5話
安藤の言葉が理解出来ない。私は混乱する。
藤井君が安藤真美と付き合っている……?
それはつまり、恋愛関係という事?……
「あはは! その顔っ、サイコー! ずっとあんたのすました顔が気に入らなかったんだ」
安藤はけたけたと笑う。いやらしい笑い声が頭を殴られた様に響く。
「えーと、先週の土曜日だったかな? 私が呼び出して告白したの そしたらすぐにいいよってね」
「そんな、藤井君は――」
藤井君がそんな返事をする訳が無い。彼は薄いスープの様な人達とは違うのに。
亡き王女のためのパヴァーヌと悲しい詩が好きな、この学校で唯一の特別な感性を持ってるひとなのに。
「嘘をつかないでよ!」
叫ぶ私に真美は、どこまでも冷酷だった。
「ざーんねん、ほんとだよ。キスだってしたんだから」
キス――口づけ。その響きは悪魔の名前を出された様に聞こえた。
私が知っているキスは、小さい頃お父さんによくされた、頬への口づけだ。それとは意味が全く異質な物だと言うことは知っている。見たことがあるのは映画の中だけ。
「いやらしい……」
私は無意識に呟いていた。
いやらしい、汚い。安藤も、クラスの男子達も。
付き合ってるとか、恋人とか、キスとか。そんな話は退屈な子供達の大人の真似事だ。
藤井君はそんな事をする必要なんて無いのに。
自ら汚れる必要なんて無いのに。
以前の体育の授業を思い出す。
当時の授業内容はテニスで、汗を掻くことが嫌だった。授業が終わり、制服に着替え、戻ろうと階段をのぼり始めたとき、男子生徒の話声が聞こえた。
ーーなぁお前、さっきの西条見たか?
ーーああ、意外とでかいよな。揺れてた
すぐに何の事か分かり、背筋が凍る。階段を上る足がピタリと止まった。
ーー色白だよな。室内でピアノばかり弾いてるからかな?
ーー顔も良いし、ほんっとあのきつい性格が無きゃ最高なんだけどなー」
その時は、次の授業が始まる予鈴が鳴るまで動けなかった。
それ以来、私は時々、体育をさぼる様になった。
誰に舐め回すように見られてる気がして、気持ちが悪かった。
「藤井君は、違うのに……」
絞り出すように言葉を紡ぐ。安藤は見下した目で私を見る。
「いやらしい? 藤井が違う? みんなやってる、普通のことよ。……あんたさぁ、自分が大人だと思ってたでしょ? 私達をガキ扱いしてさ。残念でした、子供はあんたの方」
「……」
「言いたい事はそれだけ、ピアノ頑張ってね、西条さん」
何も言えない私を見て満足したのか、安藤は楽しそうに笑い、教室から出て行った。
その日は気分が悪いと言って、学校を早退した。
家に帰るとすぐに浴室に向かい、頭からシャワーを浴びた。いくらお湯をかぶっても、ぐちゃぐちゃになった気持ちは洗い落とせない。
「藤井君……あの人の話、嘘だよね……」
自分を抱きしめうずくまる。そして泣いた。
私はまだ彼を信じていたかった。
ピアノと詩。美しいものを真っ直ぐ見つめていた彼を、信じたかった。