1話
「西条さんは本当にピアノが好きなのですね。将来はきっとピアニストね」
音楽担当の金子先生はニコニコと笑い、私に第二音楽室の鍵を渡した。もうすぐ定年を迎える彼女は、いつも穏やかで、話しているとどうも調子が狂う。私は曖昧に笑みを浮かべ、頷く。
ピアノが好き。その表現は少し違う。
ピアノは現在14歳の私の全てだ。好き嫌いで収まる物では無い。
鍵を借りた後、私はすぐに三階の第二音楽室へ急いで向かう。給食後の一時間、ほとんど使われない小さな教室は、私だけの場所と化している。
ドアを開け、いつも通りの黒いピアノが私を迎えてくれた事にホッとする。
椅子に座りゆっくりと鍵盤蓋を開く。
今日は何を弾こうか。
――決めた。ラヴェルの【亡き王女のためのパヴァーヌ】にしよう。一番好きな曲だ。
教室にノスタルジックな旋律が流れ、私は自分の世界に浸かる。
私が五歳の時、ピアノ教室で初めて鍵盤に触れた時、私はどの子供よりも自由に音を奏でる事が出来た。
講師は驚いた顔で私を天才少女と呼び、お母さんは涙を流すほど喜んだ。すぐに家にグランドピアノを置くことになった。
それから私はすぐに優秀な生徒だけが入れる特別クラスに上がり、コンクールで様々な賞を取った。私はそんな自分を誇らしく思う。これからもピアノの道を進むだけだ。
反面、今の生活は退屈。同級性の女の子は流行の服、クラスの男の子が格好いいとか、そんな凡庸な話ばかりしている。
あぁつまらない。
早く音楽科のある高校に進学したい。
それまで私は私だけの世界でピアノを弾き続けるのだ。
……本当に、焦れったい。そんな気持ちが表れたのか、少し曲を弾くペースが早くなってしまった。本当にピアノは私自信だと改めて実感する。
ペースを元に戻した所で突然、音楽室のドアが開いた。私は驚いて演奏する手が止まってしまう。いつもならこの時間にここへは誰も来ないはずだ。
目線をドアにずらすと男の子がいた。長い髪とおっとりとした顔立ちのせいで女の子の様にも見える。
この人は私と同じクラスの……
「えっと、藤井君……だよね?」
藤井君は顔をほころばせ頷いた。私はちょっと驚く。他の男の子達とは違う、日陰に咲く花の様に静かな笑い方だった。
「うん。 ほとんど初めましてだよね」
「……去年はクラス違ったから」
そもそも、私はほとんど同級生とは話さない。あの人達と話しても、なんの面白味も無いから。
「改めてよろしく。今日は一つお願いがあって来たんだけど……」
少し照れくさそうに藤井君は言う。
「……何?」
低いトーンで私は聞く。途中で演奏が止まってしまった事で私は少し気分が悪かった。
「ここで、本を読ませて欲しいんだ」
「……本?」
私は意外な言葉にキョトンとする。
「そんなの、図書室で読めばいいでしょ?」
「あそこは……読書に集中出来ないんだ」
困った風に藤井君は笑う。――確かに、と思う。
お昼休みの図書室は、私語厳禁というルールが無いも同然に変わっている。
「それに、西条さんの噂を聞いたんだ。西条さんはとてもピアノが上手いって。――さっき弾いてたのって【亡き王女のためのパヴァーヌ】だよね?」
「ふぅん。この曲知ってるのね」意外。同学年の男の子はクラシックなんて興味無いと思っていた。
「僕も好きな曲だよ。そこで、西条さんのピアノを聞きながら読書がしたいと思ったんだ。決して邪魔しないから……頼めないかな?」
「……邪魔しないなら」
「本当!? 正直断られると思ったよ」藤井君はまた笑う。
最初は断ろうと思ったが、彼が【亡き王女のためのパヴァーヌ】を知っていた事。それに――
「クラシックが好きな人に演奏する事は……嫌いじゃないから」
私はぶっきらぼうに言い、演奏を再開した。彼は微笑み、椅子に座り文庫本を鞄から取り出した。
こうして私の為のピアノは、彼の為のピアノにもなった。
どうしてだろう?
いつもだったら断るのに。
私の場所に、入って来てほしく無いのに。
なんだか今日の私は、私らしく無かったのかもしれない。