東京湾降雨実験の真実(4)
西暦 2097 年 9 月 12 日
1 週間も経つと、東郷は大学の保有するシミュレーションシステムに比べて遜色ないプログラムを完成させていた。これまで大学のシステムで行ってきた様々なシミュレーション結果と同等の結果を出しており、これからは面倒な利用申請を出さずに手軽にシミュレーションできそうだと、内心満足していた。
ここでふと、6 月に行った実験のことを思い出す。あの時は焦ったな、と、1 回目の実験時のトラブルに思いを馳せる。今回自分が作ったシミュレータは、気象制御による蒸発をちゃんと再現できるのだろうか?東郷は何気ない考えで 6 月の実験と同じプログラムをシミュレーションする。水の温度を変えることなくこれだけ大量の水が蒸発していく様は、 理論の提唱者である東郷自身ですら何か手品を見せられているような感覚に陥る。
シミュレーションを始めてから 1 分程度が経過した頃だった。自作シミュレーションは、 気象制御装置の消費電力が著しく上昇していることをプログラマーである東郷に警告している。
「これは... どういうことだ?」
シミュレーションに関しては素人の学生が 1 週間で書いたプログラムである。どこかに不具合が混入している可能性は高い。この警告も、そんな数多くの不具合の 1 つによって生じていると思いたい。しかし、警告が出るタイミング、その時の消費電力など、あまりにもあの当時の状況に似すぎてはいないか?
「こんな計算結果、今までに見たことないぞ?」
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その日、東郷は大学の量子コンピュータの利用申請を出して帰った。大学のシミュレーションシステムでもう一度検証するために。翌日の大学のシステムでの検証では、プログラムは正常に動いた。2 回目の実験を完全にトレースするように。
東郷はその後何度も同じ条件で実験を繰り返し、その度に成功を重ね、精度をより上げていった。そんなことを繰り返すうち、やはり自作シミュレーションのどこかに不具合が あったのだろうと、理性では思うようになっていた。しかし本能ではそれとは全く別のことを考えていた。お前はただ安心したいだけではないのか?シミュレーションの不具合だとしたら、その不具合をお前は見つけたのか?あの日以来お前はプログラムソースを開いてすらいないだろう?...
東郷の中で、やはりあのシミュレーション結果を八代に報告すべきという結論がでたのは、翌年の 3 月のことである。辺りは既に暗く、綺麗な満月がキャンパスを照らしている。
「八代教授」という表札のかかった部屋の扉をノックする。
「失礼します。」
「東郷か。ちょうど良かった。お前に話がある。」
「なんでしょうか?」
「再来年の 7 月に、東京湾でお前の理論を実証する。」
「つまりそれは、大規模な降雨実験を東京湾でやる、ということでしょうか?」
「そうだ。本当は今すぐにでもやりたいんだがな。なんせ腰が重い日本の行政だ。これだけの規模の実験をやるとなると 2 年は準備期間が必要だろう。それで今から 2 年後の実験に向けて準備をすることになった。この間科学庁の大型公募予算の採択通知が来たところだから予算の心配もない。お前も手伝ってくれるな?」
「もちろんです!これから忙しくなりますね。」
「そうだな。ところで東郷、俺に話があったんじゃないのか?」
「ああ、そうでした。実は気になるシミュレーション結果がありまして...」
東郷はことの顛末を全て八代に話し、実際にシミュレーションを八代の目の前で実行してみせた。
「なるほど。それでこの状況は、君の 1 回目の実験の状況にそっくりだということか。」
「はい。」
「東郷、お前には言ってなかったが、あの時ショートしていた配線、通常の気象制御実験には特に影響を与えないところだったんだ。」
「と言いますと?」
「お前も知ってると思うが、うちの大学の気象制御装置は内部に複数の電磁場制御装置を持っている。従来の気象制御の大部分はこのうち 1 台のみを使うが、東郷の理論ではこれを複数使わないと難しい。この時、電磁場制御装置の間を直接つなぐような配線があると、それがショートし得るんだ。気象制御シミュレーション特論の担当は誰だ?」
「青木先生です。」
「なるほど。彼は確かに電磁場制御装置の複数同時使用には疎い。東郷のプログラムも、 意図せず直接結線されている計算をしている。」
「なるほど、それで偶発的に 1 回目の実験を再現してしまったわけですね。」
「その通りだ。」
東郷は八代の部屋から出た。少し心が軽くなった気がした。東郷が半年以上悩んでいた問題に、明快な答えを一瞬で用意する八代。東郷はその頭脳明晰さに惹かれて八代の下で研究することを決めたのだ。そしてその八代の下でこれから大きなプロジェクトが動き出す。東京湾に大雨を降らせるのだ。
一方で、拭いきれない疑念もある。大部分の実験でつながっていようがいまいが関係ない配線が、なぜ「つながって」いたのだろうか。つながっていなければどのような実験でも問題を起こすことはないのではなかろうか?誰かが何の気なしに結線したのだろうか? しかし今の東郷にそのようなことを考えている時間はない。後に「東京湾降雨実験」として歴史に名を残す大実験に向けて、やるべきことが山ほどあった。




