東京湾降雨実験の真実(2)
「いい発表だったぞ、東郷。」
東郷とともに日本気象制御工学会年次大会に参加している、東郷の指導教員である八代 卓(すぐる)は、珍しく東郷の発表を褒めた。というよりも、こうして東郷の発表を聴くことすら珍しいことだった。普段は面倒がって自分の教え子の学会発表になど興味を示さないのだが、それだけ 7 月に行う実験が重要ということなのだろう。
「しかし八代先生、私自身未だにこの実験が成功するのか不安でなりません。」
「君自身が提唱した理論に自信が持てない、と?」
「いいえ、海水を強制的に蒸発させることで、周囲の雨雲の移動を伴わずに任意の場所 に降雨源を作り出すこと自体は可能だと考えています。事実予備実験では海水蒸発から降雨まで何度も成功しています。問題は、少々この方法が強引すぎるのではないか、ということです。」
「というと?」
「エネルギーが足りるのか心配なのです。」
「その点についても、君は何度も計算機シミュレーションを重ねてきた。違うかい?」
「それはそうなのですが、これまでは既に雨雲化した水分をいかに制御するか、ということが議論されてきましたが、今回の方法は根本的な原理が違います。これまでの延長線上で考えて本当に大丈夫なんでしょうか...」
「いいかい?東郷。君は少し心配性すぎるきらいがある。もっと今までやってきたことに自身を持て。」
「はい...」
東郷栄一はまだ若かった。このような大規模な実験を行うのは、当然生まれて初めてだ。 少しナーバスになっているのかもしれない。しかし、彼の脳裏にはある出来事が貼り付いて、それが東郷に今回の実験への疑念を持たせ続けていた。
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西暦 2097 年 6 月 20 日
大学院に入学したばかりの新進気鋭の大学院生、東郷栄一は、第 1 食堂でサンドイッチをかじりながら来週行う実験の算段を立てていた。
「いい加減パソコンいじりながら食事するのやめたら?消化に悪いぞ。」
生命工学専攻の大学院生、塩谷順一があきれ顔で話しかける。
「いいんですよ、腹に入って栄養になればなんでも。人生は短いんです。同時にできることは同時にやらないと。」
「俺の研究してる技術が完成すれば、人類は永遠の命を手にできるんだがな。」
「それ何百年先の話ですか... まだ脳をがんじがらめにして情報処理させるのがやっとな時代ですよ。」
「ふふふ、貴様は生体コンピュータのなんたるかをまだ知らんようだな。あれはな、人間そのものだ。あいつらはみんな意思を持ってる。あれに交換可能な体さえつければ不老不死の出来上がりさ。」
「そんなこと言われても、生体コンピュータが喋るわけでもないですし、意思を持ってるかどうかなんて分かりませんよ。そんなことより邪魔しないで下さいよ。全然実験計画が進まないじゃないですか。」
そう言って東郷は一口サンドイッチをかじる。
「だーかーらー、食いながら作業すんなって!」
塩谷順一は、東郷の 1 年先輩の大学院生だ。専攻は違うが、彼らはともに百人一首同好会のメンバーだった。塩谷はなにかと東郷にちょっかいを出し、東郷はそれを迷惑そうにあしらう。一種の腐れ縁だ。しかし、決して友達が多いとは言えない東郷にとっては、数少ない口を開く機会を与えてくれる先輩であり、心の奥ではあまり無下にもできないと思っている。
「ところで今度はどんな実験するんだ?」
「海水から雨雲を作る実験ですよ。一言で言えば。」
「海水から雨雲ができるって... そんなの当たり前のことじゃないのか?」
「... そりゃ自然現象として見れば当たり前ですよ。それを気象制御の枠組みで扱うことが問題なわけですよ。」
「じゃああれか?海をものすごく暖めて水を蒸発させるとかか?」
「塩谷さん、気象制御ってなんだと思ってるんですか?もしかして、風を吹かせて雲を移動させて... みたいな、そういうの想像してません?」
「してる。」
「まあ確かに気象制御が提案された初期のころはそういうことやってる研究者もいましたけどね。今主流の気象制御は、空間にある種の電磁場を発生させて、それで水分子や空気を構成する分子の動きを制御するんですよ。そうじゃなかったら集中型の地上設備で広範囲に渡る気象現象の制御なんてできないじゃないですか。」
「なるほど。」
「で、問題はその電磁場を使ってどうやって液体の水を蒸発させるか、ということです。 これまでの理論では、気体の制御か、液体でもせいぜい雲みたいな体積の比較的小さな液滴の移動しか扱えないんですよ。」
「お前さんはそれをどうやってやろうとしているんだね?」
「実は、理論自体は卒業研究で完成してるんですよ。なので詳しくは僕の卒業論文を読んで下さい。」
「なあ東郷、お前ってもしかして天才?」
「よく言われますが、別に普通だと思いますけど?むしろ卒論で実験まで行けなかった のが悔しいですね。なので来週の実験はさながら卒論で立てたフラグを回収するためのものです。」
「お前でもフラグなんて言葉使うんだな...」




