ってるの?」私は勇気を振り絞り口を開く。聞いてしまったと思いながら。
「……そうだよ。あの子は……僕に似ているからね。君からは傷を舐め合ってる様に見えるかもしれないけど」彼はそう言って、夜に変わろうとしている外を見た。
私は小さく息を吸う。スポットライトが当たる中、最初の鍵盤に触れる時の様に。
「ねえ藤井君……私ね、最近やっと気がついたんだ。私はピアノばかりしてきたせいで、他の事が何も分からないの。私は――」
鍵盤を、押す。目から涙が零れ落ちた。
「私は藤井奏太の事が好き。ピアノじゃなくて、私を見て」
恋は甘酸っぱいとお母さんは言っていた。嘘つき。
だってこんなにも、苦しいじゃない。