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或る夜の出来事

作者: ふーみん

「私は世界に二つの宝を持っていた。私の友と私の魂と」―ロマン・ロラン。




***





 春休みとは、大学生ならば誰もが浮かれる時節であるが、生憎と酒井実佳にとってはそうではない。

遊ぶ金欲しさにはじめたコールセンターのアルバイトが、予想外に彼女の日常を蝕んでいた。

かとって、非日常への入り口が用意されているというわけではなく、いずれ来る社会人としての日常風景を体験させる延長であったかもしれない。

 とにかく彼女の朝は一杯のコーヒーと共に始まり、出勤。昼食は社内食堂、夕飯は自炊或いは社員や同じアルバイトとの食事とある一定のサイクルで回っている。通信センターでアルバイトをしている彼女は、海外への接続窓口となって、遠い彼方に離れた人間たちを繋いでいる。この仕事にやりがいを感じることは恐らく、実佳の手によって繋がった回線でやりとりをする人々が笑顔でいてくれることを想像して初めて生まれるのだろう。

 生憎と海外で暮らしている友人とやりとりするにはスカイプで事足りるし、フェイスブックだってある。実佳はこの仕事を身近に感じたことはないが、大学生がするにはとても割の良いバイトだと考えていた。煩わしい人間関係もなく、ブースで仕切られた個室の中で、一日十件あるかないかの作業をする。

多少の単調さも許せるというものだ。



「×××通信局の酒井です。転送先をお願いします」


『ロンドンなんですが・・・』



 夜も更けた時刻のことだ。

インカム越しに聞こえてくる躊躇いがちな声はもどかしげに言葉を紡いでいるものの、はっきりと実佳の耳に馴染む。実佳は傍らの音楽雑誌を閉じながら、キーボードに手を伸ばす。本日十二件目の作業を開始する。



「あっ、かけられますよ。番号をどうぞ」


『・・・いや、あの・・・使われてるかわからないんです。大丈夫ですか?』


「料金のことでしょうか?」


『あ、はい・・・まぁ』


「それは大丈夫です。直接おかけいただいて相手がとってしまった場合は加算されてしまいますけど、センターにかけていただければ上手く処理しますので」


『えっ、大丈夫なんですか?』


「大丈夫です。何番でしょう?」



安堵したような相手の声音に頷きながら、実佳は目の前のキーボードに向かい合った。

相手の告げる番号をテンポ良く押しながら、彼女は交換先に電話を繋ぎ合せる。数回のコールを聞き届けてから、実佳は席を離れる。どうやら彼の杞憂だろう。

給湯室にコーヒーを淹れに駆けこんで、職場に持ち込んでいたお気に入りのマグカップにインスタントの粉を入れ、湯を注ぎこむ。

粉と湯が溶けあうのを味わうようにゆっくりとマドラーでかき混ぜながら、実佳は壁に寄りかかりそっと息をついた。

彼は恋人にかけるのだろうか。それとも家族だろうか。実佳にはただ推し量ることでしか感じとる術がない。

デスクに戻りながら、再びインカムを耳元からぶら下げたところで、実佳は通信の信号がまだ途絶えていない事に気がついた。先ほどの電話から、交換手に繋がったままだというのだろうか。「あの・・・どうかされましたか?」マイク越しに問いかけると相手は鈍く言葉を濁す。



『いや、あの・・・』



いっそ憐れになる程覇気がなく、悪い予感を彷彿とさせたからかもしれない。

思わず話を振っていた。



「どうかされましたか? 電話代の件でお問い合わせですか?」


『あの、別にいいんです。図々しいお願いがしたいわけじゃなくて、ただ電話が切れて、呆然としてたらあなたにまた繋がったって流れだったから・・・』


「はぁ、」



予想外の返答に実佳は随分と歯切れの悪い答えを返してしまう。

完全に意気消沈した気配が受話器越しに伺える。



『すいません、なんか・・・仕事の邪魔ですよね。俺』



途切れがちな声に、彷彿とさせるものがある。

消えゆく声。

遠ざかる足音。

諦めがちな瞳。

無意識に空を眺める。

富士の樹海。


―・・・いかん、こいつ死ぬかもしれない。

中途半端な妄想が巡りに巡って脳内で直結した時、実佳に奇妙な正義感を呼び覚まさせた。

男が電話を切ろうとしているのだろう。遠ざかる声を前に実佳は慌ててマイクのボリュームを上げ、後先を全く考えずに叫んでいた。



「あーっと、ちょっと待ってください!」


『へ?』


「樹海とかだめですよ! ベランダから下覗き込むのもだめ! とにかくっ、とにかく落ちついて!」



感情が高ぶるあまりデスクから思わず立ち上がれば、パーテーション越しに数人がこちらに視線を投げかけてきた。

批難とはまた違う、疑念を込めた視線に晒され、しまったと思うのも束の間のこと。居た堪れず慌てて会釈をしながらゆっくりと背を屈めて席に戻ると何が面白かったのか、耳元で小さく噴きだす気配がある。



『いや、むしろ俺より君の方が・・・』



落ちついて。と続ける優しい声音に実佳は安堵に胸を撫でおろす。

やや危ない方向に彼が進んでいたかどうかあるいは思いとどまったどうかは否かとしても、消沈したような気配は消えかかっていた。

実佳は手元のスピーカーの音量を落としながら、蚊の鳴くような声で呟いた。



「だってこのまま放っておくと、あなた飛び込んで死んじゃいそうなんだもん。そうなったら夢見が悪いもの」


『飛び込んで死ぬって、そこまで俺やわじゃないよ。振られて死ぬってどんだけ熱いの』


「ふられちゃったんですか・・・」



聞くには憚られる話だっただろう。

実佳は何と答えていいものかわからなかったが、男はどこか懐かしむような口ぶりで話し始めるのでその先を考えることを放棄した。



『そうだね、もう一緒にいたくないっていうのはつまり、振られちゃったってことだよね?』


「否定できないですね」



実佳の決して多いとはいえない恋愛経験から言っても、そう解釈することしかできないだろう。

陳腐な慰めにしか聞こえなかろうが、実佳は精一杯の気概を込めて続けた。



「まぁ、でも縁がなかったんですよ。次です、次」


『何それ、やっけにポジティヴだね』



男の唇からこぼれ落ちる笑い声に耳元を甘くくすぐられたような心地で実佳は微笑んだ。



「まぁそこがとりえですからね」


『そっか、俺も見習わないとなぁ。最近仕事で結構心折れかかるもん』


「お仕事ハードなんですか」



実佳が問い返せば、悩みぬいたような長い相槌の後、男が話しはじめた。



『まぁそれなりに。色んなことやらせて貰えるから楽しんでるけどね。君は?』


「私ですか? 目下就職活動中の学生です」


『学生なの!? そりゃ、心折れてらんないね。大変でしょ? 不景気だもんね』


「そうですね。でもなんとかなります。むしろなんとかしますもん」


『なんか、君ならなんとかなるって気になっちゃうね』


「ふふ、それはどうも」



思いもよらないエールに、笑みを零しながら照れ隠しのように髪を撫でた。

実佳は思いもしないうちに、この男のことがほんの少し気に入りはじめていた。最初の覇気のない様子からは想像もできないような話の振れ幅の大きさだ。

きっと、誰とでも自由に話が出来る男なのだろう。そういう人間は大抵もてるものだ。

だから、彼ならきっと大丈夫。心の奥底はほんのりとした温かみを帯びてくる。

割り当てられたデスクの上に、肘をつきながら実佳はインカム越しに聞こえる声に微笑んだ。

元々人好きする気質の実佳だから、たまには、単調な作業から離れて冒険するのも悪くはなかった。



『何話してんだろうなぁ、俺。通信室の女の子捕まえてさ、』


「いいんじゃないんですか? たまには」


『そう思う?』


「まぁ、私も人とやりとりすることは嫌いではありませんし、たまにはこういうのも悪くないって思ってますよ」


『じゃあ、もうちょっとおじさんのやりとりに付き合ってくれる?』


「ふふっ、喜んで」



笑いを含ませて応じると、男は楽しげに笑った。

自らを《おじさん》と称したが、声音は同年代だと云って余る程に若いものだ。

実佳は傍らにあった音楽雑誌を雑誌の山の上に放り投げて、キーボードを打ちながら男の話に乗りかかった。

男の話は純粋に実佳を楽しませた。

彼は世の中を様々な角度から切り取り、それ以上に知識が豊富だった。だというのに決して衒学的な雰囲気はなく、上から物を言うような威圧感もなかった。実佳にはそれが、大学でお気に入りの教授から講義を受けているような心地よさに感じられた。実際話題は多岐にわたった。それこそ、恋の話。前の彼女とどこの店で食事をしたか。どんなふうにその時間を愛したか。食事の話、酒の話から政治の話、スポーツの話、音楽の話など括りはつけられなかった。

殊に音楽の話になると、彼の造詣の深さを匂わせた。



『へぇ、じゃあバイト代殆どレコード代につぎ込んじゃうんだ』


「だって赤坂のレコード屋さん、結構高いんだもの」


『ああ、じゃあソウルが好きなんだ?』


「そうそう、全身で音楽を愛してる感じが特にね。彼らの文化的な背景とか、卒論に書きたいんだ」


『へぇ、面白そうだね。大学は? 専攻は何?』



そうやって、好きな音楽や自らの事について語らえば、窓の外が仄かに明るくなっていくのがわかる。



「もう朝みたいだね」



ブラインドの外を目を細めて見つめながら実佳が呟けば、インカム越しに慌てたような声が響く。



『やべっ、夜通し付き合わせた?』


「私は大丈夫。これから帰って寝るだけだし、そっちは?」


『俺は昼から仕事だけど・・・』


「じゃあ切った方がいいね。ありがとうお兄さん、楽しかったです」


『お兄さんじゃなくて秋山ね。ねぇ酒井さん、下の名前は?』


「実佳」


『じゃあ実佳ちゃん、またいつか』


「秋山さんも、元気でね」



さようなら、どちらともなく繋がりを切り、二人はただ名前を知っているだけの他人に戻る。

不思議な夜であった。―「あ、」実佳は思わず口元に手を充てる。



「下の名前聞くの忘れちゃった」










***










あれから数か月、コールセンターを辞めた。

就職活動がなんとか功を奏したということもあるし、卒業論文に専念するためだということもある。

貯金を切り崩してレコードを買い、クラブで知り合った外国人にインタビューを取り、気の置けない友人たちと音楽について語らう。恋人と騒ぎながら時を過ごす。そんな穏やかな時間たちが実佳には愛おしく感じられた。

人気の少ないコーヒーショップのラジオから流れるアイドルの謳うポップミュージックを聞き流しながら、実佳はフェードアウトする音源の向こう側に懐かしい声を聞いた。



『―秋山さん、結構前に面白い体験をされたとお伺いしたのですが』



不意に飛び出してきた《秋山》という苗字に流風は肩を揺らしかけた。



『そうなんですよ。間違い電話みたいな按配で、名前も知らなかった方と世間話で一晩中盛り上がっちゃったんですよ』



スピーカーを通して響く声音に、実佳は椅子から転げ落ちそうになった。

喉に引っかかったように言葉が詰まり、直感どころか記憶の中にあった声と重ね合わせる。間違いようもない。紛れもなく、彼だった。



『名前も知らない方と?』


『そうなんです。まぁでも最後はお互い名乗りましたよ』


『秋山さんも本名名乗られたんですか?』


『タイミング的に名前までは名乗ったか忘れちゃいましたけど、苗字は一応』


『へぇ、じゃあ喜ばれたでしょう? その方』


『いえ、それが全然気づかれないんですよ』


『またまたぁ~本当ですか?』



茶化すような司会者の声に、苦笑気味の男の声が被さる。



『本当ですよ。お互い初対面・・・っていう言い方はおかしいのかもしれないですけど、気付かれる気付かれないとかじゃなくて、なんかただの秋山として、まっさらな状態で話が出来た気がします。不思議な夜でしたね』



まぁ僕の思い込みかもしれませんけどね。と添えられる言葉に実佳は掌の下で呟いた。「違うよ」―・・・決して、あなたの思い込みなんかじゃない。

ラジオから流れる声は、実佳が現実を受け止めきるより先に矢継に話を続けていく。

漸く、話を呑み込めた時、実佳は不思議と唇を綻ばせた。

不意に思い立ったように鞄の中を探り、手帳の中のメモ用紙を一枚便箋代わりに、彼女はペンを取った。

内容は至ってシンプルだった。


 


 






通信室で、アルバイトをしていた酒井です。

あれから気持ちは落ちつかれましたか? 私は無事に就職も決まり、来年から少し遠い国に行くことが決まりました。

きっともう、お話をお伺いすることはないでしょう。

だからお別れの挨拶をさせてください。あの晩私を勇気づけてくれた言葉達を糧に頑張ってみようと思います。

秋山さん、どうかお元気で。


酒井実佳。



 

 



白い便箋に行宛てもない手紙を封じ込めて、実佳は微笑んだ。





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― 新着の感想 ―
[一言] 樹海とかダメですよって言ってるあたりのくだりが、何でかは説明しづらいんですが、何か面白かったです。
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